7 アラーム

放課後、僕はカタツムリばりの速度で別館の実習室に向かっていた。後輩指導もそうだし、糸織と一週間二人きりになると想像しただけで憂鬱でしかたなかった。

あのヒステリックを知らない菱のほうは「ヒューヒュー。羨ましいな」なんて軽口も叩けるが、僕はそのヒステリックを目撃どころかぶつけられた本人である。女が怒ると怖いが、美人は怒るとなおコワイ。糸織ならばなおさらだ。あんな恐怖体験は二度とごめんだった。

ーーなにより、僕は元からこんなことやりたくなかった。菱も先生も、それを知ったうえでやらせようとしている。悪いのは僕だし、その気持ち自体はありがたいが、正直たまったものではない。

「はぁ・・」

足が重い。まるで鉛のようだ。

「せめて・・」

せめてもう一度、先生に相談してみよう。もう少し押せば、もしかしたら菱でなくても別の生徒と一緒に指導できるようにしてくれるかもしれない。そうすれば、僕はその誰かさんに仕事を押し付けることが出来る。

そう期待しながら職員室に向かう僕の足元は、なおも鈍かった。


別館に入り、廊下をすぐ右に曲がったところに職員室の扉がある。ちょうど開けっ放しだったので顔を覗かせると、ちょうど出て来た人物とぶつかりそうになった。

「おっと」

「あっぶ・・すみまーーーー」

すぐさま謝るつもりが、その相手の顔を見た僕は来た道を戻ろうと素早いターンをしていた。無意識の上ではあるが、かつ合理的な素晴らしい反応である。しかし、その相手に両肩をがしりと掴まれてしまい、それ以上動くことは叶わなかった。

「なぜ逃げるんだ?」

「な、なんとなくです」

僕を拘束しながらそう訊ねたのは門前払先生だった。職員室まで来た目的は先生との交渉にあるため、それだけなら逃げ出す理由はない。

問題は先生の後ろにいた糸織のほうだった。

「今日も指導でしょ?・・先輩」

今日も指導をするかはさておいて、糸織からの「先輩」呼びに思わず噴き出しそうになる。世界一似合っていないどころか、取り繕いすぎて逆に何かあるのかーーと、緩んだ顔で見つめていたら睨み返されたので表情だけは真顔に戻しておいた。

「糸織くんの言う通りだ。今日は私もついていくので、観念しなさい」

それを聞いた瞬間、またも体が勝手に動いた。僕は僕自身さえも想像していないほど、後輩指導が嫌らしい。

僕は先生の手をほどこうと、先生の手首を掴んで捻りあげようとするーーが、びくとも動かせない。先生は女性の中でもむしろ細身で華奢なほうのはずが、まるで壁か岩でも相手にしているようだった。

「行こうか。神谷君」

「・・・・はい」

どうやら今日も逃げられないらしい。

そもそも、実力も立場も上の先生に背後から拘束された時点で抵抗権を失ったことにまず気が付くべきだった。愚かな僕は先生に肩を掴まれたまま、列車ごっこにしてはやや重苦しい雰囲気で実習室へ向かった。


昨日と同様に、糸織は実習室の端の席へ真っ先に座った。そこは僕と先生からも、最も遠い位置にある席だった。

「喧嘩でもしてるのかい?」

「いえ、そういうわけでは・・」

猫を被らなければいけない先生の前だとしても、嫌なものは嫌らしい。少し非難めいた視線を糸織に送ると、彼女は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

「昨日使ったところと一緒だから・・糸織さんは帯域パスそのままで、昨日と同じように潜航ダイブしてね」

「分かってるわ」

「先生、パス送るので」

「ああ」

リーナには潜航機能の他にも、一般的な通信機器がもっている機能なら大抵のものが揃っている。かといってこれをスマホ代わりに使ったりはしないしできないが、生徒と教師間の連絡にはこれ以上便利なものはない。僕は先生のリーナへ、昨日使った仮想世界への潜航に必要な帯域パスを送った。

そして、いつも通りの手順を踏んでから、僕は意識を仮想世界に移した。


相も変わらぬ草原地帯。爽やかな青臭さが僕の鼻をくすぐっていった。昨日と異なる点は、門前払先生がここにいることだ。

「神谷・・なかなかいい趣味じゃないか」

その先生はというと、この風景のどこかしらがツボに当たったらしい。飄々とした表情を崩し、満足そうな微笑みを浮かべてそう感想を漏らした。

「え?そうですか?」

「ああ・・懐かしいよ。あそこは今も昔も変わらないよな」

――あそこ?

