箸休めの短編集

山田湖

借り物の名言

 目覚まし時計の耳障りな音が遠くから聞こえ、その音が徐々に近づいてくると同時に僕の意識は水中から水面に出るようにゆっくりと覚醒する。まだ少しだけ重い腕を振るい、布団の近くにあるデジタル式の目覚まし時計を手に取る。

 どうやら今は日曜日の6:30らしい。なんだ、今日は日曜日なのか。疲れがたまっていて眠いし、少し寝ようかと思いつつも毎朝6:30に起きて出社の準備をしているという固定化された行動が体にすっかり染み込んでいるため、どうしても寝ることができなかった。

 結果、僕は眠気を携えながらもベッドの上で起きるという文にしてみるとなんともおかしな時間を過ごすことになった。この時間は毎週日曜日に必然的に味わっている、いわば特に予定のない休日の始まりのようなものだった。

 ただ、僕はこの時間が少し好きなのだ。寝ているとも、起きているともつかない中途半端なこの時間がなぜかとても心地のいいものに感じる。

 少し開いた窓から入ってくる隙間風で揺れるパキラの葉擦れの音、近くの高速道路を走る車やバイクの音、窓から見える少し雲のある秋の空、そして、鼻腔をくすぐるコーヒーの匂いによって僕の意識は完璧に覚醒する。

 布団の上に胡坐をかいて座り、パキラと本棚があり、リクガメがいるすこし明るい部屋をゆっくりと見まわす。電気をつけていないこの部屋の光源は窓から入ってくる自然光とリクガメのバスキングライトくらいなものだ。ここで僕は、鈍く頭の中を叩かれているような痛みをようやく自覚する。どうやら昨日は少し、飲みすぎてしまったようだ。



 と何気なくそう考えていたが、

 はて……なにかがおかしい。僕は一人暮らしのはずだ。べつに彼女とかいう夢のまた夢のような存在がいるわけでもない僕の家からなぜ、コーヒーの香りがここまで強く香ってくるのだろう?まさか泥棒、いや人の家でコーヒーを淹れる泥棒って何なのよと寝起きで回転の遅い僕の頭ではこの程度の事しか考えられない。どうやら、この目で見るしかないようだ。

 恐る恐る自室を出て、リビングとキッチンのある部屋へと忍び足で近づく。

 すると、なにやら何かを焼いているような音がする。それにトースターを動かす音も。

 そして、部屋のドアを開けるとそこにはキッチンで慌ただしく作業をしている一人の少年がいた。僕は正直、子供でよかったと思ったのだが、恐らくそれで済むような問題ではないのだろう。

「えーと、何してるの、君?」と、とりあえず目の前の少年との対話を試みることにした。

 すると、少年は驚いたようにこちらを振り返る。体型は小柄で線も細く、髪は墨汁をそのまま垂らしたかのような綺麗な黒髪で、目は切れ長、鼻は高い――総じて、女性のような凛々しさを兼ね備えた少年だった。僕はかっこいいというよりもきれいな印象を持った。

「あ、おはようございます」

「うん、おはよう。で何をしているの?」

「朝ごはんをと思いまして……」

 と、目の前のダイニングテーブルに丸いお皿とスープカップが置かれる。お皿には綺麗にきつね色に焼けた食パンが2枚と、太陽のようにさんさんと2つの黄身が輝く目玉焼き、そして、スープカップの中にはコーンスープが入っていた。

 少年は、恐らく僕の家に貯蔵してあったであろうコーヒー豆を自分で挽き、淹れたコーヒーを持ってきてくれた。

 見ていてとてもおいしそうな朝ごはんのできあがり。

「泊めていただいた、せめてものお礼をと。あ、なんですけど冷蔵庫の中の物、勝手に使ってしまって……」

「あ、いや、それは別にいいんだけどさ、僕が君を泊めたってどういうこと?」僕はなるべく怖がらせないように聞いた。

「え? いや……あーでもなんか酔っていたような感じだったからな……」


 とりあえず、話を聞いてみる。この少年曰く、昨日僕は路地裏で夜を明かそうとしていた少年に「おお、なんやあんさん、なんでこんなところで寝ようとしとるんや? ワイの家で泊まるか、僕?」と言った感じで話しかけ、半ば強引に僕の部屋まで連れてきたらしい。少年に嘘を言っているような雰囲気はなかった。

