剣が夜を穿つまで
夏希
雷と焔
ソハヤは雷のようなハヤブサです。
広げた翼は杉石のような淡い紫の輝きをちりばめ、雲母がキラキラと虚空に光るようでした。また、鋭いくちばしはまるで光すら捕まえる黒曜石の漆黒で、その根元は白雪ほのかに降る冬の夜半が映っているのです。獲物を切り裂く爪は刀の切れ味と遜色は無く、急所に一撃を見舞えば相手は命を落としたことすら気づかないでしょう。
森の透き通った風も彼に追いつくことは叶わず、そして薔薇色の明けもどろを欲しいままに浴びる姿はどんな生き物たちの目にも神々しく、そして耽美に映ったのです。
ソハヤは孤独を何よりも好みました。山から吹き下りてくる苔むした岩々の薫りの風や、初夏の訪れに吹く青葉を揺らす緑色の風、彩りに満ちた風を独りで食むとき、彼は自分がそこに確かに存在していることを確信するのです。
「ソハヤ。今日の『よる』も、君はいかずちのように飛ぶのかい」
赤や金に色づく山の裾野。ソハヤが一本のイタヤカエデに留まって夕暮れの秋風にそよがれていると、ヘラジカのミシオが声をかけてきた。
ミシオの角は燃え上がる焔が天に伸びるようで、口元から垂れる吻は古城の主を彷彿とさせる威厳に満ちています。森の生き物たちは彼をなによりの相談者として見ていた。理知に富む彼の性格はその大きな瞳に現れている。何者をも見透かす黒い目は鏡のようで、キツネも彼の前では通用しないのだ。
ミシオが穏やかにそのまぶたを閉じる。すんすんと鼻を鳴らして吹く風を嗅いではこういった。
「もうすぐ冬がおとずれるね。今年も、山や森は真っ白になってしまうのかな」
風が吹き、木々の葉がさらわれて山吹色になると、ソハヤは口を開いた。
「初霜の降りる頃。それから、深く積もった雪の上を、君がその足で歩く音が好きだ」
「僕も、君が雷になる時の音が好きさ。勇ましく、何ものも寄せ付けない」
ミシオの言葉に、ソハヤは口をつぐんだ。
『よる』が森を訪れるとき、ソハヤは木立の間を稲妻のように駆け抜け、たちまちその闇を払うのです。森の生き物たちは『よる』をひどく怖れていました。『よる』が訪れる時、森の風は止みます。こずえは鳴くことをやめ、時が止まったように辺り一面がしんと静まりかえるのです。それは静謐な時間ではなく、息苦しい窒息したかのような零の時間となる。『よる』は必ず森の東からやってきて、給水塔の鉄を軋ませる。ぎいぎいと醜く、そしておぞましい錆びた音色が森から風を奪っていくのです。
ソハヤは『よる』の訪れる音を聞くと、山の頂でも森の外れにいようと、すさまじい速さで『よる』に肉迫します。一度たりともその速度を落とさず、『よる』の中に飛び込んでいくのです。星の輝きも、月の明かりも届かない『よる』に目がけて、雷の槍となったソハヤは真っ直ぐに突き抜けていきます。冥く、動くことの無い時間の海を泳いで、『よる』の鼓動を瞬く間に貫く。
そんな彼を、山や森の生き物たちは“紫電一閃のソハヤ”と畏敬の念を込めて呼ぶのでした。
「俺は、勇ましくなんかない」
ミシオの言葉に対し、ようやく口を開いたソハヤはそう答えた。無機質で、おぼろげな言の葉を紡いだソハヤは嘆息する。しかしミシオは見透かすようにこう切り出す。
「僕の前で嘘をつくのかい」
ソハヤはミシオの目をしっかりと見て言葉を継ぐ。
「偽りなんてない。俺はあの冥い海を渡るとき、底知れぬ怖れを感じるんだ。それは、あの『よる』の中を飛ぶ俺にしかわからないことだ」
ソハヤはそう言い残し、ルブライトの翼を羽ばたかせて空へ跳ね上がりました。ミシオはその姿を捉えることすらできませんでした。
「孤独な雷。猛き御雷。君はどこまでも貴い剣。君が怖れを知るものということは、僕だけの胸にしまっておこう」
焔を携える古城の主は、カツラの木立に消えていった。秋の王が落ち葉を踏むたび、茜と琥珀色の絨毯にはキャラメリゼの香りが残るのだった。
***
ハクトウワシのウバラはソハヤの事が気にくわないのでした。
いつもいつも、ソハヤが独りぼーっと佇んでは、何を考えているのか、とウバラは疎ましい目で見ていました。さもあれば、気づいたときにソハヤの姿は無く、玻璃をすすいだ様な青空に溶けて消えたか、青漆深い梢を縫うように飛び抜け、木立の中へ消えているのです。日が沈んだ後、森を独り飛び回るソハヤを見るたび、ウバラは彼のことを小面憎く思っていたのです。