一体どこのことを指しているかと首を傾げて辺りを見渡すが、特に草原以外に変わったものはなかった。そもそも、僕は自分が実習で対応した悪夢をそのまま投影しただけだ。ここが既存の場所だなんて考えたこともない。

「知ってる場所なんですか?」

正直にそう返すと、先生はやや間を空けた後、目を大きく見開いた。まるでなにか大きな失敗をしてしまったような反応だった。そのまま僕と目を合わせ、口元だけを柔らかく歪ませた。

「――いや」

そう濁すと、先生は僕から顔を逸らした。

その反応が気にならないと言えば嘘だった。しかし、僕はこれ以上先生を追求する気にはなれなかった。きっとこの空間が思い出深い場所に重なっただけだろうと、そう考えるほうがいい気がする。

「それで、今日は何するのよ」

「え・・ああ。うん」

この後輩の調子も変わりないようだが、今は渡りに船だ。

僕は一息つくと気分を切り替えて、職員室から実習室へ引きずられながら考えた指導を実行することにした。

「今日は仮想子フラグメントについてやろうかと思ってます」

「授業でやったわよ」

そうでしょうとも。

糸織が「そんなことも分からないと思われるなんて心外ね」とでも言いたげに鼻で笑ったのはさておいて、そういう反応が返ってくることはある程度予想できていた。

第一高校一年生の前期は、特別な事情がない限り座学に費やされる。そして『仮想子』とは、悪夢や仮想体、ひいては仮想世界という存在そのものを構成する粒子のようなものだ。基本のキの字以前の問題であり、まずこれを習わなかったら逆に何を習うのかというレベルの話でもある。

だからこそ、今復習するのだ。

「今度は座学じゃなくて、実践だよ。糸織さん」

僕は僕自身の心が喜びに飛び跳ねていることを感じながら、身振り手振りを用いながら説明を始めた。

「仮想子は仮想世界にいる僕たちの体――仮想体の基でもある」

「だから知ってるわよ」

「つまり、仮想子を操る術を覚えれば?」

その瞬間、糸織の表情が少しだけ輝いたように見えた。と同時に、僕の胸に征服感というか達成感というか、妙な興奮が渦巻いた。

思えば、昨日の糸織との初対面は散々だった。不審者と間違われ、八つ当たりを受け、なぜか先輩である僕の方が後輩の糸織のご機嫌伺いをしていた。

僕は今、初めて糸織相手に先輩らしいことをしている!

「・・もったいぶるんじゃないわよ。先輩」

「はい」

――そううまくはいかないようだ。僕の小さな自尊心はいともたやすく見破られ、また糸織に怖い目で睨まれた。

表面上は強がってはおくが、お昼の件についての罪悪感が動揺に拍車をかけていく。これが性欲に従った報いか、胸がチクチクと痛んだ。僕は少し迷ってから、ここは糸織に素直に従うことを決めた。

「まあ、仮想子を操れれば極論空も飛べるって話だよ」

「なんだ。飛べるだけなのね」

空飛ぶ乗り物を開発した兄弟が聞いたら卒倒しそうなセリフだ。

「というわけで先生、よろしくお願いします」

「私か」

「見てるだけだと暇でしょうし」

それに僕はしばらく落ち込みたい気分だった。

「じゃあそうだな。まずは放出で慣らそうか」

先生はそういうと、片手で銃を形作った。その指先に輪ゴムでも引っかけたくなるポーズに、銃口を向けられた糸織は首を傾げた。

「仮想子は私たちの仮想体にもある。仮想子操作は仮想子を意識し、把握して、操作しなければならない」

先生は口上の合間に僕を一瞥した。その視線は「ネタばらしはなしだぞ」と僕を脅しているようだった。誰にも聞こえない小さな声で、一応返事をしておく。

「分かってますって」

「ふふ・・」

先生が不敵に笑い、その指先が怪しく光る。

――――刹那、空中に流れ星でも走ったような残像に僕は目を細めた。

流れ星は一直線に糸織の胸の中心に吸い込まれていき、そして当然のように貫いていった。彼女は衝撃にもんどりうって、受け身も取れずに後ろへひっくり返った。

「かーーっ」

草の上に横たわりながら痙攣する糸織の胸から血が噴き出す。それは湿った草を汚し、ぬかるんだ地面が赤みがからせた。そんな凄惨な状況に、僕も先生も眉一つ動かさなかった。

そして、それは糸織も同じだった。

彼女は自分の体の痙攣を押さえつけるために、自分で自分を抱きしめながら体を起こした。ガチガチと歯を鳴らしながら、今度は僕ではなく先生を睨みつけた。

「・・なんのつもりですか」

さらに、糸織はいっそう出血がひどくなるのも構わずに、平然とした表情で立ち上がった。僕がやや顔を顰めるのと反対に、先生は心底嬉しそうな顔で笑った。

「いやぁ、さすが仮想体強度も濃度S級だ。びくともしないね」

「糸織さん・・少しは痛がるとかしないの?」

その僕の言葉に、糸織は嫌そうな顔をしながら返事をした。

「仮想世界に痛みはない。リーナが自動検出してシャットアウトしてくれるからって、授業で習ったのよ?痛くもないのにどうやって痛がるのよ」

それはそうなのだが、初めのうちは幻痛を覚えるケースが少なくない。それにいくら痛みはないとはいえ、自分の肉体が傷つき血肉が溢れるところは相当スプラッタだ。これもまた才能かーー少し羨ましくもあった糸織が、今だけは少し痛々しく見えた。

