2002/03/22-03/28

3月22日、金曜日


四国は本土を形成する四つの列島のなかで、一番小さな島です。どの県も海に面していて、松山市がある愛媛県ももちろんそうです。

そして松山市は愛媛県の西側にあり、海はそれほど遠くない場所にありました。

ふたりきりで夕暮れの海岸線を麻衣と花梨さんは歩いていました。

本当にいっしょにいかないの? 弘幸さんをわたしが取り返してしまってもいいの? あとから後悔したって知らないよ?

花梨さんは麻衣にそんなことばかり聞いていました。麻衣はその度にうん、とうなづきました。

出会ったばかりの頃が嘘のように、麻衣たちはお互いの存在を認められるようになっていたように思います。

花梨さんは親に決められてしまった結婚だったけれど、麻衣は誘拐されてしまったのだけれど、麻衣たちは同じ男の人を好きになってしまった女の子でした。

麻衣たちは本当は似ているのかもしれないし、やっぱりまったくの正反対なのかもしれません。憎みあう人も信頼しあう人も大体がみんなそんなものだと麻衣は思います。

恋のライバルになれもすれば、友達にもなれたかもしれません。

そのことに気づくのが麻衣たちは少しだけ遅かったのです。

花梨さんを迎えにきた大きなクルーザーが、海岸に停まりました。

「弘幸さんを見つけたら一番に連絡するから」

と花梨さんは麻衣に言いました。麻衣はまたこくりとうなづきました。

「必ず連れて帰ってくるからね。それから、あの人は麻衣ちゃんにあげることに決めたから」

花梨さんはクルーザーに乗り込むと、大きな声でそう言いました。

麻衣は大きく手を振って、花梨さんのクルーザーが見えなくなるまで、見送りました。

花梨さんもずっと手を振ってくれました。




3月23日、土曜日


ベランダでひさしぶりにモヨコちゃんとふたりきりで話しました。

好きだった男の子の話。

いじわるだった女の子の話。

かわいそうだった両親の話。

中学校の教室で友達同士がするような、たわいもない話です。違うのは、同級生と違ってモモたちは生まれた場所も育った場所も違っていることと、たわいもない話はすべて過去のものだということです。

今好きな男の人の話をモモもモヨコちゃんもしませんでした。

いつかと同じように黒い車がマンションが面した道路に停まるのをモモは見ました。いつかと同じようにその車から喪服を着た男の人がふたり降りてきました。

「ねぇ、あの人たちも喪服を着てるけど、コープさんとゲロさんのお友達?」

モモは網戸を開けてお尻はベランダに置いたまま部屋の中にごろりと寝ると、コープさんに聞きました。

世界が逆さまになって見えるその中で、コープさんとゲロさんの顔がみるみる青ざめていくのをモモは見ました。

「こ、こ、こ、国家、公安、委員会だ……」

ふたりが声をあわせてどもったので、モモは思わず笑ってしまいました。

少し不安になりながらも、やっぱりね、とモモは思いました。

「じゃぁやっぱりふたりのお友達なんだね?」

今度はいったいどんな人たちだろう、とモモはとても楽しみでした。




3月24日、日曜日


それからすぐに、モモたちの部屋のドアの鍵が外されました。二度三度勢いをつけて引かれたドアはチェーンキーを壊し、

「国家公安委員会だ!

 ××××、××××両名を身分証および公文書偽造、詐欺等の罪で逮捕する」

と勢いよく飛び込んできたコープさんとゲロさんのお友達は、なぜかふたりに飛びかかり、顔に警察手帳と逮捕状を突きつけると、後ろ手に締め上げて、

「きみたちには黙秘権がある。現時刻よりきみたちの発言はすべて録音されて記録として残る。いいか、もう一度繰り返す。きみたちには黙秘権がある」

と言いました。それはまるで海の向こうの国の映画のようでした。コープさんとゲロさんの本名をモモは聞きのがしてしまいました。

コープさんとゲロさんにはモモにかけられたものよりずっと精巧に作られた手錠がかけられました。警察手帳はずっと大きかったし、逮捕状もずっときれいな紙でした。

コープさんもゲロさんも何も言わず、大人しくしていました。ふたりはずっとモモに嘘をついていたのだ、とモモはようやく気付きました。加藤麻衣が大塚恋子と入れ替わっていたなんて、そんな馬鹿げた話があるはずがなかったのです。

