2.パラダイス・ロスト

 衣食住の欠乏は精神に重大な影響を与える――。


 それは人間だけでなく、天使や悪魔といった高等霊的生命体も同様だ。

 そのため、地獄では地上に滞在する悪魔に向けた施設を整えている。ベリアルが今滞在しているアパートメント『パラダイス・ロスト』も、そんな施設の一つだった。

 エレベーターの中でベリアルは紙袋を持ち直し、小さく笑う。


「……さて。あいつ、どんな顔するかな」


 十三階――最上階であるこの階には、ベリアルの住む部屋のほかに住戸はない。

 帰宅してすぐに、ベリアルはある部屋に大股で向かった。

 白い壁が清潔な印象のその部屋は、この家で一番日差しの入る場所だ。悪魔にとってはあまり居心地が良くないその場所は、新しいペットに暮れてやることにした。


「おはよう、羽根無しちゃん。ご機嫌いかが?」

「……出てって」


 最低な挨拶に、冷やかな声が答えた。

 水色のカーテン越しに陽光が差し込み、真新しい家具を照らしている。

 がらんとした部屋の奥にはベッドがあった。

 ラジエルは、そこにいた。白い寝巻に包んだ体を起こし、じっと目を閉じている。


「ひどいこと言うね。せっかく餌を用意したのに」

「食事と言いなさい」


 ラジエルは目を開け、ベリアルを睨んだ。相変わらずその顔は青ざめてはいるものの、初めて会った夜に比べればいくらかマシになっている。

 ベリアルは構わずサイドテーブルに大量の紙袋を置くと、椅子を引き寄せて座った。


「で、気分はどうなの?」

「……良くは、ないわね。体を起こせるようにはなったけど」


 ラジエルの視線が、一瞬だけ背後に向かう。

 恐らく、失った翼を思っているのだろう。

 ベリアルがラジエルを拾ったのは、三日前のことだ。

 パラダイス・ロストに来てすぐに、ベリアルはラジエルの治療に奔走した。

 医療に心得のある悪魔達に連絡を取ろうとしたが、ほぼ全員から着信拒否されていた。

 各種SNSは、サブのアカウントに至るまでブロックされていた。

 かろうじて連絡の取れた悪魔は、天界にいた頃から繋がりのある数少ない友人だった。

 しかし、こちらの悪魔は終末医療が専門だった。

 結果、ベリアルは自分の力でラジエルを癒やすことになった。

 数十世紀ぶり――あるいは、悪魔になって初めてかもしれない。

 友人にアドバイスをもらいつつ、ベリアルは四苦八苦しながらラジエルの治療を行った。

 そうして――現在がある。


「あいにく治療なんて専門外でね。壊すとか痛めつけるほうが好き。――そんなことよりさ」


 ベリアルは袋を開け、サイドテーブルにずらずらと並べていった。

 ピザ、チキンブリトー、ホットドッグ、フライドポテト――大半がジャンクフードだ。


「なにか食べなよ。地上じゃやりづらいのは天使も悪魔も一緒だろう?」


 地上では、ほとんどの霊的生命体がその能力に枷を掛けられている。

 回復は鈍く、消耗しやすい。そのため、天使も悪魔も小まめに休息を取る必要があった。


「天使も、食事から霊気を回復できるだろう?」


 ラジエルは黙って、自分の手をじっと見つめている。


「……悪魔の手が触れたものは食べられないとか抜かしても無駄だよ」


 焦れたベリアルはラジエルの顎を掴むと、強引にその顔を上向かせた。

 ラジエルは小さく呻き、眉を寄せてベリアルを見上げる。

 青く美しい瞳に苦痛と嫌悪の色が差すのを見た途端、背筋に震えが走るのを感じた。

 模造の心臓の拍動が早まる。虚ろな心を愉悦が満たす。


「……すぐに死なれちゃつまんないよ」


 自然と吊り上がっていく赤い唇を舐め、悪魔は天使の耳元を囁いた。

 そうしてその顔を離すと、サイドテーブルからポテトチップスの入った筒を取った。


「せっかく拾ったんだ。嫌だというのなら、無理やりにでも食わせ――」


「……解せないわね」


 吐息混じりの言葉に、ベリアルは手を止める。

 ラジエルは襟元を整えながら、険しい顔でベリアルを見つめていた。


「解せない? なにが?」

「顔こそ見たことがなかったけど、私は貴方の事はよく知ってる」


