小柄千春の奇界漫遊譚
竜王宮リノ
1章 第1話 8月27日 登校
『お……! しっ…………ろ!』
真っ暗な空間に声が響く。聞いたことがある声。
『や……! …………け……れ!』
怒っているような、泣いているような、そんな声。目が開かない。誰?
『た……! た……ピ!』
ピ?
『ピピ……ピ……ピ!』
誰かの声が聞いたことのある電子音に変わる。なんだっけ、この音。
『ピ……ピピピ、ピピピピピピ!』
あぁ、そうか。この音は──。
*
(ピピピピピピピピピピピピ!)
「んぅ……」
目を開ける。見慣れた天井が朝日に照らされている。耳に飛び込んでくる電子音の行方を探せば、小さな目覚まし時計がベッドの隅で朝日に照らされ、黄金に輝いていた。こうして時計を見つめている間も電子音は響く。それどころか苛立つように音は大きくなっている。けたたましく響く電子音に顔をしかめながら、僕は布団から手を伸ばし時計を撫でる。何度も撫でているうちに音は次第に小さくなり、やがて止まった。
ベッドから上体を起こし、大きく伸びをする。伸びのついでに大きなあくびもひとつ。自分の部屋だから下品だとかは考えない。音が止まった時計をもう一度撫でる。
「今日もご苦労様」
僕の言葉に応えるように、僕の手の下で小さな頑張り屋はピッ、と鳴った。本当に不思議な時計だ。どう見てもアナログの金時計なのに、音は電子音。電池どころかネジもない。何で動いているかは不明。
そして特に不思議なのは、まるで生きているかのように動くところ。鳴りだした場合、優しく撫でないと音が止まない。早く音を止めないと悪化する。叩こうものなら大惨事。一度、寝ぼけてベッドから落としてしまったときは窓が震えるほどの轟音で鳴りだした。あの時は30分ほど撫でなければ音が止まなかった。父さんはいったい何処でこんな時計を見つけてきたのか。
時計を見れば時刻は5時半。二度寝をしても良さそうな時間。眠い。寝たい。あと10分、と瞼を閉じようとした途端、隣に鎮座する目覚まし時計が小さくピッピッと鳴り出したのを聞いて目が開く。すごい時計だ。二度寝対策もバッチリ。
ベッドの上にいては眠くなってしまうため、そそくさと降りる。着替えを探すためにタンスへと近づきながら横目に部屋にかけられたカレンダーを見る。今日の日付、8月27日の所に赤い丸がついている。今日から学校だ。始業は8時半。それまでに準備をしなくては。
タンスから着替えを用意し、パジャマを脱ぐ。もぞもぞと腕を動かしながら、まだ上手く動かない頭でぼんやりと朝食のメニューを考える。何を作ろう。そろそろスクランブルエッグは食べ飽きた。目玉焼きにしようかな。じゃあ副菜は……。
パジャマを脱ぎ終え、下着代わりのTシャツも脱ごうとしたとき、手が止まった。……聞こえる。僕の背後のベッドの上から、低く不規則な電子音が。それはそれは嬉しそうな、ライオンの唸りのような電子音が。
捲りあげていたTシャツを戻し、着替えを持ってドアから外へ出る。この間、約3秒。閉まったドアの向こうから舌打ちのような鋭い電子音が聞こえた気がした。
「……なんで部屋の主が部屋の外で着替えなきゃいけないんだろうね?」
***
本日の朝食『目玉焼き〜小さなソーセージを添えて〜』
「いただきます」
目玉焼きに醤油をかけて、黄身と混ぜる。半熟に仕上がった卵がトロリと流れ、白身を染める。この白身を一口大に切り分けて食べるのが我が家の食べ方。
箸を動かしながら、テレビの電源を入れる。聞きなれたメロディーを流しながら7時のニュースが始まった。7時なら、まだ大丈夫。着ている学校指定のワイシャツに卵を飛ばさないようにしながら、ゆっくりと味わって朝食を食べる。うん、美味しい。今日は上手に作れた。