喪服の刑事さんがひとり、部屋の隅にふたりを転がして、見張りにつきました。

もうひとりは、部屋の中にいた立ち尽くす硲さんやミヤザワさんの前を通り過ぎ、ベランダにいたモモの前に立ちました。

モモをかばうように、モモたちの間に、ミヤザワさんが滑り込んできました。




3月25日、月曜日


「そろそろ潮時だと思うので、自首をしたいのですが、今逮捕していただいても構わないでしょうか?」

ミヤザワさんはそんなことを喪服の刑事さんに言いました。

モモの隣にいたモヨコちゃんの手を握り、部屋の中へ引っ張りました。痛いよワタル、モヨコちゃんは泣きそうな顔をしました。

「きみも何か罪をおかしたというのか?」

その問いにミヤザワさんはこたえます。

「今年の春、ぼくはこの子を誘拐しました。それから隣のぼくの部屋に女の子の死体がみっつ転がっています。全部ぼくが誘拐して、殺しました」

虹色の布は、モヨコちゃんの身を守るためではなかったのです。ミヤザワさんが殺した三人の少女の死体を見ないですむように、はじめてモヨコちゃんの部屋に遊びに行ったとき、布のなかに彼が隠れていたように、虹色の布は存在していたのでした。

「きみの名前は?」

喪服の刑事さんが聞きました。

「ミヤザワワタルと言います。この子の名前は」

「佳苗貴子さんだね?」

モヨコちゃんはこくりとうなづきました。

「他にもぼくは罪を犯しています。

 新手の霊感商法とでもいうのでしょうか、ぼくは宗教家のふりをして、これまで出会ってきた多くの人々の過去を詳しく調べては、あなたは救世主として生まれるはずだったのに、生まれなかった、生まれなかったはずのあなたは何故今ここに存在しているのか、あなたは本当は存在してはいけない人だと繰り返し言いました。心の弱そうな人ばかり選んで、繰り返し言いました。そしてその人々にたくさんの虹色の布を売ってきました。

 わたしは最低の人間です。ですから今、逮捕していただけますか?」

ミヤザワさんがモモにした話もやっぱり作り話だったのです。

ミヤザワさんの手にも黒い手錠がかけられました。

モヨコちゃんはそれを見て、笑っていました。




3月26日、火曜日


モモは下唇を強く噛み続けていました。

知り合ったばかりだったけれど、大切に思っていた人たちが、見知らぬ喪服の人に次々と手錠をかけられているのを見るのはおもしろくありませんでした。

唇が切れて、血が出ました。血は唇の上で玉となり、やがて顎へと垂れました。

強く噛みすぎてしまったかもしれません。

血はなかなか止まりませんでした。

硲さんの視線に気づいたのは、床に垂れた血を目で追ったときのことです。

「なんでその傷はすぐに治らない?」

硲さんが呟くように言いました。

「14年前に枝幸で誘拐されたきみをぼくが探しあてたとき、きみは首の骨を折られて死んでいた。しかしきみはあの日、ぼくの目の前で、折れた首の骨を治して息を吹き返したじゃないか。

 それからもきみは怪我をする度に何度もぼくの目の前で、怪我を治してみせたじゃないか。

 ぼくが何度抱いてもきみはいつも処女だったじゃないか」

喪服の刑事さんもミヤザワさんも押し退けて、硲さんはモモの肩を強くつかんで、激しく揺すりました。

「きみは言った。平安時代に藤原道長の隠し子として生まれ、人魚の肉を食べて不老不死になったのだと。だからどんな怪我も、どんな死さえも、きみの体は受けいれないのだと。そのきみがなぜ、そんな小さな傷も治せないんだ」

