終
夢と現実の区別がつかなくなって、早一日。
記憶が飛び飛びになり、強烈な頭痛と幻聴が慢性化し始めたせいでより一層分からなくなってしまいました。こうしている間も、目に映る全てのモノが見えたりなくなったりで……どれが本物なのかもさっぱり。
絶望的な状況――に反して、私の心は折れていません。
最初は混乱のあまり自失茫然としていました。しかし時間が経つ毎に、酷い有様を見る度に覚悟が固まっていったのです。
瑠璃ちゃんに自分の想いを伝えるという覚悟が。これを果たすまで弱音は吐いていられない。弱い私とはさよならしなくちゃいけないから。
……どれだけ心持ちがしっかりしてても、行動できなけば意味はないんですけど。
「うぅ~……」
「今日は一段と調子悪そう。お菓子いる? とりま甘いの食べときゃどーにかなるってもんよ」
「どーゆーの?」
「チョコ。激甘で脳がでろでろになるって噂のやつでね」
「食べる……うえぇ、本当に甘い……でも結構イケる?」
「あ、マジで食べるんだ。私以外で初めて見た」
休憩時間中、香ちゃんの差し入れを食べて疲労回復。あまりの甘さに一瞬意識が飛びかけましたが、いつもの頭痛で意識が飛びそうになるのと相殺されてむしろいい具合です。代わりに味覚は死にました。
大量の原因で机に伏していると、香ちゃんが背中をさすってくれました。制服越しでも伝わってくる温もりが染み入ります。
「最近ずーっとこうじゃん。保健室行く? へーき? って聞いても」
「あはは……うん、へーき」
「としか言わないんだもんなぁ」
「実際、一応は、大丈夫だし。本当だよ」
「うーん……信じたいけどぉ、心配の方が大きいんだよなぁ」
「あとちょっとなの。ちょっとだから」
香ちゃん中々鋭い。私の不調を見抜いてくる。
ここで香ちゃんに甘えてしまうと、二度と瑠璃ちゃんとは元の関係に戻れない。だから、意地でも大丈夫と言うしかない。
それを察してくれたのか、香ちゃんは頭をわしわしと掻いて。
「いっつも無理してばっかなんだもんな、今更言ってもかぁ……じゃあ一つ約束」
「約束?」
「うん。なんかやってる最中でしょ? 全部終わったらちゃんと話聞かせてな。だから、ちゃんと終わらせな。疲れた時はまたチョコあげるから」
「さっきの? う、うーん……チョコはいいけど、うん、分かった」
そう言って香ちゃんと握手。これからやることの、覚悟の証明として。
相変わらず香ちゃんは渋い顔ですが、特に何も言わずにいてくれてます。
「私、やるよ」
もう、逃げない。成さねばならないことを成すまでは。
どうにか昼休みまで耐えきり、早速行動に移します。
この瞬間も夢現。目の前の光景は、読み込みが悪く飛び飛びになって再生されるDVDのよう。DVDかぁ、最後に見たのはどんな作品だったかなぁ。
じゃなくて。
とにかく、見えるものが一切信じられないということを言いたい。
空白期間に(香ちゃんで)色々試していました。香ちゃんを見つける度に話しかけてみたのですが……たとえば、私からした話題を授業を跨いで繰り返したら初見の反応されたり、廊下ですれ違ったのに教室に行くと私より先に戻ってたり……と整合性が取れない。
その時一緒にいた香ちゃんのどれかは現実でどれかは夢。でも全く区別がつかない。
この状態で瑠璃ちゃんと話したとして、夢中の彼女だったら意味がありません。現実でちゃんと想いを伝えなきゃ全部水の泡になってしまう。
そこで私はない頭で考えました。確実に伝えるにはどうすればいいか。
とても簡単なことです。ほんの少し仲が戻った今ならできるもの――それは。
「どこどこ――あっいた。瑠璃ちゃん、ちょっと待――っ……待って!」
廊下で目的の人物を見つけたので急いで声を掛けます。頭痛なんて後回しです。
ゆらりと瑠璃ちゃんはこちらに振り返り、「なに」と首をかしげます。
この瑠璃ちゃんが夢現どちらかは全く分かりません。分からないので、こうするわけです。
「大事な話があるから、放課後に校舎裏に来て。あの日のこと、ちゃんと話したいから」
真剣に顔を見て用を伝えると、瑠璃ちゃんは目を逸らしながらではありますが「分かった」と了承してくれました。
――そう、特定の時間に約束を取り付ける。本当に簡単。
あとはもう一度瑠璃ちゃんと会って、同じように約束をするだけ。ただしいきなり切り出して、それがさっきの彼女と同じだと困るから、二回目以降は一言クッションをおけばいい。
一旦瑠璃ちゃんと別れ、廊下を曲がったのを見てから後を追いかけます。曲がった先……まだいる。階段を上ってすぐは……いる。上り切って曲がったところ――
(いなくなった!? そしたら三階以外を探して見つけたら声をかければ!)
