添削ver

「もう梅雨だよ」

 私は手の中のグラスを軽く傾けた。氷がカランと音を立てた。涼しくて、切ない音だ。

 遥香はるかは噛んでいたローストビーフを飲み込んで、

「去年の今頃は、どこの式場で会ったっけ?」

と言いながらビールに手を伸ばした。

「確か、青木の結婚式。ほら、やたら青くて四角い式場が、日本橋だったか、そっちのへんにあったでしょ」

「ああ……おぼえてない」

 彼女はジョッキを傾けて、炭酸の元気なビールを流し込んだ。喉越しよさげな音がした。

 結婚式の二次会に彼女と二人で飲み明かすのは、これで何度目か分からない。高校生の時はただのクラスメイトだったのに、ある梅雨の結婚式でばったり会って意気投合し、それからずっとこんな関係だ。独り身同士で気楽なこともあり、既婚者の間は肩身が狭いのもあり、わざわざ隣の席に移動して独り身女の会話をする。お互い連絡先も知らないけれど、今や彼女はただの高校のクラスメイトじゃない、れっきとした友達になっていた。

 でも、だからこそ、そんな関係も今年で終わりだなんて、言えなかった。

「人生に一度きりの式なのに可哀想よね、今日の花嫁さんは化粧がベールについて、こう、見るも無残ってかんじだった」

「海外の文化を何でもかんでもホイホイ取り入れるからこうなるんだよ。大人しく雨の少ない時期に挙式しろっての」

「ははは……」

 笑えない。来年の今頃は自分もその仲間入りをするなんて、まったく笑えない。渇いた声が唇の間からこぼれて、ちらりと彼女の方を横目で見るが、彼女は気にした様子もなく枝豆をつまんでいた。また渇いた声が出そうになった。

「やっぱ枝豆だよ、ローストビーフなんて粋がっちゃダメ。ねえあやめは?食べないの?」

「食べる」

 でも酒にだけは手をつけなかった。もし酔っ払った勢いでうっかり、「結婚式で会うのも今年で終わりだね」なんて言ってしまったら、もう取り繕うこともできないからだった。私は、なるべく後を濁さず、とても自然に、彼女から離れなくてはならないのだ。

「ビールは?」

「明日朝早いから、私は今日はいいや。すみません、お冷ひとつ」

「んじゃあ私も」

「はいよ」

 プラスチックコップに水二杯がやってきた。持ち上げ、鼻を近づけてスンとひと嗅ぎしてから飲んで、ちらりと横に視線をやれば、遥香はもうグビグビと流し込んでいる。それでいて、やっぱビールの方が好きだな、とか呟いている。

「ビール飲まなくていいの?」

「うん……うん、いい。そういえば私も明日は仕事があったような気がするし」

「あらま。お互い大変だねぇ」

「まあねぇ」

 などと言いつつ毎年のように、駄弁ってはご馳走を食べ、愚痴ってはくだらないことで笑い、独身女ふたりしてバカみたいに騒いだ。お互いに水しか飲まなかったけれど、酔ったように浮かれてはしゃいで楽しんでいた。これも最後と思えば、何もかもが楽しかった。

 そうして、三次会にいく一行に手を振って、駅の方へと向かった。二人とも酔っていなかったのに、どちらからともなく肩を組んで歩いた。彼女の体温が、皮膚の感触が、生々しくてあたたかかった。

「ふふふ、また来年も誰かが挙式するんだろうねぇ。コバセンの結婚式のこと、もう何年も前だけど、みんなアレ好きだねぇ」

 彼女はほんとうに可笑しそうに、またふふふと笑った。

「あの紫陽花だらけの結婚式は本当に素敵だったもん。憧れる気持ちはわかるよ」

「来年の結婚式も、紫陽花のブーケトスなんだろうな。今度は私も取りに行こうかな」

 と、思いがけないことを彼女が言ったものだから、考えなしに次の言葉が吐き出された。

「え、いい人いるの?」

「今はいないけど、結婚したくないわけじゃないし?いずれは誰かにそばにいてほしいから」

 耳元で、カランと氷の音が聴こえた気がした。

 それを聴いて私は、ふうんとかなんとか呟いたはずなのだけれど、存外小さな声になってしまって、それから、何か言おうとしたけれど、言葉がうまく出なかった。

 きっと遥香は肩に回した腕が邪魔で、私の方を見ていなかったと思う。

「まあ、いつになるかもわからないけどね。もしかしたら四十路超えて熟年婚なんてするかもしれないし。そう言いながら、やっぱり未婚で独身のままで死ぬのかもしれないし」

「……うん」

 外灯に照らされたアスファルトは、昼間に降った雨でてらてらと黒い光を放っていた。私は仄暗い道をまっすぐに歩いた。いつのまにか遥香の体温も、ぬくく感じられなくなっていた。

 改札を前にして、遥香は腕をするりと解いた。その時、焦ったように言葉が口をついていた。

「それじゃ、また来年」

 私のすぐ前に立って、彼女は微笑んだけれど、私には彼女が困ったように笑う理由がわからなかった。遠くからは電車の音が近づいてくる。そのうるさく鉄っぽい音をかき消すように、頭の中で繰り返し鳴る音があった。

 カランカラン、

 カランカラン、

 カランカラン。

 指先まで冷たくなるような気がした。

 カランカラン、

 カランカラン、

 カラン、

 カラン、

 カラン───

「……それじゃ」

 彼女は去った。背を向けて、改札を駆け抜ける後ろ姿の、ドレスが一瞬真っ白に見えた。

 古ぼけた照明が点滅する。ひとけのない駅に、友を失った女が一人立ち尽くしていた。ぽつぽつ雨が降ってきた。

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