3.悪魔が天使を飼育する。天使が悪魔を観察する。

「……私は、叡智の天使よ」


 一方のラジエルは、険しい顔でこめかみを押さえた。


「遍く全てを理解し、記すことが私の使命。わからないことが許せない。理解できないものは、理解したい。……貴女の行動は、記録にある今までの貴女の行動とは乖離しすぎてる」

「どうでもいいじゃん。虚無を理解しようとするだけ無駄」

「いいえ、駄目よ。納得いかない。ともかく貴女は――クッ……!」


 突如ラジエルが呻き、体を強張らせた。

 その手がきつくシーツを握りしめるのを見て、ベリアルは「ああ」と声を上げる。


幻翼痛げんよくつうだろ。翼を失い、それでも生還した天使に襲ってくる激痛。……どうだい、翼をもぎ取られた瞬間が蘇ってくるようだろう?」

「あっ、ぐ、ッ、うう……!」

「位が高ければ高いだけ――翼の数が多ければ多いだけ、痛みは増す」


 ベリアルは優雅にハンカチで口元と指とを拭うと、キャンディの丸い缶を取り出した。

 そこから青いキャンディを一粒摘まんだ。


「余計な事を考えて、神経を使うからそうなるんだよ。――ほら、口に含んで」

「う、く、うぅ、ぐうっ……!」

「安心しなよ。毒じゃない」


 ラジエルの頭を押さえ、ベリアルはその唇に無理やり青いキャンディをねじ込む。

 痛みに苦しむラジエルは、えづきそうになりながらキャンディを舐めた。


「ちょっとした麻酔だ。霊的細胞に干渉して痛みを和らげる」


 ラジエルの口内にキャンディが収まったところで、ベリアルは手を引いた。

 唾液に光る指先をハンカチで拭い、ラジエルを見下ろす。


「どう? そろそろ効いてきたんじゃない?」

「……ええ、少し」

「だろう? とっておきなんだ、これ。邪視の天使サリエルの特別製」


 ベリアルは薄い笑みを唇に浮かべ、荒く上下するラジエルの肩にそっと指先を滑らせた。


「依存性もないから安心しなよ」

「……いつも、こんなものを持ち歩いてるの?」

「まぁね。私も色々、難儀な体質なもので」


 缶からいつもの赤いキャンディを一粒取りだしながら、ベリアルは肩をすくめる。

 ラジエルは何度か呼吸を整えると、ゆっくりと体を起こした。


「……やっぱり、理解できないわ」

「麻酔をくれてやったことがそんなに理解できない?」

「全てよ。貴女の全てが私にとっては意味不明だわ」


 青ざめた顔で――それでもしっかりとしたまなざしで、ラジエルはベリアルを見る。


「貴女は一体、何者なの?」

「だからさ、私の事なんて理解しようとするだけ無駄だって。無駄に無意味なことを考え続けてたら、失くした翼がまた痛くなるかもよ?」


 赤いキャンディを口内で転がしながら、ベリアルはわざとらしく両掌を上に向ける。

 ラジエルはそれでも表情を変えない。


「……体の痛みは、どうということはないわ」


 ベリアルをまっすぐに見つめたまま、ラジエルは語る。

 その青い瞳が真昼の光に煌めくさまは、澄み切った水面のようで。


「無知こそが、このラジエルにとって最大の苦痛……知らないことが耐えられないの」

「……知らない方がいいことだってこの世にはある」


 ラジエルの真摯なまなざしから、ベリアルは逃げるように視線を逸らした。

 そうして、渋い表情で小型端末の画面を確認した。


「……それにさ、私はこれから出かけるんだ。私がいない時に幻翼痛が再発して、霊素核が壊れちゃったらどうするわけ? だから、無駄なこと考えるのやめなよ」

「出かける……? 一体どこに行くつもりなの」

「ベルゼブルに会いに行くんだ」


 小型端末を適当にいじりながら、ベリアルは答える。

 ベルゼブル――あまりにも有名な悪魔の名前に、ラジエルの表情が一瞬強張った。


「……魔王補佐ね」

「その通り。暴食の欠陥によって堕天した元熾天使だ。人間にもよく知られているね」

「偽神、蠅の王、高き館の主……」


 ラジエルはこめかみを押さえ、ベルゼブルの異名を呟く。

 恐らく過去の記録の一つ一つを思いだし、分析しているのだろう。これからベリアルが会いに行こうとしている悪魔は、それほど天界にとって恐れられた存在だった。


「地獄においてはルシファーに次ぐ権力を持つ――紛れもない魔王の右腕。強力な軍団と名高い蠅騎士団ゼブルズ・オーダーを率い、幾度となく地上に災禍をもたらした恐ろしき悪魔……」

