番外編

【過去】涼川 楓の生い立ち

 私は良い子だった。


 幼い頃から両親にはよく「楓は良い子だね」と言われた。

 私もそう言われるのがすごく嬉しかった。


 父親も母親も科学者で、滅多に家にいることはなかった。

 それでも母親はできるだけ家に居る時間を作ってくれた。


 幼稚園を卒業した頃、両親はそれまで以上に多忙になった。

 忙しい両親に迷惑をかけぬよう、何でも自分一人でやるようになった。


 一人で洗濯や掃除ができるようになった時にも、料理を覚えた時にも、


「楓は良い子だね。これからもずっと、良い子でいなさい」


 両親にはそう言われた。

 私は純粋に、嬉しかった。



 小学四年生の遠足の時。

 学校の子と喧嘩をしてしまった。


 その子はすごくかわいいお弁当を持ってきていて、みんなに自慢するように見せびらかしていた。

 一方私はおにぎりが二つだけだった。


 別にそれは大したことではない。

 忙しい両親の為に、自分で何でもする「良い子」でないといけなかったから。


 それでも、かわいい弁当のその子が、


「涼川はおにぎりだけなのね。手抜きな親なんだね」


 私にそう言ってきた。

 馬鹿にするような言い方だった。


 違う。

 お父さんもお母さんも物凄く忙しいんだ。

 手抜きなんかじゃない。

 私はお父さんとお母さんの為に、良い子でいなくちゃいけない。

 迷惑をかけちゃいけないから、自分でご飯を用意しただけだ。

 お父さんとお母さんは立派で、アンタが馬鹿にしていいわけがない。


 そんな言葉たちを必死にぶつけてやった。


 そうするとその子は。


「ふうん。でも、私のママもパパも忙しいけど、弁当作ってくれたよ。作ってくれないってことは、涼川、愛されてないんじゃないの?」


 そんなはずはない。

 いつも褒めてくれるお父さんやお母さんが、私を愛していないはずがない。

 私は良い子だから。

 あんたみたいな奴にそんなことを言われる筋合いはない。


 気が付くと私はその子に暴力を振るってしまっていた。

 許せなかった。

 両親を侮辱された気がして。



 喧嘩は大事になり、後日母親が学校に呼ばれた。

 母親は必死に相手方の両親に頭を下げていた。

 どうして。お母さんは悪くない。悪いのはひどいことを言ったあの子だ。

 私も謝ることを強要された。

 どうして。お母さんやお父さんを悪く言った人に謝らないといけないのか。


 そしてその日の夜、自宅で母親にこう言われた。


「楓、ちゃんと反省して二度とこんなことはしないでちょうだい。ちゃんと、良い子になさい」


 どうして。


 私はお母さんやお父さんのことを悪く言った奴を許せなかっただけなのに。

 確かに暴力は良くなかったけど、親を侮辱されても我慢しろってことなのか。


 私がそれらを言うと母親は、


「楓、時には我慢も必要なの。嫌なことをされても、やり返したらいけないのよ。楓は、もっと良い子にしていなさい」


 そうか。

 私は良い子じゃなかったのか。


 だからお母さんは怒っているんだ。

 もっともっと、良い子になって迷惑をかけないようにならなきゃ。


 それがお母さんとお父さんの望む「良い子」なら。




 中学生になってすぐに、父親が捕まった。

 婦女暴行罪、ニュースではそのように報道していた。


 母親は家に居ることが多くなって、


「お父さんはね、悪い人間になってしまった。楓、あなたは良い子でいてね」


 頻りにそう言っていた。


 私は良い子でないといけない。

 それが両親の望む私だから。


 やつれた母親の顔を見ながら、自分は良い子であり続けようと決心をした。



 やがて、私の父親が犯罪者であるといううわさが学校中に広まった。

 すぐに、クラスの女子が嫌がらせをしてくるようになった。


 最初は靴を隠されたり、ノートを破かれたり。

 机の上にひどい落書きをされたり、給食に虫が入っていたり。


 いじめはどんどんエスカレートしていった。

 それでも私は我慢した。


 良い子でいなきゃいけなかったから。

――時には我慢も必要なの。嫌なことをされても、やり返したらいけないのよ。

 そう言われていたから。


 トイレの個室の上から大量の水が降ってきても。

 体操服が泥で真っ黒になっていても。


 それでも私は我慢した。

 良い子は、我慢できる子だから。


 幸い、見えて残るような暴力などはなかったので、母親にはバレることはなかった。


 それでも。

 どうしても辛くて、どうしようもなくなって、一度母親にいじめについて告白したことがあった。

 

