天使の言葉
久しぶりの雪との会話で機嫌の良い俺は、鼻歌でお気に入りの曲を歌ってしまいながら駐輪場で母親の御下がりのボロい自転車に跨り、帰路に就く。
校舎を出てすぐ傍に大きめの川があり、それをひたすらに下り、河口少し手前で住宅街に入り込めば自宅に着ける。
しかしこの川が非常に厄介で、登校の朝八時頃は川上からまるで試練でも与えるかのような強烈な風が吹き荒び、自転車登校者達は学校に着く頃には髪は乱れ、体力は消し飛ぶ。
そして下校頃の夕刻、追い風かと思いきやこれまた川下からの向かい風に当てられる。
大陸の温度が関係しているだの風の通り道だの、理由を調べてみたこともあったが、兎に角川沿いが自転車に向かない事だけはしっかりと覚えた。
普段なら溜息をつき、回り道をして下校するところだが、なにせ気分が良い。
カラカラと唸る錆びついたチェーンに強引に
逆風が負荷をかける。逆光が眩しい。砂埃が目に入る。
しかし今はそのどれも、人生のスパイス程度にしか感じられない。
背後の遠くから俺を呼ぶ大きな声が聞こえた気がした。
「ナツキ」
瞬時に上半身と首を回せるだけ回し、背後に目をやる。
誰もいない……。
空耳かな、と考えた刹那、今度は前方から爆音の警笛が鳴った。
「おわっ――」
慌てて首を前に戻すと左から大型トラックがまさに俺の自転車に衝突する寸前だった。
急ぎハンドルを右に回すも空しく、重車両は想像以上に重く大きな衝撃を自転車ごと俺に与えた。
衝撃とともに前方上向きに身体が投げ出されたその時から、不思議なことに全ての感覚がスローモーションのようにゆっくりになった。
無力にぶっ飛ぶ全身は、このままだと荒い放物線を描き石塀に打ち付けられるだろう。
冷静に俯瞰して分析する俺と、ぐわりと宙に浮いている感覚と、聴こえなくなる周りの音。
と同時に様々な映像と音がフラッシュバックした。
――初めてクリスマスケーキを食べたとき。
――猛暑の中のグラウンドの白線引き。
――風呂でのぼせたときの母親の顔と叫び声。
――初めて雪と話した時のあの笑顔。
最後以外ろくな映像ではなかったが、これが走馬灯というものなんだろうか。
ゆっくりと浮く俺の体は放物線の頂点を越え、次第に景色が上がっていく。
と同時にもう一つ、音声がフラッシュバックした。
『――そうです。死にます』
つい数時間前の自称天使の発言だ。
ふざけるなよ、チクショウめ、当たってるじゃないか。
まさか本当に天使だったのか?
あのへんちくりんな電波ちゃんが天界からの遣いかなにかで、俺を危機から守ってくれる存在だったのか?
まあ、いいさ。
仕方ない。
せめて死ぬ前にこうして宙に浮く事ができて空を飛ぶ疑似体験ができたことが救いだろうか。
死んでしまって天界とやらに行く事があれば、そしてそこに天使たる深月が居るのだとしたら、耳を傾けなかったことを謝りにでもいくか――。
――ダメです!
もう一つ、深月の言葉がフラッシュバックする。
一番最初の出会い頭に放った言葉でもある。
死ぬのはダメってか?
あの時もそうだったが、まるで俺の心の声でも聞いているかのように言いやがって。
ああ。
俺だって死にたくないさ。まだ。
まだ俺は何もしたことがない。何も経験してもいない。
見たいものも聴きたいものも食べたいものも感じてみたいことも数えきれないほどあるさ。
だが、この状況だ。
どうしたらいい。
このままだとどう考えてもやばい。
……やばい?
――ヤバイ!と思ったら、必ず何かを掴んでください。
――絶対に掴めるモノがあるはずです。
掴めるモノ……?
スローモーションで下降する
車道、歩道、橙色の空、灰色の石塀……。
の手前に。
これまた灰色の、棒状が何かが地面から天に向かって生えている。
目を上にやるとソレの先には赤い逆三角形が付いていた。
――必ず何かを掴んでください。
ああ――。
ゆっくり動く世界の中、視界左側にあるその灰色の棒に左手を力の限り伸ばす。
分かった――。
無駄に腕だけ長くてよかった、欠点も考え物だな。
「――よ!!!!!」
左手が太い金属の棒をグイと掴むと同時に、世界は素早くなり、そして音を取り戻した。
タイヤが擦れる爆音、金属が引き摺られる金切り声、俺の左手の骨の接触で鳴る控えめな金属音。
掴んだ左手を支点に、遠心力で思い切り反時計回りに身体が回され、掌に突っ張るような摩擦の痛みを感じた。
多分二周くらい世界が回ったところで左掌の痛みに限界がきて、離してしまった直後、臀部と腰に固い衝撃が走り、鋭く広がる痛みとともに俺の意識と世界はフェードアウトした。
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