第2話

 「お札ノート」以前に、クラスで流通していたのは「牛乳キャップ」だった。地域によって差があるみたいだけれど、僕の学校では給食の牛乳は、ガラスのビンに入って出てくる。そのビンの口をふさぐために、紙で出来た丸いキャップが付いている。これが見た目もそうだけれど、コインのような扱いを一部で受けていた。

 毎食、一人に一枚供給されるので価値のバランスが取れている。ただし、これを集めても、もちろんなにか買えるわけでもないし、十枚集めたら牛乳がもらえるということも無い。これは一部の男子が収集を始めたところから、自然発生的に価値が生まれた。初めは枚数をたくさん持っているということ自体に価値があった。これはドラえもんの「流行ビールス」という有名な話が説明している現象だけれど、誰かが集めると他の人も欲しくなるものなのだ。そしてそのあと、ただ集めるだけでは面白くなくなってくる。ここでも限定ということが重要なカギになってくる。

 ドラえもんでは、ビンの缶キャップが流行るのだけれど、時代の古さを感じる。かといって、牛乳の紙キャップが新しいとはいえない。実際、僕が通っている塾の、他学校の友人は、みんなビンじゃなくて紙ケースの牛乳を飲んでいるらしい。うちの小学校はなんでビンなのだろう。落として割れることも多いのに。まあいいや。重要なのはどうやって付加価値が生まれるのか、ということだ。

 缶キャップならば、絵柄があるので付加価値を付けやすい。珍しい缶キャップは価値が高い、という事になる。ご当地ビールの缶キャップとか、大昔のコーラのキャップとか。今でも集めているマニアな大人の人もいるだろう。一方、牛乳キャップの場合、製造メーカーの印と日付の印字があるだけだ。しかも毎日みんなが同じものを手にしている。どうやって差別化を図るのか。考え出したのは遠野君だった。


 遠野君は手先が器用で、工作が非常に得意だった。絵もうまい。これは遊び道具を、小さいころから、自分で作らなければならなかったという、彼の悲しい過去が関係している。兄弟に作ってやっているという麗しい話も、もちろん関係している。

 そんな彼が、ただ枚数を集めるという牛乳キャップの流行に、一石を投じた。彼は牛乳キャップの裏にキャラクターの絵を描いた。牛乳キャップは紙で出来ていて、裏面は無地なので簡単に絵を書くことが出来る。なんでそれまでみんな気が付かなかったのか。遠野君はすごい。確かに落書き程度でキャップに書き込みをする人はいた。ただ、遠野君はものすごく細密に絵を描いた。色鉛筆を使って、かっこいいロボットの絵などを描いた。

 みんなが遠野君のキャップを欲しがった。しかし遠野君は職人なので安請け合いはしない。丁寧に、自分好みのものをゆっくりと作る。そのことがまた価値を高めた。


 そのうち、絵心のある生徒が同じようなことを始めて、牛乳キャップの流通が始まっていった。男子に限られるけれど、みんなカードゲームに熱中していて、お金を出してカードを買って集めている。ただそれは、学校には持ち込めない。だからそういう収集の土壌は出来ていたとも言える。

 市販のカードと比べて、牛乳キャップは生の絵という面白さがある。描こうと思えば自分でも描ける。それに値が付くかどうかはその出来栄えによる。僕もそれなりに絵には自信があるので、自分で作ってみるとかなり面白い。それを欲しがってくれる人がいると、さらに作る意欲がわいてくる。まるで漫画家にでもなったような気分だ。


 遠野君の次の作品はどんなものになるのか、みんなが息を潜めて彼の手元を覗き込む。初めはキャップを一枚提供する代わりに、遠野君が1枚描いてあげるという薄い稼ぎだったのが、五枚、十枚出しても欲しいという者が現れてきた。流通しているキャップ量にも限りがあるし、遠野君も欲を出さないので、だいたい十枚から二十枚というところに落ち着いた。彼がこの経済をコントロールしていたとも言える。僕の作品が十枚で売れたときは嬉しかった。仲の良い者同士で交換したり、他人の作品をやりとりしてキャップを稼ぐ者まで現れた。

 キャップの流通が追いつかなくなって、女子に下げたくない頭を下げてキャップをもらったりした。女子にどれぐらいキャップを貰えるかで、その男子の人気が分かってしまったりして、社会現象ならぬ、クラス現象と言いたくなる規模まで事態は発展した。しまいには、給食のおばさんに頼んで、一攫千金を夢見るやからまで現れた。これは衛生上の問題で不可能だったようだ。


 牛乳キャップの問題点は、におう事だった。管理状態が悪いと危険な臭いがしてくる。だからいくら流行っても、女子は参加してこなかった。男子の頭の中は、臭い牛乳キャップのことで一杯だった。こう書くとなんだか嫌だな。

 ただみんな、学校を出ると急に熱が冷めて、カードゲームに興味が移るのがなんとも不思議だった。確かに市販のカードのほうがかっこいいし、金を出せばある程度簡単に手に入るから、気持ちは分かる。でもせっかく芽生えた、作品を作ったり作品を愛でる心が広がっていかないのが残念だった。家に帰ってもキャップに絵を描いているのは、間違いなく遠野君だけだった。遠野君の兄弟の間でも牛乳キャップが流行っているらしい。彼はクラスでも、家でも引っ張りだこだった。