ソハヤが天高く空を泳いでいるのを見かけると、ウバラは彼よりも高く高く飛びますが、気づいたときには追い越されているのですから、ウバラはいい気はしません。ソハヤは蒼穹の彼方へ突き進み、希釈された輝く風を食んだあと静かに森の中へ沈んでいきます。ウバラは荒れ吹く風をガーネットの翼で受けるのが精一杯でした。一面の青に取り残された事を知るとき、なんとも惨めで、ソハヤが己を歯牙にもかけていない事を思い知らされるのです。
「気にくわない。オレはあいつのああいうところが好きじゃない」
ウバラは胡桃色の翼を広げて大きく伸びをしました。ターメリックイエローのくちばしが、だらしなく開いて秋風をたっぷりと吸い込みます。ウバラの目には、空を渡って小さくなっていくソハヤの姿が見えていました。
「オレはあいつが気にくわん」
「はいはい。旦那がソハヤの兄貴を嫌いなのはわかりましたから」
ウバラの脇で、ノスリのヤスケがそう言いました。
ヤスケのあきれ混じりの言葉が癪に障ったのか、ウバラは鋭い剣幕で睨みます。
「嫌いってな、お前に何がわかるんだよ」
「何って、旦那がソハヤの生意気な態度に……」
ヤスケの言葉を遮るように、ウバラは詰め寄ります。そして今にも飛びかかろうという気配をにじませてヤスケをねめつけます。
「ヤスケ。串にでもされてえのか手前はよ」
ヤスケは血の気が引いていく音を感じながら、今にも羽根まで青白くなりそうでした。ウバラの尋常では無い圧力に、今にも消え入りそうな声をようやくひねり出します。
「じ、自分、なにか間違ってますか……」
「お前がソハヤを見て何にも感じないってことだけは、よおくわかったよ」
ウバラの澄んだ石英の瞳が、青白くすくみ上がったヤスケを射貫きます。
「面かせや。オレが言いたいことを教えてやるよ」
ウバラはその鋭い表情をわずかに緩ませては、目の奥に不敵な輝きを灯したのでした。
***
森の木立も眠りに就こうという夜半に、ソハヤは欅の枝に留まって星々を眺めていました。
天馬の四辺形から、ケフェウス、カシオピア、ペルセウスと星座をなぞり、南天のフォーマルハウトまでをなめたあとにそっと目を閉じ、まぶたの裏にそれを写すのです。
「今夜は、とても静かだね」
欅は唐紅の葉を揺らし、風に乗せて語ります。
「剣の士たる君が、こうして風を読んでいると、僕もとっても落ち着くよ」
色づいた葉を散らしながら、欅はゆったりとソハヤに語りかけます。枝にとまるソハヤは、透明な風が止むのを待ってから目を開き、語り出しました。
「それでも、『よる』は来る。みんなの平穏を脅かしに」
「戦いにいくのかい」
「兄が死んだときから決めている。俺はこの翼が千切れるまで、雷を鳴らし続ける」
ソハヤにはサダムネという兄が居ました。
サダムネはこの森、山、自然を守る戦士の一人、「剣」でした。サダムネの翼はあらゆる風を束ね、あまねく星々の光を集めては夜な夜な『よる』を討ち取っていました。
***
それはソハヤがまだ小さい頃のことでした。
嵐が近づいていた日のことです。轟々と風が荒れるたそがれとき、サダムネはソハヤを残して家を飛び出しました。
「あかときが昇る頃に帰る。それまで家を出るな」
それがソハヤの聞いたサダムネの最期の言葉でした。
音も消えた晩夏の夜。日は沈み、風は止み、星々の光が届かない森。兄の帰りを待っていたソハヤには、寄せては返す時の流れが悠久の時のように感じていました。
そして、日付が変わろうという夜更けに一筋の雷が落ちました。森や山にその雷鳴が響いたあと、木々の鳴く声を聴いたのです。
ソハヤは家の窓を開け、天を仰ぎました。引き潮の様に消えていく群青の雲を見て、なにかに打たれたように窓を飛び出したのです。時が動き出した森を飛び抜け、翼が折れるくらい羽ばたき、木立を縫って東を目指しました。吹き始めた夜気を含む風。揺れる木々は何も語りません。ソハヤの中で止まった時間が、東に向かうにつれて動き出します。桜も、楓も、あらゆる木が口をつぐんで泣いています。
給水塔の麓には森の仲間達が集まっていました。
