ポリッシュ・せせらぎ・懐かしい
丁寧に手の指の爪を手入れしていた。水筒から水を少しだけガーゼに垂らすと爪の付け根にある甘皮をふやけさせていく。ゆっくりとマッサージをする様に、ほぐしていく。しばらくしてふやけたのを確認してから近くに転がっていた小型のナイフでそのふやけた甘皮をゆっくりと削っていく。爪を傷つけないようにだ。
ふう。気づかないうちに集中していたのか息をするのを忘れていた。ゆっくりと息を吐く。そうして吐いた分の空気を大きく吸った。油臭い匂いが一気に鼻孔をくすぐる。
嫌いではない匂いだがいつまでも嗅いでいたいわけでもない。ただ、心が落ち着くのも間違いない。この匂いと共にある時間が長いからか、それとも……。
わずかな光源であるモニターの明かりを頼りに爪の表面が奇麗になったのを確認すると、手に取った粗いヤスリで爪先を整えていく。粗すぎる故に幾度か引っ掛かりを感じては力加減を調整しながら、着実に整えていく。一本一本。それが儀式であるかのように気持ちを落ち着かせていく。
その狭い空間で聞こえるモーター音がやけに耳に響いて気になって仕方がない。気持ちが落ち着けば落ち着くほどモーター音は大きくなっている様に思えてならない。
モーター音を聞いていたくなかったからか。ふと、そのモーター音に紛れて川のせせらぎが聞こえた気がしてモニターで辺りを観察する。待機場所であるそこは草木が茂っており足場付近の様子は詳しくはわからない。しかし、覆われた草木の隙間から水の流れが見えた。小さな水路のようだ。近くに村があるのは作戦前の情報から知っている。近くの川から水を引くための生活水路だろうと推測する。
与えられた情報の中には無かったものだ。作戦に支障はないだろうが、上官に報告しておいたほうがよさそうだ。
生活水路の先にあるだろう村の様子を思い浮かべて懐かしさがこみ上げてくるのを感じる。子どものころ住んでいた村にそれはよく似ていた。父がいて、母がいて、貧しい農村だったけれどそこそこ幸せだったように思う。父は頑固であまり笑わない人だった。母は父の代わりと言わんばかりによく笑う人だった。ふたりの顔が鮮明に思い出せなくて、考えるのをやめた。
ようやく整え終わった爪にコーティングしていく。青藍色のポリッシュを選ぶ。先輩から貰った唯一の物だ。ここぞというときはどうしてもこれを選んでしまう。
先輩が見守ってくれる気がするから。
ムラができないように丁寧に塗っていく。
いつからだろうと考えてしまう。この作業をしないと作戦に集中できなくなったのは。
戦場のノウハウを教えてくれた先輩が帰ってこなかった時。気が合った同期が機体を半壊させて、自身の身体も半壊してしまった時。自分たちの力不足で村をひとつ焼かれた時。もう後戻りが出来ないところまで追いつめられていると知ったとき。
どれを思い出しても身震いが止まらない。
青藍色に染まった自分の爪を見ると少しだけその震えが治まる。
『作戦時間だ。各自出発してくれ』
隊長の声がコックピットの中に響く。
後ろにある村を思い。操縦桿を握る手に熱が込められる。
あの生まれ故郷の村の様な悲劇を繰り返してはいけない。ただそれだけを思いながら、震える手を必死で抑えながら、機体を前進させた。
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