そこからはスピード勝負。さっきの瑠璃ちゃんが何をするつもりだったのか分からないので、向かった場所、三階以外で見つければもう一人の瑠璃ちゃんで確定です。
学校内を走り回り、片っ端から教室等を覗いていきます。
次に瑠璃ちゃんを見つけたのは、結局私の教室の中でした。自分の席で弁当を食べている最中です。顔ににじんだ汗を拭いて、平静を装って話しかけます。
「すー、はー……よし――る、瑠璃ちゃん。今、いいかな?」
「…………なに」
反応だけなら初めて話しかけたようです。一応チェックも入れてと。
「大事な話が、あるんだけど」
「話……今じゃないと駄目?」
――多分、いける。
「ううん。放課後にしたくて。落ち着いて話したいから、校舎裏でいい? あの日の場所」
「あそこか……分かった。行く」
「ありがとう。じゃあ、あとで」
またねと言い残して、私は席に戻ってすぐ水筒のお茶を一気に流し込む。走ったせいもあるけど、瑠璃ちゃんと約束するだけで結構緊張して喉がカラカラだった。ただ約束するだけならまだしも、よく分からないことになっているから……うん。
ひとまずはこれでいい。あとは放課後まで痛みに耐え、大事な人と向き合うだけ。
空っぽになってようやく水筒を下ろすと、香ちゃんが私をじっと見ていた。そして、たった一言だけ。
「決着だな、行ってきな」
と言って拳を突き出してきました。
何度目かの意思確認。やるたびに気が引き締まるようだ。
私は軽く拳を握って、香ちゃんのにこんとぶつけます。
……ふと瑠璃ちゃんの方を見やると、昼食中の彼女の姿はなく、弁当の代わりに教科書が無造作に残されていました。顔の向きを戻すと、香ちゃんもいなくなっていました。
「どっちがどっちなの……はぁ……。
でも、ようやく終わるんだ」
◇
今日の授業、その全てが終了したことを知らせるチャイムが鳴る。
帰りのHRも終え、みなぞろぞろと教室を出て行く。私も香ちゃんに支えてもらいながら後に続いて目的地に向かう。
足取りがおぼつかず、自分でもいつ倒れるか不安なほど。香ちゃんは何も言いませんが、支える手から心配が伝わってきます。ごめんね、ありがとう。
どうにか待ち合わせの校舎裏に着き、香ちゃんには教室で待っているようにお願いします。中々行ってくれませんでしたが、何度もお願いしてようやく、えらい渋々ながらとぼとぼと歩いて行きました。……ずっと無理言ってごめんね。
そうして、私一人。座って待っていると、あの日喧嘩したことがはっきりを思い出せます。動揺でいっぱいの香ちゃんと、瞳が揺れている瑠璃ちゃん。私はその間に立っていて、意地張って、ぶつかったんだっけ。
「私が悪いよね、もっとちゃんと、話聞いてたらな――っ……いたいなぁ……」
こうして、待っている間にも痛みと音が頭の中で響き続け、記憶を蝕みます。フェンスの向こうで歩いている人が突然進んで、止まって。空の雲も不自然に止まっては流れて。校内放送がぶつ切りで聞こえてきて。
自分だけ時間から取り残されたような感覚。時間だけを意識して初めて分かった。私は非常に、異常。よくこんなんで今まで過ごしてきたね、と昨日までの自分を褒めたくなる。
ただ待っているだけなのに、頭がおかしくなりそう。一分が数秒にも数十分にもなり、五感が徐々に破壊されていくよう。
――意識がだんだん無になりつつあった時、ようやく、来てくれました。
ざっ、ざっ、とノイズに混じってはっきり聞こえる足音。
鉛のような身体をどうにか立ち上がらせ、音の方向を見ていると。
「……瑠璃、ちゃん。来てくれたんだ」
ちゃんと、瑠璃ちゃんが来てくれました。私とは反対に足取りは確かなもので、眼差しは私をしっかりとらえているようです。
「大事な話、って言われればね。断る理由もないわけだし」
「そうなんだ。来てくれただけでも、私は嬉しいな」
「そ、そう……で、話って?」
――雑談をしに来たんじゃない。私は、伝えなきゃいけないんだ。
「うん、それなんだけ、ど――っ……いっ……」
「……? 大、丈夫?」
「ご、ごめんね。ちょっと、頭痛くて。気に、しないで」
とは言っても限界が近い。ここまで耐えてきましたが、さすがに、もう……。