 ラジエルはサイドテーブルへと手を伸ばすと、そこからアイスティーのボトルを取った。

 キャップを開けながら、ラジエルは口を開く。


「ベリアル……ソロモン王に仕えた悪魔達の一柱。ソドムとゴモラを堕落させ、滅亡に追いやった。天界が地獄の権利を侵犯しているとして、救世主を訴えたこともある」

「……へぇ」


 流れるような口調で語られる自身の情報に、ベリアルは薄く笑う。


「天使時代の経歴は不明。本来、『ベリアル』という名はかつてはなんらかの欠陥や悪性を持つ天使の総称だったけど……貴女の出現によってその意味は変わった」


『ベリアル』は、個体の名前となった。

 二色の髪を持ち、虚ろな笑みとともに堕落を呼ぶ――そんな女悪魔を示す名前に。


「さすがは物知りちゃんだ。そんなに私に興味があったわけ? なんだか照れるね」

「……天廷てんてい図書館の仕事と合わせて、悪魔の行動分析をしていたの」


 アイスティーで喉を潤した後、ラジエルはベリアルを見上げた。

 澄んだ瞳が、悪魔のいびつな笑みを真っ向から捉える。


「貴女に怒りを感じる。人の命を塵のように扱う所業は許せない」

「へぇ、そうなんだ」

「だから、わからない。どうして貴女が私を保護したのか。――ずっと考えたの」


 ラジエルは眉をひそめ、ベリアルの顔を見た。


「……私の持つ天界の情報が狙いとも思った。でも、その理由はしっくりこない」

「ま、それもあるね。なんせ君達、一九九九年の狂気のせいでずーっと内戦状態でしょう?」


「困ってるんだよねぇ」と、ベリアルは足を揺らした。


 一九九九年――その年に世界が滅ぶのだと、かつての人類は恐れた。

 しかし表向きは何事も起こらず、一九九九年は幕を下ろした。


「一九九九年は、天使の理性が保つ最後の年」


 ポケットから銀色の缶を取りだし、ベリアルはそこから一粒のキャンディを摘まんだ。


「遠い昔――天界と地獄との戦いが終わった後に、神は天界から去った」


 神はかつて、今よりももう少し地上に近い場所にいた。

 けれどもやがて、選ばれた者しか入ることの許されない至高天に身を隠してしまった。

 ――天使達に、使命だけを残して。


「天使は本来は神が生み出した奉仕種族だ。神の意志を遂行するための道具――」

「私達は道具ではない。自由意思を持つことを許されている」


 冷え切ったラジエルの声に、ベリアルが一瞬目を見開く。

 しかしすぐにわざとらしい笑みをその唇に貼り付け、悪魔は軽く肩をすくめた。


「おっと、これは失礼。――ま、でも基本的にさ。どんなものでも、長期間メンテナンスもなしにフル稼働させ続けたらおかしくなるよね。いつしかどこかが狂いだし、最後は……」


 ガリッ。ベリアルは、大きな音を立ててキャンディを噛み砕く。


 一九九九年――主たる神の不在の末に、大多数の天使達が発狂した。

 彼らは地上への攻撃を画策し、かろうじて理性を保った同胞達と熾烈な戦いを繰り広げた。

 こうして魂の楽園であったはずの天界は、戦火に塗り潰された。

 このとき、天使達を襲った狂気を『一九九九年の狂気』という。


「確かに、天界の新しい情報が手に入るなら欲しいよ。――でも、私には君を手元に置いておきたい理由が別にある。こっちの理由の方が、もっと大きい」

「それは、何?」


 ラジエルの問いにベリアルは小さく笑い、ポテトチップスの筒を開けた。


「そりゃ決まってる。誰だって珍しくて綺麗なものが落ちてたら拾うだろう? 君は珍しくて綺麗な生き物だ。私のものにしてやりたいと思った」


 チリコンカン味のポテトチップスを、ベリアルは一枚囓る。

 そうして緑の瞳を細めると、スパイスにまみれた指先をラジエルに向けた。


「だからさ、私が飽きるまでは生きててもらわないと困るんだよ」

「……それが理由だとしたら、余計にわからないわ」

「わからないって言われても、本当にこれだけが理由だからねぇ」


 ポテトチップスをさくさくと次々に食しながら、ベリアルは軽く肩をすくめる。

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