羽根の一枚一枚にまとわりつくような、湿度の高い風を押しのけて、ようやく給水塔のもとに足を下ろしたとき、ソハヤは兄の死を悟ったのです。
サダムネの亡骸を取り囲むように、森の生き物たちが集まって居ました。ソハヤがたどり着いたとき、みなが一斉にソハヤを見ました。
「……ソハヤ。サダムネが」
ノウサギの一人が湿り気を帯びた瞳でソハヤに訴えかけます。
「ソハヤ……」
森の王たるミシオも、悲壮に暮れた様子でソハヤに寄って来ました。今にも泣き出しそうな顔で語り出します。
「『よる』が、サダムネを殺した……」
この森で、山で、『よる』を倒せるのは『剣』しか居ない。兄がこの野山に、深い森に命を捧げたのだと、ソハヤは自分に受け入れさせようと必死でした。
「いつか、お前と一緒に翼を広げて、星空の下を飛び回りたい」
サダムネは折に触れて、ソハヤにそう言い聞かせていました。ソハヤ自身も、早く兄のように、風を切る太刀の如きハヤブサになりたいと常々思っていたのです。しかしその願いは潰えました。
たった一人の家族を奪われたソハヤは、そのとき心に誓ったのです。
――俺が、『よる』を殺し続ける。何度この森に、山に来ようとも、俺が『よる』を殺す。
ソハヤの翼が音を立てて泣きました。
怒り。
憎しみ。
悲哀。
そして永訣。
不可逆の時間を認識し、死別を受け入れたとき、その蒼い翼が御雷の迸りに狂いました。
ソハヤは冷たく横たわる屍に寄り添い、声が枯れるほど泣きわめき、帯電する翼でサダムネを抱きしめました。周りのものは誰一人として口を開きません。ソハヤの非業の叫びをじっと受け止めています。
その晩、嵐は訪れず、悲壮な雷鳴だけが明け方までこだましていました。
***
「くるよ、ソハヤ。……『よる』が、くる」
羅紗でできた葉をさらさらとそよがせ、欅は言いました。
ソハヤは欅の言葉を耳にするや否や、返事もせずに闇の中へと飛び去って行っていきました。彼が留まっていた枝がかすかに揺れ、藤の花が狂い咲くように電荷の花びらが散りました。
そして森の音をさらった黒い風が吹き抜けると、一面の時間が止まるのです。東の空は冥く、静まりかえっています。
ソハヤは紫電を帯びた銀の銃弾となり、森にはびこる闇を退けていきます。彼の一秒は、世界が追いつくことができない不可視であり、那由他の時になるのです。
しかし、黒く立ちこめる『よる』は次第にその濃さを増していきます。真っ黒な汚泥やぬかるみが意志を持ち、滲むように森の空気を穢すのです。
ソハヤの巻き起こす至極の渦雷は、霧となる『よる』を撃攘し、さらには容赦のない苛烈な追い打ちを見舞います。灰簾石の羽根が風を切り、そこから打ち出される雷はまるで銃撃のようです。ソハヤは『よる』に間隙を与えません。風と星の輝き、そして稲光を束ねて、捻じ曲げられたその中心めがけて必中の魔弾を射掛け続けました。
闇色の濃霧は消え去り、『よる』の歪んだ黒い核が剥き出しになります。
「滅びろ」
言葉のあと、刹那も置かず。破滅の放射光を身に纏い、一閃が走る。
迸る青い光が一点目がけて突き進むそのとき、一筋の真紅がソハヤに衝突したのです。
「――!?」
ソハヤはぶつかった衝撃と一瞬のその出来事に息が止まりました。星空と大地が何度も反転し、転げ回るように墜落したソハヤはようやく森の空気を吸うことができました。見れば『よる』の歪みの周りに、黒く爛れた戟刃が生け垣を作るように立ち並んでいました。そのまま突っ込んでいればソハヤの輝く翼はおろか、その身も千々に裂かれていたことでしょう。
「ちっとは止まって考えねえと、この先いくつ命があっても足りなくなるぞ」
ソハヤは声の主を探します。そして視界の端に零れ落ちる火の粉を目にし、それをゆっくりと辿ると、遙か頭上の満月が紅く燃えていました。
「ソハヤ。お前は二つの命を持っている。一つはお前自身の。もう一つはサダムネが遺した誇りという名の命だ」
星海に咲く一輪の彼岸花が語ります。そして花弁を散らし、空に浮かぶ月が本当の禍つ光を帯びるのです。焔の花――ウバラがソハヤに語ります。
「オレはお前の事が気に食わん。その命、オレが預かる」
剣が夜を穿つまで 夏希 @amatu303
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