だからといって引き下がるわけにいかない。見えない何かが邪魔をしているとしても、今更戻れるか。
「いやでも――い悪――ら無――――今度――」
目の前にいる人物の声すらまともに聞けなくても。
彼女の姿が霞のようにおぼろげに見えていても。
……私は。
「瑠璃ちゃん、聞いて。一回しか言えないと思うから」
「――った……――蘭」
私を呼ぶ声がする。それだけで私は勇気が湧く。
血がにじむほど強く拳を握り、一度だけ深呼吸して。
呪いを解くその言葉を。
「ごめん……ごめんね、瑠璃ちゃん」
「――」
「あの日のこと、ずっと後悔してた。瑠璃ちゃんの話、ちゃんと聞いてあげればって。瑠璃ちゃんのこと、分かってあげられなくてごめん……ごめんなさい……!」
ため込んでいた想いを、ただひたすらに吐き出す。一切考えずに言葉にしたから伝わっているか心配だけど、目的は果たせたから、それでもいいかな。
かろうじて残っている意識を集中させて瑠璃ちゃんの返事を待つ。
幻聴の中、彼女の吐息が聞こえる。言葉に迷っているような、そんな感じの。
――どれくらい経ったのか。私にひときわ強い痛みが走った瞬間でした。
「お疲れさま、蘭」
「……えっ?」
聞こえてきたのは、その一言。痛みを忘れて顔をあげると。
――途端に、世界が崩れたのです。
あまりに突然のことで思考が追い付きません。
空も、地面も黒に染まって、全ての音が消えて。立っている場所から砂時計の砂が落ちるようにさらさらと崩れていく。
私と瑠璃ちゃんも、崩落に巻き込まれて暗黒に落ちていく。不思議と恐怖はなく、安心感すらある。
深く深く落ちていくほど、痛みと幻聴が和らいでいく。
もしかしなくてもこの世界は――と考えるより先に、瑠璃ちゃんが言った。
「蘭、お疲れさま。現実の私とも、しっかりね」
「待って……待って瑠璃ちゃ――」
聞き届けた瞬間、意識はまたたく間に落ち――……
目を覚ますと、私は瑠璃ちゃんの膝の上でした。
「――蘭? 蘭起きた?」
「瑠璃、ちゃん……? あれ、私……?」
ゆっくりと身体を起こして周囲を確認。場所は、校舎裏で間違いないみたいですけど。
「びっくりした。遅れたかなと思って急いで来たら、蘭が倒れてたから」
「倒れてたんだ、私」
「しかもちょっとうなされてたよ。何言ってるかまでは聞き取れなかったけど、謝ってたっぽい感じで」
……やっぱり、さっきの瑠璃ちゃんと世界は、夢の中だったんだ。まあ、世界が崩壊するのが現実だったら驚き、というかただただ終わりですけど。
体を起こし、反射的に頭を押さえる……けど、痛みはすっかり消えてました。ずっとしていた幻聴も、綺麗さっぱり。夢で一度けりをつけたから、でしょうか。
――なんにせよ、今が絶好の機会。夢で言えたなら、現でも言える。
ありがとうを言ってから立ち上がり、土をはらって瑠璃ちゃんに向かい合う。瑠璃ちゃんも察して立ち上がります。
さっきと違って、今の私には言葉を選んで伝えられるだけの余裕がある。
でも、伝えたいことは、シンプルに伝えるのが一番。
「瑠璃ちゃん」
「なに?」
「あの日のこと、ごめんね。ちゃんと話、聞いてあげたら良かったのに」
「……わ、私こそ、ごめん。一方的に言っちゃって。ずっと謝りたかったのに、私」
「私も同じ。瑠璃ちゃんのこと怖がってちゃって」
「お互い様、だね」
「だね――ねぇ」
「……ん?」
お互い押し殺していたものを伝え合ってから、私は手を差し出しながら言いました。
ごめんなさいと同じくらい、言いたかったこと。
「また、前みたいに仲良くできるかな。幼馴染に、戻れるかな」
瑠璃ちゃんは、静かに私の手を握って。
涙交じりの笑顔を浮かべました。
「戻れるよ、絶対。やっぱり私、蘭が好きだから」
「瑠璃ちゃん……! うん、私も、瑠璃ちゃんが好き」
「だったら、きっと大丈夫」
――気持ちを伝え合ってから、私は久しぶりに声を上げて泣きました。
あたたかい瑠璃ちゃんの腕の中で、溜め込んでいたものを残らず吐き出すように。
夕陽が私たちを照らすまで、ずっと……。
◇
「おい園崎ィ! てめぇまた蘭の隣座ったな!?」
「うるさい。別にどこ座ってもいいじゃん」
「今日はあたしの番だっての! いいからどけ、どけオイ!」