「そして地獄屈指の癒やし系だ」

「なんですって?」

「さて、私は出かけるよ」


 すっとんきょうな声とともに顔を上げるラジエルをよそに、ベリアルは立ち上がる。


「あの食いしんぼちゃんは、私より先にこの街に来た。多分マステマの動向や、霊魂の流出についてある程度調べをつけているはず……情報共有をしないとね」

「待ちなさい」


 ベッドの軋む音に、ドアを開きかけていたベリアルは振り返る。

 ラジエルが、ふらつきながら立っていた。


「……何?」

「私も、行くわ」

「おいおい、冗談だろう?」


 ベリアルはいつものアルカイックスマイルを浮かべ、軽く肩をすくめてみせた。


「そんな体で? 翼を失ったってこと、忘れてない?」

「この程度、どうということはないわ。私の体は私が一番よく知ってる」

莫迦ばかを言うなよ、羽根無しちゃん。大人しくここで――」

「貴女ほど危険な悪魔を、地上で野放しにするわけにはいかないわ」


 ラジエルは言い切ると、サイドテーブルに置いたペットボトルに手を伸ばした。

 キャップを開け、いくらか残っていたアイスティーを一気に飲み干す。


「問題ないでしょう? 貴女は、私に勝手に死なれたら困る。私は、貴女を監視したい」


 ほうと一息吐くと、ラジエルはベリアルに鋭い視線を向けた。


「双方にとって悪くない話のはずよ」

「……監視、監視ねぇ。そんな体でも職務に忠実ってわけだ。いっそ哀れだね」


 髪の青い部分をいじりながら、ベリアルはシニカルな笑みをますます深める。

 そこから、さらなる嘲りの言葉を吐き出そうとした時だった。


「……正しくは、観察ね」


 ベリアルは、動きを止めた。

 緑の瞳をわずかに見開く彼女に、ラジエルはゆっくりと近づいてきた。


「言ったでしょう。私は、叡智の天使――知らないことが許せない。わからないことが耐えられない。悪魔というものの生態に……特に、貴女という存在に興味がある」


 ラジエルは、ベリアルの前に立つ。

 そして悪魔の胸元に、天使はその白く細い指先を突きつけた。


「答えが出るまでいつまでも調べ、探り、尋ね、突き詰める……私にとって、貴女は未知の存在よ。まったく理解ができない」


 青い瞳は射貫くように鋭く――そして一切を見逃すまいとして、ベリアルを映していた。


「だから貴女を理解できるまで、私は貴女を解放するつもりはない」


 ベリアルは、思わず口元を覆った。

 胸の奥底で虚無がざわめく。喉の奥から、ひとりでに笑いが零れてくる。


「……熱烈だね。ちょっと照れるぜ」


 ベリアルはくつくつと笑いながら、ラジエルを見下ろした。


「翼を奪われて、なんで狂わなかったのかと不思議に思ってたけど……そういうことか。君は相当、我の強いタイプだ。確固たる自我を持っている。そして恐らく――」

「昔から興味があったの、翼を失うということ」


 表情も変えずにラジエルは言った。そしてわずかに、視線を床に向ける。


「おかげで叡智の天使としては、貴重な知見を得ることができたわ。……でも、二度と体験したくはないわね。あの痛みも、喪失感も」

「好奇心というのも突き詰めると狂気の域に入ってくるな。――ま、いいよ」


 ベリアルはなおも笑いながら、ラジエルの肩を軽く叩いた。


「連れていってあげるよ、かわいこちゃん」

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