しかし先生はそうは思わないらしい。満面の笑みを崩さず、そのまま糸織へ訊ねた。

「それで、どうだい?」

「どうって・・なにがですか?」

糸織はかなり困惑しているようだった。それも当たり前のことだろう。こんなの誰だって意味が分からない。

「ふむ・・・・穴が足りないかな」

やはり、先生は説明するつもりはないようだ。少しだけ考え込む様子を見せたが、すぐに糸織の目前まで歩み寄っていく。一度解いた手でまたも銃の形をつくって、その指先を糸織の肩に突きつけた。

そして、容赦なく引き金を引く。

一回。

二回。

三回。

先生の手が反動で跳ね上がる度に、糸織の体は貫かれ、鮮血が舞う。糸織は少し困ったように眉尻を下げながら、衝撃で上半身を地面にバウンドさせていた。

「どうだい?」

先生の問に、糸織は寝ころんだまま首を横に振った。

「うっ・・分かり・・ません」

糸織の体は無残なものだった。胸に二つ、肩に一つ、脇腹に一つ穴が空き、そこから決壊したダムの如く血が流れ出ている。痛みがないという糸織の言は事実なのだろうが、こみ上げてくる血反吐のせいでとても喋りにくそうだった。

しかし、最も大きな問題は、ここまでやっても糸織がなにも気が付かないことだ。

原因は明らかだった。昼に見た糸織の成績表が脳裏を走る。

仮想体強度S、濃度もS。それが意味することはつまりーーーーこのやり方では、糸織が仮想子を自覚することはほぼ不可能だということだった。

いや、いっそ不可能と言い切って問題ないだろう。これは教科書に載っているデータでも、人伝てに聞いた噂でもない。僕が、自分の仮想体で体験した事実なのだ。

「先生・・さすがにーーーー」

いつの間にか、立ち上がって先生にそう抗議していた。先生は僕の言葉を遮るように、今度は僕にその銃口を向けた。

「合理的な方法だ。誰もがこれで、仮想子の知覚を始めるとされている」

「四回も仮想子攻撃を受けて気が付かなかった例もないでしょう」

「代案はあるのか?」

「・・・・」

代案なんてーーあるわけがない。

人類が悪夢なんていう訳の分からない病を抱えてから、今年で二十余年。その間に幾人もの犠牲を出し、幾度となく人道を踏みにじり、幾億もの予算を捻出した。その結果掴み取った『正攻法』を覆す稀代の発見など僕は持っていない。

しかし、代案はなくとも前例はある。

「だから僕に任せたんですよね」

「そうだ」

僕はそれを聞いて納得し、糸織を見る。

糸織は僕から見下ろされることが不快だったのか、軋む音がこちらまで聞こえそうなほど歯を食いしばって立ち上がろうとしていた。急に動いたため出血が悪化し、彼女自身を体現するような真っ赤な血が僕の足元まで飛んでくる。

生意気だ。

失礼だし、僕のことが嫌いらしい。

僕も好きか嫌いかで問われれば、糸織のことは嫌いだ。

考えれば考えるほど、頭から血が引いていき、思考が真っ白になっていくのが分かった。

僕はなにがしたいのだろうか。なにをするべきなのだろうか。

なにをーーなにを?

「・・やりますよ」

そして無意識の中、そう吐き捨てるように言ってしまった。

誰に言ったのかーー先生か、糸織か。そのどちらでもないような気がした。僕はまだ、この後輩の指導をすることを心から快諾してはいない。

――ならば、自分自身か?

それこそまさかだった。僕は誰よりも、自分が一番信用していない。どんな約束も宣誓も、自分の都合で平気で覆す人間だと自覚している。

しかし、本人さえ意義の分からない一言に、先生の顔つきは明るくなった。

「投げ出すことは許されないぞ?糸織くんは我が校の宝だからな」

そんな厳しい言葉は見るからに浮き足立っている。僕が後輩指導を受け入れたのがよほど嬉しいのだろう。

それもそうだ。僕の挫折を見て、放っておけば退学になるような生徒の面倒を今の今まで見て来たのは先生だ。「ようやく立ち直ったのか」と、安堵しないほうがおかしい。

だから、裏切ることはもう許されない。

それでも僕は裏切ってしまうかもしれないと頭の隅で考えながら、なんとか薄い笑みを浮かべながら再起の誓いを果たした。

「そうか・・よかった」

先生がほっと漏らしたその一言に、心はーーまるで痛まなかった。


僕が最悪の劣等感に俯いていると、突然頭の中でけたたましいアラームが鳴り始めた。意識を視界の右端へ集中すると、何もないはずの空間にリーナの液晶とまったく変わらない画面が飛び出してくる。そこには『緊急実習』という目が痛くなる蛍光文字と、その下に帯域パスが写っていた。

先生は僕の仕草だけで気が付いたようだ。

「実習かい?」

「はい・・今からです」

少しほっとしている自分に吐き気を催しながら、顔だけは取り繕ってそう返した。

「それなら糸織くんを同行させなさい」

「・・分かりました」。

最悪だ。

「糸織さん。パスは送るから、仮想世界でのリーナの扱いは先生に聞いてね。それじゃ」

僕は手早くそう締めて、草原地帯から消え去った。



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