後書き 永遠若葉
天国の曾祖母がもし読んだらどう思うでしょうか。
なかなかよくできているとほめてくれるか、全然違うと怒るか、勝手に日記を見るなんて、と眉をひそめるか、それはわかりませんが、わたしの持てる力を出し尽くしたつもりです。
さて、本当であれば作者たるわたしのことを少しでも書いた方がよいのかもしれませんが、ここではもう少し本編に関わることを記しておきたいと思います。
まず、曾祖母の経歴について簡単に記すと、彼女は国村光次郎氏と死別したのち、1952年に結婚し、翌年に私の祖父になる男児を産みました。
曾祖母は終生東海地方の故郷に住み続け、時折あの葉桜を見に行っていたとのことです。もちろんその様子も日記に記されています。
親族に話を聞くと、昔と全く変わらず理知的で、微笑みを絶やさない優しい人だったそうです。
わたし自身はあまり話をした記憶はないのですが、病床で、「遠い所からよく来たねぇ」と優しく笑いかけてくれたのを覚えています。だから、親族たちの持つその印象は正しいものなのでしょう。曾祖母の葬儀で涙を流す親戚がたくさんいたのは、その
戦後、もちろん災難は少なからずあったでしょうが、総じて彼女は、幸せな一生を送ったのです。
曾祖母の日記には、わたしを含めたひ孫世代の家族のことも詳細に書いてあります。
ほとんど関わりのなかった曾祖母が、きちんとわたしのことを認識してくれていたと知ったとき、わたしの胸には嬉しさと気恥ずかしさと、
しかしこの後悔は、決して消えるものではありませんし、今更どうにかなるものでもないので、これ以上考えることはやめましょう。
次に、日記の記述に関してです。
前書きにも記した通り、曾祖母の日記は一般的な日記同様、その日におこった身の回りの出来事や世間の事件を記しています。
それだけでも当時の暮らしや、歴史的事件への一般人の視点などがわかって大変興味深いのですが、本編にも書いた、ある部分だけ、異色なのです。さながら『
ここまで読んでくださった皆さんも、違和感を覚えた箇所があるでしょう。
以下、その記述を一部引用します。
『
明らかに異色な文章です。
後に加えられた注には「不自然。和子が私の手首に紐を結んでおいたはず。その紐を外して歩き回ることなどできない」と記しています。それほどまでにこの部分は特異なのです。
目の前で繰り広げられた怪奇現象は何か。
そして、手首には紐がかかっていたはずなのに、どうして表を出歩けたのか。
この点に関し、あくまでわたしの解釈で、いくつか
一つは、そもそも全てが夢であったという推理です。目の前の怪奇現象も、外を出歩いたということも、全て夢もしくは妄想という説です。
しかし、これは即座に否定できましょう。なぜなら、朝、起床した際に、足袋の裏が汚れていたという記述が残されているためです。それが、もし曾祖母のみが
途中、和子さんが曾祖母の日記を見ていたことをにおわせるシーンがあったかと思いますが(空襲直前、曾祖母が自作の小説を和子さんに送ったシーン)、実は曾祖母の日記は意外と家族に見られていたようです。
となれば、『足袋の裏に汚れが付いていたのを和子と確認した』という日記の本文に対して、和子さんから異議申し立てがあってもおかしくないのです。
しかし、日記を見る限り、そのようなことがあったことは読み取れません。
そうであるなら、曾祖母の足袋には確かに土汚れが付いていたとするのが正しいのでしょう。であれば、やはり外に行ったということになる。
そこで、怪奇現象は一旦おいて、今度は曾祖母が外へ行ったと想定してみます。
この際、障害となるのが和子さんとつながれた紐です。この紐が一体どれくらいの長さで、どれくらいの太さだったかはわかりません。
しかし、思い出していただきたいのは、初め曾祖母が拘留されたときには、和子さんと彼女をつなぐものは縄だった、という点です。この「縄」と「
結論を先取りしてしまえば、縄から紐に拘束具が変わったことで、曾祖母は確実に動きやすくなった。
日記を見ると、縄から紐に変わったのは意外と早くて、
では、なぜ曾祖母はあの夜に抜け出そうと画策したのか。
それは言うまでもなく、その日が光次郎氏の四十九日だったからでしょう(曾祖母の日記には気づかなかったと書いてありますが)。
もちろん、
ここからはさらに推測になりますが、恐らく曾祖母は日記の記述通り、あの堰堤に上ったのでしょう。彼との思い出のつまった、あの葉桜のある堰堤へ。そこで思いついたのが、葉桜の下への
そしてきっと、このとき曾祖母は一人で歩いているなどと思っていなかった。光次郎氏とともに歩いていると、そう思っていたはずです。彼女は「彼がいるからこそ、こんな暗い夜道でも歩けるのだ」と、祭りの日の日記に残していますから。