「え……まったく覚えてないんでけど」

「まあ、足取りもおぼつかないほど酔ってましたし……」

 僕はこの家に越してきてから、まだだれも泊めたことがない。つまり、この少年が僕の家に泊まった第一号である。僕にとってはかなり劇的な出来事のはずなのにそれを覚えていないとは・・・。どうやら僕は相当酒という物に弱いらしい。しばらく、同僚と飲みに出掛けるのは控えた方がいいだろう。

 それに、よくよく考えれば、関西弁と標準語の入り混じった誘い文句も相当に怪しい。見る人が見たら不審者だ。僕は一気に黒歴史を作ってしまった直後のような言いようのない憂鬱を感じた。まだ休日は始まったばかりなのに。

 そうげんなりしている気配を察したのか、少年が、

「冷めてしまう前に、どうぞ」と言ってきた。

 どうやら、この少年、女子力が高いうえに気配りもできるらしい。

「それじゃあ、いただくとするよ」と少しうれしそうな声がでる。誰であれ、おいしいと確信できるご飯を食べる前は少し、気分が弾むものだ。

 だが、ここで僕はダイニングテーブルの上に1人前しか用意がないことに気づく。

 間違いなく、この少年は自分のことを考えていない。昨日の夜から何も食べていないだろうに。

「君の分はいいのかい?」

「いえ……僕は……」

「いいんだよ。これだけの料理、僕だけでは食べきれない。ああ、もしかしたらアレルギーとか?」

「いえ、アレルギーとかはありませんが……」

 ここで、僕はキッチンの隣の食器棚へと足を向け、フォークとスプーン、そして僕のとおなじ白い皿を持ってくる。

 そして、パン1枚と目玉焼きを半分に切って、お皿に乗せる。鍋をのぞき込むとまだスープに残りがあったのでスープカップに入れてテーブルに置いた。

「さ、食べよう」

「いいんですか?」

「もちのろんだ。早く食べよう」

 そうして、二人でテーブルを囲む。こうやって家で誰かと一緒にご飯を食べるのは、少し久しぶりだった。

 目玉焼きは絶妙な塩加減で焼かれ、コーンスープはトウモロコシの甘みとうまみをコンソメが絶妙に支えており、市販の物の数倍以上美味しかった。久しぶりの美味しい朝ごはんに舌鼓を打つ。



 ただ、僕はまだ大事なことを目の前の少年に聞いていない。



 それは……

「なんで、路地裏なんかで夜を明かそうとしていたんだい?」


 この少年の服は真新しい。それに髪がきれいすぎる。毎日お風呂に入っていたのは間違いないだろう。どう見てもホームレスのようには見えない。

 この質問をした瞬間、少年の体が固まり、すこし顔が強張った。

 それでも、僕は何も言わず、ただ少年を見つめる。

 今、この少年は見ず知らずの28歳のおっさんにこんなことを言っていいものだろうかと葛藤しているに違いない。

 そのまま、30秒ほど考えた後、「実は……」と口を開く。

「実は……僕、来年に高校受験を控えているんです。それで、昨日、僕の親は普通科の学校に行って欲しいと言ってきたんです。でも、僕は音楽の専門学校に行きたくて、それを親に言ったらまあ当然のように猛反対されて……。それで僕もついカっとなってしまって言い返したら大げんかになって。それで家出したんです」と、少年は居心地悪そうに言い終えた。

