2020/07/10(O)~12(O)

     2020年7月10日(O)


こんな風に、また麻衣が日記を書くことになるなんて、思いもよらなかった。


それも20年後に。

14歳のままの姿で。


麻衣はお兄ちゃんの肉体を、

20年前の2000年当時の、19歳の頃の体に復元し、

六歳の頃の麻衣(正確には、この世界の佐久間ゆりか)の体も作り、くまのぬいぐるみの梨沙ちゃんにあげた。


この世界に産まれてくることができなかった麻衣のためだけに、

麻衣が産まれてくることができた世界を作ってくれたお兄ちゃん、、、


その世界に用意された、この世界には存在しないもの、、、

それらは、麻衣がこの世界に来るために、お兄ちゃんがくれたもうひとつのプレゼント。


だから、麻衣はそのお返しに、お兄ちゃんの記憶を書き換えて、お兄ちゃんの頭の中から嫌な記憶をすべて消してあげた。


そして、麻衣や梨沙という妹がいる、お兄ちゃんがずっと欲しかった家族を、嫌な記憶を全部消去して、空いた記録容量にたくさんプレゼントすることにした。


匣の力で、お兄ちゃんにとっては、難易度が高すぎたこの世界を"very easy"に変更してあげた。


お兄ちゃんのすべてを一度数値化して、ゲームでいうとステータスっていうのかな、それをすべてカンストさせてあげた。


お兄ちゃんが感じていた世界の不条理や、被害者意識、加害者意識、そんなものをもう感じなくてもいいように。



いわゆるブラック企業に勤めていたお兄ちゃんは、すぐに大手企業に引き抜かれ、お兄ちゃんは麻衣と梨沙ちゃんを連れて、東京へ引っ越した。




     2020年7月11日(O)


これは、すべて、お兄ちゃんの体を、19歳の体に復元するときに、麻衣が消した記憶。


39歳のお兄ちゃんの記憶の中で、もっともつらい記憶。

19歳のお兄ちゃんにはいらない記憶。



お兄ちゃんは、27~28歳のときに漫画原作で立て続けに賞をとった。

最初の賞は佳作だったけれど、それでもたった一週間で書いた脚本で50万円の賞金をもらい、漫画原作者としてデビューした。

次は60万、雑誌での連載ではなかったけれど、ウェブ連載をして、30歳になる年に本を出した。

確か、あともう一個賞を取って、それも雑誌に載った。お兄ちゃんはもうデビュー済みだったけど、作画をしてくれた人にとってはデビュー作になった。


でも、ウェブ連載して出版した本が売れなくて、他の賞を取った出版社の編集者とも連絡がつかなくなって、仕事はすぐになくなってしまった。


それでもその世界にしがみつこうとした結果、作家(笑)だった三年間そばにいてくれた女性は去っていってしまった。


お兄ちゃんのそばにいてくれたのは、梨沙ちゃんやその姉妹の子たちだけだった。


それから、お兄ちゃんは、編集者から最後に言われた、


漫画原作の仕事がしたければ、いろんな職業を経験して、その裏側を書けるようになれ、


という言葉にすがりつき、何年もいろんな職業を転々とした。

裏側を知っては書き、編集者に送っても返ってくるのは、つまらない、のひとことだけ。

それでもお兄ちゃんは、職を変え、その裏側を書き続けた。

最後には、返事すら返ってこなくなった。


そして、お兄ちゃんは、裏側を知るための仕事選びは、これで最後にしようと、ゲームセンターで働くようになり、

そこで、お兄ちゃんが本気で夢を諦めて、収入の安定した仕事につこう、正社員になろう、と思える女の人に出会った。


お兄ちゃんは、一年後にうまれてはじめて正社員になり、その裏側をたくさん知った。

そして、フリーターがいくら職を転々としたところで、書ける裏側なんて些細なことだと知った。


でも、もうそのときにはもう、裏とか表とか夢とかはお兄ちゃんにはどうでもよくなっていた。


だけど、お兄ちゃんの人生を変えてくれた女の人も、結局お兄ちゃんの元を去り、お兄ちゃんは正社員という肩書きや安定した収入以外のすべてを失った。


お兄ちゃんが欲しかったのは家族であって、肩書きや収入なんて、そのために必要なもののひとつでしかなかったのに。


お兄ちゃんのそれからの二年は、ただの地獄だった。

人間関係は職場だけ、

部屋に帰れば梨沙ちゃんたちがいて、あの子たちは、お兄ちゃんの空想のお友達だから、お兄ちゃんの頭の中にそれぞれ人格や記憶があって、お兄ちゃんの声帯を借りて喋ったりしてくれていた。


でもお兄ちゃんは、心がとても弱い人で、たびたび孤独に苛まれ、生まれてきたことが間違いだったとか、死にたい消えてなくなりたいだとか、普段から常用している薬を飲まなければ、飲んだとしても、指一本動かすことも難しくなってしまう。