硲さんの膝が折れて、モモの腰に腕を回すと、折れるほどきつく抱きしめました。

「わたしは八尾比丘尼なのだと、きみは言ったじゃないか」

懇願するような瞳に、モモは申し訳ない気持ちになりました。

だけど、硲さんにどうしても言わなければいけないことがありました。

「あなたの加藤麻衣がいなかったとは麻衣は言わないよ。麻衣が知らない世界がどこかにあるかもしれないから。麻衣の知らない麻衣がどこかにいるかもしれないから。でもあなたの前に今いる麻衣は、あなたの加藤麻衣じゃない」

硲さんはこどものように泣きました。わんわん泣いて、麻衣をきつく抱きしめました。

今だけあなたの麻衣になってあげる、とモモは思って、優しく硲さんの頭をなでてあげました。




3月27日、水曜日


そして誰もいなくなりました。

大勢で過ごしていた何日か前までのモモとお兄さんの部屋がなんだかとても懐かしいもののように思えました。

みんな麻衣を何かにしたてあげようとしたりして、少し頭がおかしい人ばかりだったけれど、今思うとけして悪い人たちばかりというわけではなかったと思います。少なくとも極悪人と言われるような人は誰ひとりいませんでした。

麻衣もきっと同じ人間です。

いつかどこかでわたしを知ることになるあなたも、きっとわたしたちと同じ。何も違いません。いつかどこかでわたしとあなたは出会うことになるかもしれません。どうかそのとき、わたしを変な目で見ないでください。

わたしたちは同じ人間です。




3月28日、木曜日


真夜中に花梨さんからメールが届きました。

第8番夢の島に棗さんはまだいたそうです。

松山に来る前に顔を整形していましたし、戸籍もホームレスのおじさんから買っていましたが、指紋や声帯、目の角膜など、要雅雪さんが棗弘幸さんだと証明するものはたくさんありました。一番肝心なDNAを書き換えるわけにはいかないけれど、整形や移植でそれらはどうにかなるものばかりです。

指紋や声帯の整形手術は終わっていましたが、角膜のドナーがなかなか見つからないために移植手術ができなかったのだそうです。ですがその手術もようやく昨日終わったそうです。まだ包帯をしていて、目が見えるかどうかはわからないそうですが、主治医の先生の話では手術は成功したそうです。

このわずか数週間の間に、棗さんの眼球に適合する角膜を持った人が、たまたまドナーカードを持っていて、角膜の細胞を壊さずに死んだ、なんてことあるはずがないことはわかりましたが、どうやってドナーを見つけたのかは深く考えないことにしました。


でも、麻衣は不思議でなりませんでした。

コープさんとゲロさんは偽物の刑事さんだったはずです。なのにどうして棗さんは彼らの嘘の通りに別人になることができたのでしょうか。

帰ったら教えてあげるね、と花梨さんのメールには書かれていました。

きっと麻衣がびっくりするような秘密がそこにはあるに違いありません。


「でも麻衣ちゃん、弘幸さんとずっといっしょにいたかったら、麻衣ちゃんも本当に要モモちゃんにならなくちゃいけないよ」

本当に要モモになる。

それがどういう意味かも麻衣はわかります。

麻衣は一晩ゆっくり考えて、花梨さんにメールを返しました。

「モモになる前に、麻衣は富良野に帰って、お兄ちゃんに最後のお別れをしたいです。それさえできたら、麻衣はいつでもモモになります、と棗さんに伝えてください」








加藤麻衣さんの手記はここで終わっていました。

彼女を誘拐した棗弘幸は、彼女の失踪から実に3年半近くの月日が経過した2005年の1月に逮捕されています。

ようやく逮捕された棗弘幸が本物であったのか、あるいは偽物であったのかまでは、我々にはわかりません。

この手記がすべて事実であったとするなら、おそらく偽物だったのでしょう。

棗弘幸は今も、新たな犯罪を犯しているのかもしれません。

しかし、犯罪を犯しても罪を問われない身分にある彼を警察が逮捕することは今後もないでしょう。

ただ哀れな身代わり山羊が檻の中に増えていくだけです。

加藤麻衣さんはいまだ行方不明のままです。

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