今日のトップニュースが終わったタイミングで食事を終え、席を立つ。食器をキッチンへ運び、洗う。食器洗いの次は洗面所で歯を磨く。歯を磨きながらも休まず、今日のゴミをチェック。今日は月曜日だから燃えるゴミ。家中を巡り、ゴミをまとめて袋に詰める。
そのゴミ袋を玄関に置いてから、洗面所へ戻る。歯磨きの仕上げをしながら、寝癖を今一度確認。問題ない。かっこいいとはお世辞にも言えないが、悪くはない。背が低いのは、ご愛嬌。そうしている間にも歯磨きが終わる。口をすすいだ後、ニッと口角を上げる。こういう顔を愛嬌がある顔という。そうに違いない。
歯磨きを終えてリビングルームに戻ってくる。付けっ放しのニュースでは見慣れたアナウンサーが地方の特産品を紹介していた。その画面上の時計は7時48分を示している。完璧だ。初めて1人で準備をした頃は手際が悪く、遅刻ギリギリになってしまったこともあった。ここまで手際が良くなったのも父さんがたびたび家にいないからだ。いや、それを良いとは思わないけど。
リビングの椅子に腰を下ろしニュースから切り替わった天気予報を眺める。僕の住む地域は綺麗な秋晴れ。降水確率は0パーセントだ、傘は要らない。
「……少し早いけど、出ようかな」
いつもは朝のドラマを見てから出るのだが、今日は早めに出ることにする。新学期の初日から遅刻するのは良くない。足元に置いておいた通学用の鞄を拾い上げ、玄関へ向かう。
リビングから出る前に、戸棚の中の写真に手を振る。
「じゃあ、母さん。行ってきます」
写真の中の女性──僕の母さんは穏やかに微笑んでいた。
***
「よいしょ」
ゴミステーションの中にゴミ袋を入れる。これでゴミ捨ては完了。最初はこのゴミステーションの蓋を開けるのにも悪戦苦闘したっけ、と思い出し苦笑する。習慣とは偉大だ。
見慣れた通学路を歩く。部活で学校に行くことなどもなかったから、この道を歩くのもおよそ一か月ぶり。そんな通学路は変わらず僕を迎えてくれた。見慣れた建物、見慣れた街路樹。いつも通りの光景がいつも通りのすてきな日を予感させる。空は秋晴れ。青から水色へのグラデーションが美しい。
きっと今日はいい日だ。いつも通りの日のすてきな日が始まる──。
「もっと! もっと早く走って、コシー!」
隣の車道から、轟音と暴風が僕の横っ面を殴る。それが、何かが隣を駆け抜けたからだと気付いたのは、道路に尻もちをついてからだった。
「待たんか、貴様ァ!」
追いかけるように何かが高速で駆けて行った。遠ざかっていく轟音を目で追うと、通学路の遥か遠くに立ち込める土煙が見えた。そして、それを追いかける人のような何か。いやいや、あんなレーシングカーみたいなスピードで人が走れるわけがない。
「……見間違い、かな」
強風で崩れた髪を戻しながら呟く。そうさ、見間違い。秋の空が見せた一瞬の気の迷い。そうに違いない。
それはそうと、こんなところで突っ立てたら遅刻してしまう。いくら早く家を出たといえ、そんなにのんびりしている時間はないのだ。
***
「久しぶりー! 元気だった?」
「おひさー! あれ、なんか感じ変わったー?」
「そうなのー! ちょっとイメチェンしてー!」
…………ははっ。
「よぉ」
「おお。久しぶりじゃん。……なんかデカくね?」
「そうなんだよ。背が伸びてな」
「いや、背っつーか、なんつーか」
あっはっは……はぁ。
目の前の光景を見て、自分の口から乾いた笑いが漏れる。目の前には制服の群れ。その制服は間違いなく自分と同じ、高校指定のもの。しかしそれを着ている人間が違う。
目の前で友達との再会を喜んでいる少女の背中からは白い大きな羽が生えている。その隣の少女は見た目こそ普通だが、地面から10センチほど浮いている。その向こうで談笑する男子たちは頭から大きな角を生やしている。この人たちはおかしい。そもそも人かどうかも怪しい。
