0の恋人

紅葡萄

夜明け、心は未明

 カチカチカチ。

 時計は嫌いだ。期限や、空虚に過ぎた時間をたかだか二本の針できっちり指し示してくるものだから。

 お前さえなければ、私がいくら待ったかなんて気にしなくて済むのだ、と文句を言ったところで少しも気にした風もなくただ淡々とカチカチカチカチ言い続ける。

 無機物だからこそ残酷で、即物的で、だから嫌いだ。

 過ぎたか、過ぎてないか、はっきり数字になんてしてくれなくていいのだ。

 期待してれば遅いしどうでもよければ早い。

 気づかない間に訪れてしまった幸運の方が幾らか幸せに感じるものだ。

 カチカチカチ。

 それでも捨てれずにこうして、時計の前で膝を抱えてしまうのは、

 やはり期待してるからなのだろうか。

 

 想像していた時間よりほんの少しだけ早く君が帰ってくることを。




ー0の恋人ー




 部屋はいつも綺麗にしてる。

 帰ってきた時、良かった、と思われるように。

 センスのいい彼氏――深海怜――が買い揃えた高級な家具に、埃は少しもついてないはずだ。

 どこかの物語に登場する意地悪な継母もびっくりな仕事ぶりだと自分で自分を褒める。

 私――高萩美夜――はぼんやりと朝焼けを見た。

 意識が朧げで気だるい。



「おはようございます」

 丁寧な言葉遣い。

 低いけれど明るさと上品さが滲む声。

 良く知ったその声がソファの裏から降ってきた。

 首をそちらに向ける前に、胸に抱えたままの時計を見た。

 予想通りの時間だ。


「おはよう」


 いつも通りの声色を作って身体を起こそうとすると、そっと骨ばった手がそれを手伝った。

「貴女にはベッドで寝る習慣はないんですかね。毎朝毎朝」

 私が時計と不本意な睨み合いをしていたのは、リビングに整然と置いてあるソファとテーブルの間。

 つまりテーブルに時計を置いて、ソファを背もたれにしながらカーペットの上で膝を抱えていたはずなのだけれど、いつの間にか時計を抱いたまま横になってしまっていたらしい。

 寝ようと思って寝たわけではないし、せっかく待っていたのだから小言を言わなくてもいいのに。


「健気に待っていた恋人に向ける言葉がそれ」

「寝てたじゃないですか」

 ああ言えばこう言う。

 無言で睨むと「健気なのは認めますけど」と顔の端正な男は肩を竦めた。


「俺は待っていて欲しいとは言ってないし、今はまだいいけど冬になってもこうだと風邪ひきます。家に病原菌がいても困るんですよ」

「君はどうして、素直に心配してるって言えないの」

「素直に言うと調子に乗るでしょ?」

 シニカルに微笑まれてしまったので、質問についてはシカトを決め込むことにした。

 確かに身体が冷えていたので、空調の温度を少しだけ上げる。

 テレビをつけると、見覚えのある朝の情報番組が流れた。

 昨日、最後に何の番組を見ていてこのチャンネルになっているのか、皆目思い出せそうにない。


「ごはんは?」

「まだです。お腹空きました。作ってくれますか?」

「ダイニングに置いてあるんだけど。通ったでしょ?」

「……んー? そうでしたっけ。じゃああっためて食べます」

「味噌汁だけ私があっためてあげる。怜がやると沸騰させそうだ」

「よくおわかりで」

 この男には生活力が全くと言っていいほどない。

 電子レンジでチンするくらいなら、設定時間を間違えることさえなければ問題ないが、それ以外で台所には天地がひっくり返っても立って欲しくない。



 朝食――これから寝るので夜食と言った方が適切なのかもしれないが――とにかく食事を摂る彼を見届けて、そのあと彼が浴室まで足跡のように脱ぎ散らかした服を拾って洗濯機に放り込む。

 時報のように時間を告げるテレビが六時半と言ったところで彼はお風呂から上がった。

 今日は何かお菓子でも作ろうかな、とぼうっと料理雑誌を眺めていた私の背後から、嗅ぎ覚えのあるシャンプーの匂いが近づいてきた。


「みや」

 私の名前を、彼は猫の鳴き声のようだと言った。

 猫のような性格だから、ぴったりですね、とも。


「今日は少しだけ早く帰ってきますよ。美夜が寂しくて時計を抱えたまま寝る前にね」

「それは助かる。私も風邪ひきたいわけじゃない」

「そうでしょうね」

 ほんの少しの笑顔の気配の後彼は頭に乗せていた小さいタオルを残して脱衣所に消えた。片付けて欲しいと言う意味なのはわかったけど、どうせ洗濯機に放り込むのだから、そのまま脱衣所に持って行ってくれてよかったのに。