 遠野君の作品に五十枚という値が付いた。でも誰も高いと思わなかった。それだけの作品だった。五十枚出したのは那智君だった。五十枚の作品を買ったあとに、那智君は遠野君に百枚の作品を注文した。恐るべきナチス。やはり金のある人間のところにキャップも集まる。聞いたところによると那智君は、市販のカードと牛乳キャップを交換するという裏取引まで行っているらしい。みんなはそこまでして牛乳キャップは欲しくない。キャップ五十枚の遠野君の傑作に、五十円出そうと言う者がどれだけいるだろうか。僕は出せない。

 那智君は本物のお金持ちだと思った。そう、歴史の授業でならった芸術を支えるパトロンのような存在だ。でもこれで、本当に遠野君が画家にでもなったら、元が取れるどころじゃないのだろう。そう考えるのは僕のような貧乏人で、那智君には投資なんて意識は無いだろう。純粋に那智君は、ただ遠野君の素晴らしい作品を手に入れたいらしい。この遠野君と那智君の関係は面白い。


 遠野君を筆頭に何人かのキャップ作家が現れ、クラスには素晴らしい芸術の時代が訪れていた。遠野君にはキャップ欲はあまり無いけれど、やはり評価されるということがやる気を高めたと思う。何枚で売れたかが、その作品の評価だった。そしてその流れを支えているのが那智君だった。彼自身絵は下手糞だが、作品を評価するセンスは良かった。彼が欲しいと思う物はみんなが欲しいと思う物だった。これはブランドと言っても過言ではないと思う。作品が良いのか、那智君が評価したから高いキャップなのか、見分けが付かなくなっていた。そんなクラス一のキャップ持ちが導入したからこそ「お札ノート」がすんなり流通したのだと思う。


 那智君はあまりにキャップを手に入れすぎて、その管理に困っていた。ビニール袋に無造作に大量にキャップを入れていたけれど、それも一部で、大半は家においてあるらしい。袋からキャップをわしづかみにして出すその仕草は、ほんとうに大富豪のようではあったけれど、いささか時代にそぐわない。しかもキャップはにおうので、それを大量にもっているというのは、パトロンとしての面子にもかかわる。那智君はわりと女子に人気があるから、本人としても問題だと思ったのだろう。

 キャップのかたまりをお札ノートで代替したのは、自然な流れだった。那智君はそんなに気が利く人物ではないので、初めからその目的でお札ノートを購入したとは思えない。でもすべてのお膳立てが整っていた。


 遠野君に百枚払う代わりに、那智君は1000萬のお札ノート一枚を支払った。これがすんなりOKになったのは、二人の間に信用があったからだ。遠野君が1000萬を那智君に返せば、キャップが百枚戻ってくる。そういう信頼関係があった。そのうちに遠野君のお札ノートの手持ちが増えてくる。すると、例えば僕のような親しい友達の間でも百キャップ=1000萬として使われるようになった。それからはあっという間だった。

 お札は持ち運びがしやすい。そのことが流通を早めて、経済が活発化した。お札の信用を預かっていたのが那智君で、彼に頼めばいつでもキャップ化することができた。お札自体の人気が高まったのを見て、那智君はお札を買い増して市場に流した。そのことによって、一時、約八十キャップ=1000萬になる事態が発生した。なんと変動相場制に自動的になった。これはお小遣いが少ない小学生の、お金に対する敏感さといえば聞こえがいいけれど、世知辛い意識が、お札に対する価値に反映された結果だったと思う。なんだか馬鹿みたいだけれど、事実そうなのだからしょうがない。

 キャップの価値が下落したのを見ても、那智君は別に気にも留めていなかった。その自然体がよかったのだと思う。日本銀行が金儲けをしたら話にならないし、下手に操作しようとしてもうまく行かないだろう。極端なインフレも起こらずに、時々那智君がお札を増やす感じで、通貨が安定した。5000萬と10000萬は流通しなかった。これは賢い判断だったと思う。分かりやすさというのが、小学生の経済には重要だった。と言っても、那智君には、別に深い考えは無かったと思うけれど。


 人から人の手にお札が流れて、使い古されたお札ノートにはみんなの手垢がついて、まるで本物のお金のように見えた。那智君は、ぼろぼろになったお札を、新しいものに手数料を取って取り替えていた。お前は両替商か! と思ったけれど、実際は銀行以上のことをやっているので何も言えない。それをほとんど本人は意識しないでやっているのが不思議だった。なにか人類の経済の歴史を見ているようだった。ナチスに限らず、お札が導入されたことによって、みんなが当たり前のように経済を考えていた。そしてその流れが、社会の授業でならったような事象をたびたび引き起こすので、そのたびに僕は驚いた。これは人間の本能なのかとも思った。


 キャップの時代には、キャップ芸術とキャップ貨幣がみんなの主な関心事だった。でもお札が流通すると、お札はあくまでも価値をやり取りする物になり、それ以外のさまざまな産業が生まれた。

 その流れを初めに作ったのも遠野君だった。今考えると、彼は常に時代の最先端を行っていた。銅像を立ててやりたいくらいだ。しかしこれはあくまで、限定された小学校のクラスで起きたこと、ということを忘れてはいけない。でもやっぱり遠野君はすごい。

 彼はそれまでキャップ芸術にかかりきりだったけれど、他にもいろいろと創作意欲がわいてきたようだった。キャップに飽きたわけではないけれど、表現の幅を広げたいと思ったらしい。キャップ時代以前にも、遠野君は工作を一人でコツコツと作ったりしていたわけだけれど、いまやそれが商品となる時代が来ていた。自己満足で終わっていたものが、みんなに期待され、大金を払ってでも彼の作品が欲しいと言う人がいる。それが創作意欲を高めた。

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