いや、まてよくあることだ。夏休み明け、イメチェンして学校に来て、「なんか感じ変わったー?」って聞かれるやつだ。2学期デビューってやつだ。いつも通り、いつも通り。
「いや、その
思わず人目もはばからず叫んでしまう。しまった。周りの人がこちらを振り向く。やだね、一人暮らしは。自分にツッコミを入れるようになっちゃうから。
「いや、いつも通りだ。いつも通り」
取り繕うようにつぶやき、学校へ向かう足取りを早める。周りの怪訝そうな視線が突き刺さる。不思議なのはこっちの方だ。
彼らを追い越しながら、学校への道を歩く。他にも学生らしき人々が通学路にいるが、その多くが不思議な姿をしている。猫の耳が生えている人、鎧を着ている人、肌の色が青い人、腕が4本生えている人など。何よりも不思議なのは、その中の誰一人として、それをおかしいと思っていない事だ。いつも通りの日々かのように彼らは過ごしている。一体、何が起きているのか。本当にわからない。もしかして夢なんじゃないか、と頬をつねると鋭い痛みが走った。痛い。
「……仮装パーティーだ」
そう思うことにした。やや、仮装というには苦しい人も見受けられるが、考えないことにする。大丈夫、きっとそういうイベントなだけ。いつも通りさ。
いつも通り、いつも通りと呟きながら歩いていると、いつもの校門が見えてきた。古臭い校門には高校の名前が彫られているのだが、それが見えないほどの人だかりが校門の所に出来ている。その人だかりの注目はどうやら生徒用の玄関に向いているようだ。
「おいおい、マジかよ!」
それを見て、周りの人が嬉々として走り出す。マジかよってなんだよ。僕はむしろ君たちにマジかよと言いたいよ。
周りの人々も加わった人だかりは2倍くらいに膨れ上がり、全く前が見えない。困る。いつも通りに教室に行きたいだけなんだけど。こういうときに小さい体は便利だ。人だかりをすり抜けて前へと急ぐ。人だかりを前に進むにつれて、喧騒が近づいてくる。怒声と歓声。一体何があるんだ? 人だかりの終わりが見え、僕が目の前の空間へ滑り込むと──。
目の前で女の子と侍が戦ってました。
いや本当に。マジかよ、と聞かれたらマジだよ、としか言えない。侍の青年が振るった刀を女の子が手にした大きな鎌で受け止めている。あまりにも非日常的な光景に僕は教室を目指すことも忘れて眺め入っていた。
「今日という今日は許さんぞ、
「ごめんってば、
聞き覚えのある声。さっき、脇を駆け抜けていったのはこの二人だと直感で気付いた。いやしかし、スポーツカーのような速度で走っていたが、車は見当たらない。
「何度、拙者の
「だからごめんって! わざとじゃないの!」
侍の振るう刀を少女は紙一重で避ける。
「っていうか、あんな所で食べてる方が悪くない?」
「あそこが拙者の修行場だ!」
「なんで橋の下で修行してるのよ!」
「雨風が凌げて、川も流れて、食料も獲れる! 修行にうってつけだろう!」
少女もただ攻められるばかりではない。鎌を男めがけて振るう。しかし刀で容易に受けられ、流される。
「あんな所でご飯食べてて、人に邪魔されるのは当然でしょ!」
「限度があるわ! なにゆえ馬で全力疾走しとるんだ貴様は! 朝餉が消し飛んだだろうが!」
少女の振るう鎌と侍の刀が打ち合う。黄色い火花が爆ぜた。
「だからわざとじゃないって! 信じて!」
「そのわざとじゃないことを、貴様は何回同じことを繰り返したかわかっているのか!」
「んーと、……三回くらい?」
「十回だ! 阿呆!」
侍の怒りに任せた一撃が地面へとぶつかる。大地が割れ、土煙が舞い上がる。
「キリがいいじゃん! 十回記念で許してよ!」
「許すわけないだろうが!」