「そう。でも、いじめられる側も悪いところはあるのよ」


 返ってきた言葉はこれだけだった。


 そうか。

 私が我慢できずに、母さんに泣きついたから。

 我慢できないのは良い子じゃないから。

 だから母さんは冷たかったんだ。


 もっと、良い子にならないと。

 それじゃないと母さんに愛されなくなってしまう。


 かわいい弁当のあの子の言う通りになんかさせない。

 私は、愛されてる。

 良い子にならなきゃ。



 それから二年生になってクラス替えがあった。

 それでもいじめは止まなかった。


 ひそひそと周りで言われても、わざとぶつかられても。

 ずっと我慢し続けた。


 良い子にならなきゃいけなかったから。




 それはある日、私が用を足している時の事。

 その日も、上から大量の水が降ってきて、全身が濡れた。

 もう何十回目かもわからない。悲しくもない。完全に麻痺していた。


 それでも、いつもと違ったのはその後だった。


「あんた達、何してるのよ!」


 聞いたことのない声が、女子トイレに響いた。


「何って、別に」「ねえ」「掃除よ掃除」

「そんなわけないでしょう!!」


 騒がしい。何があったんだろうか。

 私は濡れたままの体で個室から出ると、そこにはいつものいじめてくる女子三人と、見たことのないセミロングの女子が口論になっていた。


「あんた、大丈夫?」


 セミロングの女子は私に声をかけてきた。

 私が出てきたことに驚いたのか、いつもの女子三人はそそくさと女子トイレを後にした。


 私は黙ってそのセミロングの女子を見ていることしかできなかった。


「とりあえず、保健室行きましょう。着替えないとね」


 

 セミロング女子に連れられるがまま、私は保健室でその子が渡してきたジャージに着替えた。


「あんた、いつもあんなことされてるの?」


 セミロング女子は私を気にかけているようだったが、返事はしなかった。

 大丈夫、私は我慢できる。良い子だから。


「本当、トイレってところが陰湿ね。あなた三組の子よね。名前は?」

「…………涼川」

「そう。いつからあんなことされてるの?」


 どうしてこの子は尋問してくるのだろう。

 私は別に大丈夫なのに。


「やってたやつらも三組よね。クラスでもひどいことされてるの?」

「……大丈夫」

「何が?」

「私は大丈夫です……我慢できるから」

「はあ?」


「我慢しないと良い子じゃなくなる。良い子じゃないと愛されなくなる。それは嫌です」

「あんたねえ……」


 セミロング女子は一瞬悲しそうな顔をして、すぐにキリっと怒った顔になった。


「なんで我慢するのが良い子ってことになるのよ?」

「だって……お母さんがそう言ってたから。良い子でいなさいって」

「私は、我慢することが良いことだとは思わないけど」

「あなたの意見は聞いてない! 私はお母さんの言うことをきかないといけないの」

「どうして?」

「どうしてって……」

「どうして?」

「……じゃないと、愛されなくなるから」


 私がそう言うと、セミロング女子は溜息をついてまた悲しそうな顔になった。


「そんなに、愛されることって、必要なことなの?」

「え」


 保健の先生も留守にする保健室で、セミロングの女子と二人きり。

 もう一度小さくため息をついたセミロング女子は、こう続けた。


「これは私の意見だから、聞きたくないなら忘れて。私は、親に縋るのはもうやめた。そりゃ小さいうちは父親にも母親にも愛してもらいたかったし、縋ったこともあったわ。それでも、どんなにこっちが思っていても同じように思ってくれるとは限らない。だから私は親に頼ったり甘えたりするのはやめたの」


 ただ、捻くれた不良の考えだな、と最初は思った。


「そりゃ、金銭面とか、頼らなきゃならない部分は絶対にないわけではないし、それを受ける以上は恩を返すのは当然だと思うけど。だからといって、自分がすごく嫌な思いをしてまで、親の為に我慢するってのは違うと思うわ」