「ちょっ、ふざけんな篠! 弁当落ちるから!」
「二人とも……お願いだから仲良く――」
「「無理! こいつとは!」」
「……うぅ」
ある日の昼休みの光景。私の席で取っ組み合いが起きてる最中です。
よく分からないんですが、私の隣を巡ってケンカしているようです。というのも、私は窓際の席なので連結できる机が一つだけなので、二人はこうして戦いを起こすことがしばしば。毎日こうなのでいい加減にしてほしいです。
「幼馴染だからって横暴が許されると思うなよ!」
「蘭の恩人だからってまだ許したわけじゃないんだけど? 引っ込め不良風情が」
「アァンぁんだとコラ!?」
「ハァ!?」
「~~もうっ! 瑠璃! 香!」
「ふぇっ!? 呼び捨て……なんで?」
「な、なに、蘭」
「おとなしくしなさい! 周りに迷惑でしょ!」
「「は、はい……すいませんでした……」」
「分かればいいの」
思い切って𠮟ってみると効果てきめん、騒がしかったのが一転おとなしくなりました。本当にこの二人は……。
――私と瑠璃ちゃんが仲直りしてもう一週間。今度こそちゃんと一週間経ちました。
最初こそよそよそしさが残ってましたが、三日経てばすっかり元通り。それからは昔と同じです。
しかし問題があるとすれば、香ちゃんとの相性の悪さでしょうか。
瑠璃ちゃんは未だに香ちゃんを敵視していて、隙を見つけては香ちゃんが嫌がることをしています。香ちゃんもそれに反抗するのでさっきのようなケンカに発展することもしばしば……小学生じゃないんだから勘弁してほしいです。
いがみあってはいますが、私という共通点があるおかげで多少仲良く……しているんですよ、これでも。はじめの頃はもっとひどかったので、それに比べれば可愛い方です。
――私としてはもっと仲良くしてほしいんですけど、時間が解決するのを待つばかりです。一体いつになることやら。
「ふ、ふん。今回は蘭に免じて許そう。次はないから」
「それ前にも聞いたんだけど、まあいいわ。その時はその時ね」
「(はぁ、やっと落ち着いた……そうだ)ねぇ二人とも、おかず少し食べてくれない? ちょっと作りすぎちゃって」
「いいの!? くふふっ、やったぁ!」
「じゃあお言葉に甘えて――」
「あっ、それは……」
なんとも都合悪く、二人の箸が卵焼きを巡って衝突。再び一触即発の空気に。
「おいおいおい……園崎さんさぁ、どういうつもりなのかな?」
「ただの偶然。蘭の卵焼き好きだし。唐揚げがあるでしょ、そっちにしなさい」
「あたしも卵焼き食べたい。譲らんぞ」
「いい加減にしてよもぉー……半分こにすればいいでしょ、ほら」
呆れながら割って入って当該のおかずを半分に。そのまま二人の口に無理矢理つっこみます。口に含んですぐは面食らっていたものの租借するごとに表情が穏やかなものに。
「「おいしい~――ハッ。ふんっ!」」
「漫才でもやってるの?」
「「違う!」」
「あははっ! 息ぴったりだねぇ」
なんだかんだ似た者同士なのかもしれませんね。仲良くなるのもそう遠くなさそうです。
ひとまずは様子見、ですね。
「園崎となんて――」
「死んでもごめんね」
「あたしのセリフ!」
「ふ、ふふっ……」
学校に行けば必ず訪れる放課後。荷物をまとめて二人と一緒に学校を出ます。
「蘭、また明日――篠、他のゴミ共に手を出させないでね」
「言われなくてもそうするっての。さっさと帰れ」
と言葉を交わし、なぜかにらみ合いながらハイタッチを決める二人。そうして私と香ちゃんは瑠璃ちゃんと別れました。
「今日こっちなんだ」
「うん。そっち方面に用があって。途中までいいでしょ?」
「もちろん。嬉しいなぁ」
「嬉しいか……あのバカに聞かせてやりたい。あたしの勝ちってな」
「なんの勝負してるの。また面倒起こさないでよね」
「善処しまーす」
ふふっ、と笑い合ってどちらからともなく手を繋ぐ。最近は慣れたものです。最初は終始黙ったまま真っ赤になってたっけな。
ある程度歩いてさぁっと風が吹いた時、「そいえば」と香ちゃんが切り出しました。
「心配ないと思うけど、園崎とはもう大丈夫?」
「うん、香ちゃんが後押ししてくれたおかげでね。全然大丈夫」
「なら良かった。あの喧嘩、あたしのせいだったし気になってて」