土煙によって姿は見えないが怒声は止まない。金属音は激しさを増している。
「いけ、佐々木! 今日こそやっちまえ!」
「古狩! 落ち着いて刀の軌道を読むんだ! お前ならできる!」
周りの人のボルテージも最高潮だ。ありえない。いつ怪我をしてもおかしくないこの状況を楽しんでいる。
「そんなの当たったら、ホントに死ぬって!」
「案ずるな! 峰打ちだ!」
「フルスイングしたら峰打ちでも死ぬよ!」
彼らがあまりにも早く動くために土煙が晴れる。侍の振るう刀の速度は変わらないが、少女の方は目に見えて疲れが出ている。侍の刀を受け止めるのも精一杯のようだ。
そ の時少女が一瞬、侍の背後へと視線を向けた。そのせいで足元の石につまづき、姿勢が崩れる。当然、侍はその隙を見逃さない。
「もらった!」
「今よ! コシー!」
侍の刀が振り下ろされる直前、少女が叫ぶ。それに合わせて、侍の影から黒い馬が飛び出し、その体を突き飛ばす。背後から突き飛ばされた侍ははるか後方へ、きりもみながらグラウンドへと着地する。
「ごめんね、佐々木くん! あとよろしく!」
少女は胸の前で小さく手を合わせると、そのまま昇降口へと駆けて行った。黒い馬は彼女の影へと吸い込まれる。
「ま、待たんかっ! こが──るッ!」
起き上がり追いかけようとした侍の頭を後ろから何かが掴む。それは石で出来ているが、よく見れば人の掌のようだった。掌から伸びた腕の先。巨大な石像が立っていた。石像の口がわずかに開き地の底から響くような声が出ている。
「佐々木。これはどういうことだ」
これ、というのは彼らの争いの跡のことだろう。青年の刀と少女の鎌が抉りあった地面は穴だらけ。吹き飛んだ砂や石は昇降口の中まで飛び散っている。ここは小さな隕石が落ちた現場です、と言われればそのまま信じてしまいそうだ。
「
「言い訳なら職員室で聞く」
そう言って石像は、頭を掴まれたまま精一杯叫ぶ侍を片手で持ち上げ、昇降口へと消えた。その後ろ姿が校舎の中へと消えたのを境に周囲がざわめき出す。
「あーあ、これで古狩の十連勝か」
「佐々木も学習しねぇからなー」
「からめ手に弱いんだよな。バカだから真っ向勝負ばっかりで」
「いやー、新学期からいいもの見たわ」
観衆たちは口々に束の間の大惨事をまるで日常のちょっとした出来事のように片付ける。いいのか? みんな笑ってるけど、アレってケンカだよね? 一歩間違えれば死人が出るよね? 何かのアトラクションかな? 演劇部とかの。いや、おかしいだろ。学生のクオリティとは思えない。いや、人間のクオリティとは思えない。
色々と想像を巡らせてしまうが、とりあえずは教室を目指す。面倒な事は考えない。きっとクラスのみんななら詳しく知ってる、そうに違いない。
1年3組。そう書かれたプレートの元へたどり着く。夏休み前と何も変わらない扉。
もしかして、クラスメイトは今まで通りなのではないか。むしろ今まで見てきた彼らが異常なだけではないか。きっとこの扉の向こうはいつも通り。すでに聞きなれた友の笑い声もする。彼らに会うために、僕は扉を開ける。
「おはっ……!」
挨拶は出来なかった。目の前の光景に言葉が止まった。そこにいるのは見慣れた友。しかし、何かが変だ。制服ではない服を纏ったり、よくわからないものを持っていたり。
「おっ。コガラ!」
彼らのことをどうにか納得しようと頭を回転させているうちに、その中の一人がこちらに気付き、僕の名前を呼びながら駆け寄ってくる。その声に周りのクラスメイトもこちらを向く。僕の側までやってきた、やけに青白い顔をした彼は嬉々として尋ねる。
「お前は夏休みに何があったんだ!?」
「……は?」
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