「でも、私にはもうお母さんしか……」

「私にだってもう父親しかいない。けど、私は多分父親に愛されてないわ」

「え」

「でも、私は我慢するのはもうやめたの。我慢し続けた結果、何もいいことはなかったから」


 嘘だ。我慢していれば、良い子にしていれば、きっと――。


「あなたの親はきっと、あなたの不幸を祈ったりはしていないでしょう?」

「……」

「それならあなたが我慢して不幸な思いをしているのは、親の祈りに反するわよ」


 どういうことだ。


 我慢するのが良い子であって。

 良い子でいるのが親の望みなのに。

 我慢をして不幸な思いをすることは、親の望むことではない。


 矛盾に行き詰った。

 どうしてもっと早くこの矛盾に行きつかなかったのだろう。


「それに……」


 セミロングの少女は何故か顔を赤らめて、


「親以外にも、自分を見てくれる人ってのは居るものよ。そういう人を大切に思って、生きていけばいいの。だって、そう……人間ひとりひとりなんて、地球で見れば本当に小さな点でしかないのよ」


 急にスイッチが入ったようにセミロング女子は語りだす。


「ちっぽけな点よ。その点と点の繋がりも、それはまたちっぽけなの。そんな脆い線一つで、全部を無駄にしたり我慢したりするのは、馬鹿らしいと思わない?」


 私には、両親がすべてだった。

 友達もいない、兄弟もいない。

 ずっと孤独に生きてきた私にとって、両親はすべてだった。


 その両親との絆を、この子は脆い線だと言った。


「私には……お母さん以外には誰もいない」

「いないなら見つければいいじゃない。それに、案外、いろんな人に自分は見られているものよ。それが偶然でも、ね」

「…………」

「例えばそうね、私とか」


 セミロング女子はちょっぴり恥ずかしそうにそう言った。

 意味の分からない感情が湧き上がってくるのを感じた。


「まあ、あなたを見つけたのは偶然というか、たまたまだったけど。たまたまってのも馬鹿にできないのよ?」


 ニカリと笑うセミロング女子。

 その笑顔を見て、どうしてか小さな頃を思い出した。


 今は居ない父さんからの、今は薄くなった母さんからの、両親から向けられる優しい目線。

 あの頃はもっと、私は自由に生きていたと思う。

 いつからだろう、自分の意思がなくなったのは。


「まあ、私ってのは冗談だけど、アンタはもっと自由に生きなさい。嫌なことは嫌といえばいいし、やりたくないことはやらなきゃいい。まあ、勉強とかはやんなきゃだけどね」

「でも……」


 そうしたらお母さんは……私を見放すかもしれない。

 孤独は嫌だ。一人は嫌だ。


「なんて顔してるのよ、涼川さん。可愛い顔が台無しよ。それに、本当に困ったら私に相談していいから。もし親に突き放されたら、私があんたの母親代わりになってあげてもいいわ。――同い年で母親は変かしら。じゃあ、そうね……主君とか? あはは、冗談だけど」

「主君……」

「そ。まあ主君は冗談よ。要するに、親がすべてって考えをやめなさいってこと。あんたはあんた。あんたはあんたの為に生きてるのよ。良い子でも悪い子でも、あんたはあんた」


 最後にセミロング女子の言葉で私の中の何かが砕け散った。


 今までの生き方が否定されたからではない。

 自分の辛かった過去を分かってもらったからでもない。


 もう、良い子でいなくていいと、思ったから。

 「良い子」の柵が取れた瞬間、私は涙が止まらなかった。

 セミロング女子にはあたふたさせてしまって申し訳ないことをしたと思う。



「それじゃあ、一つお願いがあります」


 泣き止んだ私は図々しくもセミロング女子に一つお願いをした。


「何かしら……私にできることならいいけど」

「さっき言ってた……その、そう、主君。私の主君になってください」

「…………あの、それ冗談なんだけど」

「お願いいたします、どうか」


 すごく辛かった以外の、私の生きる意味を、一つください。


「何それ……まあアンタがそうしたいならいいけど」

「ありがとうございます、どうかその、ご尊名をお聞かせください」

「…………鏡だけど。その喋り方やめてくれない?」


 その日から、私は良い子を辞めた。

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