以上、私の推測をまとめると、まず曾祖母は縄から紐に自らの拘束具が変わったことにより、抜け出すのが容易になったと気付いた(もちろん、そのときから脱走することを考えていたわけではないでしょうが)。そして彼の四十九日の夜、庭から外に出た。このとき玄関からでなく、庭から出たのは、きっと玄関の扉が厳重に
こんなことを言ったら、さすがの曾祖母も怒るかもしれません。しかし、だから曾祖母が悪いというようなことが言いたいわけではないので、見逃していただきたいところです。
それにこの説には弱点もあります。
例えば、光次郎氏の姉も同様の夢を見ているという点です。ただ、わたしは、これは曾祖母の創作ではないかと思っています。何故なら、光次郎氏の自宅を訪ねた際、彼の姉と会話をしたのは曾祖母だけで、
若干あら捜しというか、
最後に、もう一つの不思議な現象について、あの季節外れの葉桜について、述べることとします。
実物を見た方が早いと思い立ち、私は現地に向かいました。本当に葉だけを見せる桜が存在するのか。季節は春、本来、桜の花が散る候。わたしは、曾祖母と光次郎氏の愛した
はたして、その桜はすぐに見つかりました。
薄桃色の並木の中、ただ一つだけ、季節を先取りしたかのように、その木はありました。
川の流れ、対岸に集落、風の音、清涼。そこに立つ木は、確かな存在感を持っていました。
その後、わたしは姉妹の中で唯一御存命の
本編に書くにあたって使用させていただいた日記を、現在の持ち主である彬子さんに返却するためです。齢80を超えた彬子さんは、こちらが申し訳なるくらいわたしをもてなしてくれました。
この機会に、わたしは堰堤の葉桜について質問してみました。
あの木は本当に葉しか見せないのか。そんな木が、果たして存在しうるのか。他にあの木について知っていることは無いか等々。
その質問の一つ一つに、彬子さんはつぶさに答えてくださりました。
彬子さんによると、あの木は明治期から既に存在し、他の桜同様、花を咲かせていたとのことです。そして、曾祖母がお骨を納めてから永遠葉桜となった。
「そんな木が枯れずにいるなんてありえるのでしょうか」
そう問うと、
「植物学のことはわからないけど……。でも、現にああしてあるからねえ……」と戸惑ったようにおっしゃいました。無粋な
科学的な証明など、不要なのです。どうしてそんなものが存在しうるのかはどうでもよくて、それがそこにあるということだけが唯一の真実、現実なのであり、説明など必要ないのです。曾祖母も彬子さんも、そうやってあの葉桜を見つめていたのです。
なら、わたしもそれ以上の追及は必要ないでしょう。
そして帰り際、彬子さんは日記には記されることのなかった、ある事実を教えてくださりました。
「実は、姉さんが亡くなった後、あの桜の下に、分骨したの。遺言通りね」
身体の奥から震えが走ってきたのを感じました。
彼女はずっと、死別してから80年以上も経っているのにもかかわらず、光次郎氏を覚えていたのです。そして、長き生の果てに、再び彼の元へ
浮かびかけた涙をこらえて彬子さんの家を後にし、帰り道、わたしは再びあの葉桜の下に立ちました。
どうしてでしょう。たった先刻までと何も変わらない、日の当たる角度がわずかに変わった程度の違いにすぎないその永遠若葉が、全く別のものに思えました。
同時に、とても愛おしく思ったのです。光次郎氏がこの木を愛した
ながくなってしまいましたが、これで曾祖母の日記に対する追加記述は終わりです。
そして、最後にわたしがこれを小説にしようと思った理由を述べたいと思います。
それは、先に挙げた「後悔」が最たる理由です。
曾祖母が90年にもわたる長き人生の中で、
しかし、わたしの何よりの後悔は、それを曾祖母の生前に気付くことが出来なかったということでした。
そんなわたしが思いついた、たった一つの手段がこれだったのです。
曾祖母の
これを曾祖母に見てもらうことはできません。そもそも、彼女がいないからこその産物がこれであるわけですから。
しかし、それではただの一方通行に過ぎません。ただの発話に、独り言に過ぎません。
これを「会話」にするにはどうしたらよいか。その方法は一つしかないでしょう。
全てを書き終え、筆を置いたら、わたしは
曾祖母は、突然ひ孫から贈り物が来たと驚くことでしょう。まして光次郎さんは全然知らない未来の人間から何か来たと眉をひそめるかもしれません。しかし、ご
どうぞ、読んでみてください。といっても多分、この部分を最初に読むことはないのではないかと思いますが。
さて、書きたかったことは、これですべて書くことが出来ました。
ここまで読んでいただいたすべての人に感謝します。原本は葉桜の下に埋めることとなりますが、このコピーは残すのでご安心ください。
真宮 早和
亡き曾祖母に 国村氏に 曾祖叔母 和子氏 サク氏に捧ぐ
真白なる 花の名残は なかれども なおとどまらむ 葉桜のもと 愚詠
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