 料理だけではなく、あらゆる面で生活力がない男なので、理解させるだけ無駄だ。


 私が脱衣所に入ると、ドライヤーを持った怜は、余程眠いのかドライヤーのスイッチもいれずにうとうとしていた。

 洗濯機にタオルを放り込んで、夢と現を彷徨う背中に声をかける。


「れい、怜?」


 背後から呼びかけても反応はなく、うとうとしてるだけなので、肩をポンポンと叩くと、びくっと体を震わせた。


「ん、あ、はい。起きてます」

「起きてないでしょ。ドライヤー貸して、乾かしてあげるから」


 そう言うと素直にドライヤーを差し出してくる。眠い自覚はあるらしい。


 短い髪は乾くのも早い。

 軽く櫛を入れようとすると、「寝るだけなので」と手を止められた。

 歯磨きをし始めたので、彼を放置して、洗濯機を回すことにする。

 洗剤と、柔軟剤を入れてスイッチを押すだけ。

 これだけなのだが、彼はこれすらできない。

 どうやって生活してたのか聞けば、マンションについてるコンシェルジュに渡すと綺麗になって返ってくる、らしい。

 つまり今と大差なく他人に頼っていたというわけだ。

 出来もしないのになんで洗濯機を買ったのか聞けば、なんとなく必要だと思ったから、だそうだ。

 購入資金が勿体無い。今は私がちゃんと使ってるからいいけど。



「美夜の方が寝てないはずなのに、なんで美夜はいつも元気なんですかね」

 歯を磨き終わって、冷たい水で顔を洗った怜はタオルに顔を埋めながら不思議そうに聞いてきた。


 午後から深夜までが勤務時間の私は、怜の帰りを待ってしまうと、その分睡眠時間が削られることになる。

 彼が寝るまで面倒を見てから、家事全てをこなすことになるので尚更だ。

 一方の怜は、深夜から朝方の短い時間しか仕事に出ていないし、家事をすることもないので、寝る時間は私の倍以上ある。


「自分より心配な奴がいるからに決まってるでしょ」

「俺ですか?」

「以外に誰が?」

「いませんね。美夜には俺しかいない」

 いいながらあくびをして、顔を吹いたタオルを差し出してくる。


「……洗濯機回したのに……」

「明日でいいですよ、別に」

 とりあえず受け取るだけ受け取って、洗濯カゴに入れておいた。


「寝るの?」

「美夜が寝るなら」

 本当は寝たくて仕方ないくせに。

 私を気遣って言ってることはわかったので、そんな嫌味は心にしまっておく。

 とりあえず、寝室に向かって歩き始めると、怜も後を追ってついてくる。


 ベッドに腰掛けて、サイドテーブルに畳んで置いてあったパーカーを差し出すと、彼はそれを羽織って私の隣に座る。


「洗濯物干さなくちゃいけないから、できて仮眠」

 正直言ってあまり寝るつもりはなかった。

 やらなきゃいけないことは山ほどあるのだ。


「なら俺も仮眠で、干すの手伝います」

「いい、いらない。結果倍以上時間がかかる事態になりそう」

「別に干すくらい、俺にだってできますよ」

「ひとつの洗濯バサミで三つも四つもまとめて干す奴に言われたくない」

「ダメなんですか?」

「ダメでしょ、乾かないよ」

「効率的だと思ったのに」

「逆に非効率。いいから寝なさいよ」

「美夜も一緒に。ほら」

 あまり寝る気のない私を見透かしたように怜はいう。

 大人しく一緒に横になることにした。

 短時間とはいえ、さっき少しは寝てるのだ。身体は極端に睡眠を欲してはいない。

 それでも懸命に目を瞑った。

 怜のやたら冷たい手が私に眠って欲しそうに頭を撫でるから。



 ねぇ、怜、知ってる?

 私がベッドで待てずに朝焼けを見る理由。


 言いたかった言葉はぐっと飲み込んでおいた。

 素直になるなんて柄じゃないから。

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