サキュバス魔女王があいつを殺しにいってきます~魔女王の下克上~

一色姫凛

目覚める古城

 その部屋はとても広々とした部屋だった。


 天井は自身がちっぽけな存在に感じてしまうほど高みにあり、ずっと見上げていると平衡感覚がおかしくなりそうなほど。


 加えてその部屋の四方を囲む壁の奥行きもまた常軌を逸したものであり、最奥の壁など目を細めて見たところで視界に捉えることなどできはしない。


 光源のない薄暗いその部屋は、よくよく目を凝らしてみると床はでこぼこと隆起して大きくめくれあがり、あちこちが何かの衝撃波でも受けたように砕け散り粉塵と化している。


 それだけではない。見渡す限りの床一面に、まるで闇にうごめく海面のように黒ずんだ出血痕が確認できた。


 かろうじて天井を支える壁もまた似たような惨状だったが、床と違っていたのは球体状の曲線を描いたへこみがあることだ。


 それは部屋の中央から外へ向かって広がり、壁全体を圧迫し押し出したような跡だった。


 そこでいったい何が起きたのか、今ではその真相を知る者はほんのわずかしかいない。


 あるじを失い、多くの遺恨を刻んだその部屋は今はただ沈黙を守る。静寂に身をゆだね、まとわせる空気は冷ややかに、時に埋もれながら。


 だが待っている。その部屋は、その荒城は、眠れる獅子を待っているのだ。今か今かと待ち侘びて、新しい主人あるじを待っている。


 どれほどそうして待ち続けただろうか。


 多くの人々の記憶から消え失せ、埃をかぶった古い書物に文字で記されるその荒城で、人知れず小さな変化が生じ始める。


 薄暗い部屋の中で血塗られた床から、ふわりと浮かび上がった小さな漆黒の光。


 ひとつふたつと増えるそれは、次第に数を増して巨大な部屋の床一面から無数に浮かび上がる。


 恨み悲しみ憎しみ。それは長年の時を経て蓄積され具現化された負のエネルギー。その漆黒の光に部屋中が満たされ、次第にそれは部屋の中心へと向かって収束し始めた。


 徐々にスピードを増して収束したその無数の光は、ひとつの大きな球体を宙に作り出す。


 深い深い漆黒の闇。


 それはゆるりと人の形をとり始め、そして固定する。闇が薄れ始めると、死人のような青白い肌が末端まったんから現れた。


 細く長い指にすらりと伸びた筋肉質の腕。引き締まった腰におうとつのない胸板。鳶色の短髪に少し太めの眉。


 黒い皮張りのロングコートを身につけて現れたその人物の顔は、まだ十代の青年といったところだ。


 すっと開いた瞳もまた髪の毛と同じ色をしていたが、間もなくして瞳の外側から鮮血の色がにじみ出し、鳶色の瞳を真紅に染め上げた。


「やっとか……長かったな」


 凝り固まった体をほぐすように首を鳴らし、青年はぽつりとつぶやく。


「さて。まずはあれをなんとかしねぇとな」


 青年が真紅の瞳を流したその先には、この部屋のさらに奥へと続く扉がある。


 ロングコートに両手を突っ込み、裾を靡かせながら直立姿勢のまま扉に向かって下降すると、青年は足音を立てずにその場に降り立った。


 扉には七色に輝く魔法陣がゆっくりと回転しながら浮き上がっている。それを見た青年は小さく眉をひそめた。


「死にぞこないの老人どもが。さすがに抜かりねぇな」


 軽く舌打ちをすると青年は魔法陣に向かって人差し指をつき立て、動かし始めた。それは一見、規則性のない動きのように見える。


 だがその先で魔法陣に描かれた図形の一部がパズルのピースのように動き始め、その後も青年の指先は淀みなく図形の上をすべり続けた。


 顔色ひとつ変えることなく、いくつもの複雑に組み込まれたピースを右へ左へと動かし続けた青年は、ついに当初あった図形を見事に反転させた魔法陣を作り上げた。


 すっと指先を離し、新たに書き直した魔法陣に手のひらをかかげ、青年は小さく呪文を口ずさむ。


「――解」


 パリィン……


 結晶が砕けるような軽やかな音を立てて魔法陣は崩れ落ち、床にたどり着く前に跡形もなく消え失せる。魔法陣の消えた扉を見つめ、青年は扉を押し開けた。


 ギィと重い金属音の軋む音。そして新たに開かれた部屋には、目を細めたくなるほど眩い七色の煌めきが隅々に渡るまで充満していた。


 顔をしかめて右腕で前を覆い隠し、青年は左腕を前に突き出す。突き出した手のひらには徐々に膨れ上がる漆黒の球体が姿を現した。


 一定の大きさまで膨れ上がった球体は、勢い良く青年の手を離れ、部屋の中央に吸い込まれるように停止すると、直後ブォン……という虫の羽音のような音を立てて瞬時に部屋中を覆い尽くした。


 部屋に満ちる七色の輝きを一瞬で閉じ込めた漆黒の闇。


 だがそれも束の間。端からじわじわと侵食するように七色の輝きが再び姿を現し始める。


「ちっ、やっぱりダメか」


 吐き捨てるように青年が言葉を紡いだのと同時に、今度は七色の輝きが一瞬で闇を飲み込んだ。


「仕方ねぇな。なら、おまえは在るべき場所に還れ」


 七色の光を睨みつけると青年は部屋を出て、呪文を紡ぎながら空中に向けて指を動かし始めた。


 間もなくして蒼色に輝く魔法陣が空中に浮かび上がり、完成した魔法陣を見つめて青年は最後の呪文を口ずさむ。


「輪還」


 直後、ザアッ……と音を立てて部屋の中から七色の光が滝のように一斉に流れ始め、魔法陣の中へと吸い込まれていく。


「頼むからもう来るなよ」


 最後の欠片が魔法陣に吸い込まれていくのを、青年はひらひらと手を振って見送った。


「さて……これでやっと邪魔者はいなくなったな。……出てこい」


 新しい主人あるじの呼びかけに応じ、七色の光が消え失せた部屋に新たに生み出されたのは暗黒の闇だった。


 あっという間に小部屋を埋めつくし、扉から外に溢れ大広間に流れでる。


 まるで堰を切ったダムのように怒涛の勢いで流れ出した闇は、大広間を満たすに留まらず荒城の隅々まで足を伸ばす。


 そうして古く荒廃したその城は長年の時を経てやっと、新たな主人あるじを迎え入れ、再びあるべき姿を取り戻したのだ。


 それは人間が住む場所にあらず。魔が生まれし土地。魔界の奥地に佇む――魔王城と呼ばれる城であった。


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