 ……なるほど、要は夢を追うか、現実を見るかということだ。この年の少年、少女なら少しは考えたことがあるだろう。ただ、思ったよりもハードな内容に少し困る。

「すいません。あまり気持ちのいい話では無いですよね……」

 さて、どう返したものか。今度はこっちがじっくり考える番だった。原稿を頭の中で組み立てていく。この瞬間、僕は作家になった気分だった。


「僕も高校受験の時は同じような感じだったよ。僕は、小説家になりたくてね。その手の学校に行きたいと言ったら、案の定すごい反対されて。結局は普通科の学校に行くことになってね。でも、そこで凄いいい友人たちに出会えたんだ。今は、まあ彼女とかはいないけどそれなりに幸せな生活を送っているよ。昔の夢を思い出すことは、今はもう無いに等しい」

「じゃあ、やっぱり普通科の学校に行った方が……」

「でも、僕の中学の友達は画家になるって言って、周りの反対も聞かずに美術系の専門学校に親に土下座してまで進学したんだ。自分に1番近しい人に土下座だぜ?よっぽど行きたかったんだろうな。それでそこでメリメリと頭角を現して、今じゃ世界的に絵の売れている画家だよ。ほらそこに飾ってある絵は彼がくれたものなんだ」と青が基調になっている山の絵を指差す。

「じゃあ……やっぱり自分の夢を追った方が……」

「でも、そうやって自分の夢を追いかけて、散って行って虚無のまま人生を終えた人だって世の中にはいるんだ」

「なんか……もうよくわかりません。どうすればいいんだろう」少年が音を上げた。

「そう、何よりも悩むことが大事なんだ。将来への選択を前にして安直に考えていたら、いつかは失敗する。後悔することになる。昔の映画の名台詞で『人生は白紙のようなものだ。未来は決まっていない、自分たちの手で切り開くものなんだよ』っていうのがある。悩んだ末に自分の意志で決めた選択なら、やり直そうと思うことはあっても、後悔することはない」

「まあ、僕が言えることじゃないがね」と付け足す。

「それでも、悩んだ末に失敗したら……。そうやって絶望する人もいるのではないですか?」

 なるほど、そう返してくるか。確かに選択に失敗は付き物だ。後悔はなくとも絶望して立ち上がれなくなるかもしれない。絶望の暗雲は、時に快晴の空を曇らせることもある。

 だが……

「赤毛のアンを象徴するセリフを知っているかな?」

「えっと、読んだことは何回か……。でもすいません。思い出せないです」

「まあ、人それぞれ回答は違うと思うけど、僕は『この道をまっすぐ行って、曲がり角を曲がった先にはどんな景色が広がっているのだろう』というセリフだね。だいぶはしょったけど。要は、自分の選択した道の先には希望があるかもしれないし、絶望があるかもしれない、ということだ。でも、どんなに絶望が広がっていても希望があっても、歩き続ければいつかは選択という曲がり角があるはずなんだ。その先は今よりもまぶしい希望の世界かもしれないし、絶望の世界があるかもしれない。大事なのは、自分のペースで歩き続けることなんだよ」

「歩き続ける?」

「そうさ、そのままとどまっていたって曲がり角はやってこないだろう?」


「それも……そうだよな」


 この時の少年の晴れやかなそして覚悟に満ちた顔を、僕は忘れることができないだろう。その顔はとても美しかった。

「分かったのなら、今すぐ家に帰ってもう1度よく考えることだよ。少なくとも君はここで永遠と過ごすような存在じゃない」

「え……でも片づけは?」と空になった自分の皿と僕の皿を見て言う。

「片付けぐらい、自分でやるよ」と笑い交じりに返す。

 それを聞いた少年は立ち上がり玄関まで歩いて行った。ぼくも後に続く。

「あの、泊めていただいて本当にありがとうございました」

「こちらこそ、最高の朝食をありがとう。結果が決まったらまた、おいで」

「はい!」と言って、少年は玄関のドアを開ける。そして、雲一つない空が広がる外の世界へ歩き始めた。

 この少年を元気づけたのは、僕自身の言葉ではない。言ってしまえば、僕が名言と呼ばれるものにいろいろと付け足した「借り物の名言」だ。だが、名言というものは誰かの道を照らしたり、行動の根元になるために存在するのだ。

 時間はまだ、9:00。僕はリクガメに餌を与えるため、伸びをしながら自室へと向かっていった。

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