「……それ、前にも言ったけど」
「あたしのせいじゃない、でしょ。でもどーしても、ね。分かるでしょ」
「だけど……でもー」
「三人おあいこって決めたんだもんね。だからこれが最後。ごめんね、蘭」
「約束、本当に最後だよ」
指切りの代わりにぎゅっと握って伝え合う。もう大丈夫、と。
さらに香ちゃんは続けます。
「あー、あとさ、前に話してくれた頭痛とかって……」
「それも大丈夫、全然ないよ。思い出すとほんのちょっとぶり返しちゃうけど、続いてはいないよ」
「そっか、よかった……今度はちゃんと痛い、辛いって教えてよね。すっごい心配してたんだから」
「そのことは……ごめんなさい」
「無茶ばっかりして、もう――次からよろしく」
「うん、善処します」
さっき聞いたやつをそのままそっくり返し、ハッとする香ちゃんにウィンクで答える。
「一本取られちゃった、くふふっ」
「でしょ? ふふっ」
そうしてまた、顔を合わせて笑いあう。ここに瑠璃ちゃんもいたらな、なんて、さすがに欲張りでしょうか。今日は用事があるとのことで、一緒に帰れないのが悔やまれます。
――『あの日』を境に長いこと悩まされた頭痛と幻聴、それに幻覚……仲直りしたのをきっかけにピタリと止みました。
ふとしたことがきっかけでフラッシュバックすることはありますが、前のように苛まれてはいません。同様に、不思議な夢も、見なくなりました。
日常生活が脅かされなくなったのは良いことです。何にも怯える必要がない、逃げる必要もないのは楽なもの。
しかし、急におさまるのはむしろおかしく感じる。原因は多分あの日の喧嘩だろうし、そうだとしたら仲直りしたから治ったと考えれば、まあ、はい。
――結局、あの現象の数々はなんだったのだろう。過度のストレスのせいなのか、それとも……。
その時、視界の端に何かが映りました。目で追って見てみるとそれは、夕焼けに染まった――
「わっ、綺麗」
「何か見つけたの?」
「うんっ。蝶、すっごい綺麗な子で……ほら、あれ」
電柱に止まった鮮やかな蝶を指さして教える。のですが。
「……? どこにもいないよ、蝶なんて」
「えっ、いるよほら――あれぇ、ほんとにいない……飛んで行ったのかな」
「かもね。どんなだったの?」
「えっとね……どんな色してたっけ」
――おかしいな。つい数秒前の出来事なのに、まったく思い出せないなんて。
なにかがいたらしい場所をもう一度見てみますが、そこには何もいませんでした。うっすら影が見えるだけで、特に何も。
「見間違い、だったのかな」
「まあそういうこともあるって。あー、見たかったなぁ綺麗な子」
「また見つけられるといいね」
「だぁね――あっ、そういえば、この間面白い話聞いたんだ」
「へぇ、どういうの? 聞かせて香ちゃん」
「そう言われるとノッちゃうなぁ。綺麗で思い出したんだけど、この辺には白いカラスがいるらしくてね――」
並んで歩いている間も、夕陽は沈み続ける。明日になれば、朝陽になって私たちを照らしてくれる。
そうして町は廻っていく。どんな不思議な出来事が起きようと、それだけはいつも変わらずに。
「――それなら私も、似たようなお話先輩から聞いたよ。少し違うかもだけど」
「ホント? どんなの……っていうか先輩って誰」
「花屋のおばあちゃんの娘さん、最近話したことあってその時に。先輩も、別の時に友達から聞いたって。その友達も、友達から……ってリレーして聞いたお話」
「うわ、スッゲー気になる。話して話して」
「確かね、先輩、こう言ってたなぁ、怪奇町の七不思議って。あともう一つ……」
私は忘れないだろう。風邪が治る程度の間に起きた、私の不思議な出来事を。
――『それ』を口にしたとき、また、夕焼け色の蝶が飛んでいた……気がする。
……うん、多分気のせい。一瞬起きた、偏頭痛も、きっと。
「香ちゃん知ってる? 『一過性怪異奇譚』、って。連作になってるんだって。
最初の話は……そうそう――神社に巣食う『根無しの怪』だったっけ」
「根無しの怪、ねぇ。聞き覚えが……あっ」
【一過性怪異奇譚 完】
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