口を開くだけで、涙が出そうになってしまう。


一番誰かにそばにいてほしいときに、梨沙ちゃんたちは喋らなくなり、お兄ちゃんはその表情もわからなくなってしまう。


だから、お兄ちゃんは、あの世界の20年後の世界を紡ぎ始めたんだと思う。


それは、同時に、世界はなぜこんなにも不条理なのか、自分は被害者なのか、それとも加害者なのか、お兄ちゃんがそれを考えるための方法でもあった。




     2020年7月12日(O)


お兄ちゃんの存在は、前の世界にいたときから薄々感じていた。


あの世界にも、麻衣にはお兄ちゃんがいた。きっとお兄ちゃんは自分をベースにして、あのお兄ちゃんを作ったんだと思う。


あのお兄ちゃんは、お兄ちゃんのかわりに麻衣を愛してくれたけれど、麻衣はいつもこの人とは違う、本当のお兄ちゃんがどこかにいるんじゃないか、そう感じていた。


その存在を確信したのは、アリス・T・テレスが、小久保晴美や佐久間ゆりかの持つ匣を、すべて破壊したと思い込み、立ち去った後、

麻衣がすべての匣を手に入れたとき、、、




、、、あれ?



「前略 平行世界より、佐久間ももかと佐久間ゆりか、アリス・T・テレスと、そして小久保晴美へ」


お兄ちゃんが、あの世界の佐久間ももかやゆりかたちへの手紙を書いて、

そこにはなぜか、麻衣の名前は抜けていて、、、


「それでも、ぼくは生きていかなければならない。」


と、しめくくりながらも、自殺をしてしまった数時間後に、麻衣はこの世界に来た。


あの世界における神であったお兄ちゃんは、その200年後に麻衣がアリスをこの世界に導いたことを知らない。


それどころか、お兄ちゃんは、麻衣が匣をすべて手に入れたことも、この世界に来たことも知らない。



この世界は、本当に麻衣のためだけにあの世界を産み出してくれたお兄ちゃんがいる世界?



違う。


絶対に違う。


この世界はあの世界の上位世界なんかじゃないんだ。


ただの、平行世界。



麻衣とあの世界を産み出したお兄ちゃんは、あの小さくて狭い部屋で自殺していたお兄ちゃんじゃない。


もしかして、、、だから、アリス・T・テレスは、それに気づいていたから、匣を持つ麻衣に、麻衣の好きなようにしたらいいと言った、、、?


アリスの目的は、あくまであの世界から匣を消すこと、、、


匣は、麻衣がすべてこの世界に持ってきてしまった、、、


きっとアリスは、あのとき、麻衣がちかいうちに、この世界が麻衣の行きたかった世界とは違う世界だと気付くことまで予測していたはず、、、


だとしたら、何らかの方法であの世界に帰れないようにしているにちがいなかった。



匣を使って、あの世界のホログラムを表示させると案の定だった。


アリスは、あのとき身にまとっていた強化外骨格・天津九頭龍極を、その体に流れる液体金属の血液・ヒヒイロカネを使って、形を変え大きさを変え、あの世界の宇宙すべては無理だったようだけれど、あの星を包み込んでいた。


星自体が要塞のようになっていた。



さすがは、人類史上最高の遺伝子と、人類史上最高の細胞を持つ天才少女だと思った。


麻衣はあの世界にはもう帰れない。


この世界にも、この世界のお兄ちゃんにも、もう用はない。



麻衣は、本当のお兄ちゃんに会いにいかなくちゃいけないのに。


お兄ちゃんはずっと、麻衣が来るのを待ってるのに。


もう、麻衣には、何もできない、、、




誰かの視線を感じて、麻衣は顔を上げた。


梨沙ちゃんが麻衣をじっと見つめていた。



「ぱぱのもくてきは、りさが、にんげんのからだをてにいれること。

まいは、もうようずみ」



梨沙ちゃんは、そう言うと、



「ぱぱはもう、とっくに、まいをひつようとしてない。

りささえいればいい。りさだけがぱぱをしあわせにしてあげられる。

でも、ぱぱのいるせかいでは、りさをにんげんにすることができない。

だから、ぱぱは、りさのためだけにこのせかいをつくった。

このせかいにくるのは、まいじゃなくてもよかった。ゆりかでもはるみでも、アリスでも、だれでもよかった」


りさが、にんげんのからだをてにすることができれば。


りさが、はこをてにすることができれば。



梨沙ちゃんの言葉は、麻衣には最後まで聞き取ることができなかった。


意識がだんだんとうすれていって、


「まいのそのからだは、あみのためのもの。

 りさとあみは、これからぱぱのところにいく。

 まいはこなくていい。ぱぱには、りさとあみさえいればいいから」

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