第12話 (やっぱり、最高だよ)

 倒れたままの姿勢で意識を取り戻したアカリは、そこが道路ではないことに気づいた。

 やや薄暗い。

 床は……灰色。石かコンクリートだ。

 硬く、冷たかった。


 自分の右手に視線を移すと、魔本を握ったままだった。彼が最期に渡してくれたものだ。

 見た瞬間、目が熱くなり、鼻の奥がぐっと痛んだ。

 なのに、なぜか涙が一滴もこぼれてくることはなかった。

 ただただ、熱と痛みだけが、目鼻の奥で行き場なく暴れていた。


 ゆっくりと、起き上がった。


 ごつごつした質感の壁は、やはり灰色。天井は高い。

 どこかのビルの中のようにも感じたが、それにしては飾り気がなく、無造作な印象を受けた。


 通路の前方は、すぐに突き当りになっていた。

 そこには縦長の窓……というよりは、人がそのまま通れそうな、出入り口のような穴が開いていた。ガラスはおそらく張られていない。そこから外は、やや薄明るい灰色の夜空のみが見えていた。


 そして、反対を向くと……。



 変な生物がいた。



 アカリの一・五倍くらいありそうな背丈で、手足のない黒い影のような体。

 頭部にあたりそうなところは、巨大な口だけの構成になっており、だらしなく開いている。やはり黒い色をした口内には、無数の鋭い歯が覗いていた。


 足らしいものはない。

 なのにその生物は、ゆっくりとスライドするように、こちらに向かってくる。


 目の前で止まると、その生物は、首らしき部分を音もなく伸ばしてきた。


 ――自分を食おうとしているのだろう。


 アカリはなんとなく、そう思った。

 あんなにいい人を消滅させてしまって、きっと自分は罰を受けるのだろう。

 そうに違いないと思った。


 もしそうであれば、自分にはお似合いの最期だと思った。

 できる限り苦しむように殺してほしいと思った。


 アカリの予想どおり、その不思議な生き物は、口を大きく開けた。

 もともと巨大だった口がさらに開き、考えられないほどの大きさになった。

 そのまま助走をつけるように頭部を後ろに引くと、一気に――。


「……?」


 だがそこで、黒い影の動きが止まった。

 そして下のほうから、薄く広がりながら床に吸収されるように、体が崩れていく。

 ものの数秒で、完全に消滅した。


 何もなくなった目の前。

 その先には、シンプルな黒い槍を突き出している男性がいた。


「声ぐらい出しなさい。今そのまま食われていたら、君の魂はこの世界から消滅していたぞ? 守られた命、そう簡単に手放すべきではない」


 その男性は槍先を下ろすとそう言い、少し笑った。

 髪は黒いが、目元の笑いジワからは、それなりに歳を取っているように見える。黒色のベストを着ており、白のシャツ以外はすべて黒で統一されていた。


「君が、アカリくんだね」


 固まっていたアカリに対し、名前を呼んできた。

 驚くアカリ。その壮年男性に、見覚えなどなかった。


「そうですけど。どうして、私の名前を?」

「聞いていたからな」


 先が天井を向くように槍を握り直しながらそう言うと、彼は続けた。


「私は本魔の代表者だ。ようこそ、我々の塔へ」




 * * *




 話しやすい部屋に案内しようと言われ、アカリは壮年男性――本魔の代表者についていった。

 さっき出現した幽霊モンスターのような生物は、魔本になり損ねた人間の魂の一部であり、駆除対象。本魔の代表者は、歩きながらそう説明した。


「では、ここでいいかな。私が道楽でやっている店だ」


 重そうな厚い灰色の扉を、彼が開ける。

 そこは、それまでの無機質な景色とは違う、ダークブラウンのお洒落な空間だった。


 L字カウンターや数個置かれた小さなテーブルは、高級感の漂うアンティーク風。ゆらめくキャンドルの照明は、落ち着いた木の内装を穏やかに照らしていた。

 アカリはこれまで一度も行ったことはないが、おそらくこの店はバーなのだろうという推測はすることができた。


「今は誰もいないし、今日はおそらくもう誰も来ないだろう。安心してくれていい」


 彼はアカリに対し、カウンター席に座るよう言った。

 アカリはなんとなく、入り口に近いほうの席に座った。膝の上にミナトの魔本を置く。


 淡いブルーのカクテルが目の前に置かれ、それをすすめられた。

 だが、アカリはそれを味わおうという気にはならず、そのままうつむいていた。


「今お嬢さんが座っている席。息子はよくそこに座って、一人で本を読んでいた」


 息子。

 その言葉で、ビクンと体が反応した。顔をあげて彼を見た。


「まさか……」

「そうだ。私はミナトの父親でもある」


 柔和な光だが、同時に威厳も感じる細い目。

 ミナトとだいぶ違う。肌の色も白い。


 もっとよく観察すれば、似ている部分は見つかるのかもしれない。

 だが『息子』『父親』。その言葉は、今のアカリにはあまりにも鋭く胸に突き刺さりすぎた。彼の顔をじっと観察することなど、とてもできなかった。


「ミナトは、消えてしまいました……」


 中途半端なところで視線をさまよわせ、そう言うのがやっとだった。


「全部わかっているから大丈夫だよ。息子の説明不足のせいで、悲しい思いをさせてしまって悪かったね」


 彼――本魔の代表者でありミナトの父親は、穏やかに言った。

 そして戸惑うアカリに対し、「どこから話すべきかな」と一度ぼやくようにつぶやいてから、話し始めた。


「この塔と我々は、人間が本を発明したことによって生まれた」


 またも顔をあげてしまうアカリを前に、彼は続けた。


「物事には、光と闇がある……。人間が生み出したものに、光と闇の両面がバランスよく存在するのであれば、魔など発生しえない。だが本はどうだ? 人間に圧倒的な光をもたらすが、闇などほとんどないだろう。利しかないというのは、大変に歪みのある発明だ。そのようなものを創り出してしまった以上、本来あるべき闇が魔となって、人間社会以外のどこかで生み出されることは避けられない。それがこの塔と我々だ」


 内容だけで言うなら、にわかに信じがたいものかもしれない。

 だが、アカリは思った。この人物、ミナトの父親は、嘘はついていない、と。

 そしておそらく、この先に話されることもすべて事実なのだろう、とも。


「我々本魔は一定の年齢になると、定期的に人間と契約する必要がある。そして願いを叶え、その対価として魂を抜かなければ、消えてなくなってしまう生き物だ」

「――?」


 どういうことだろうか?

 ミナトは契約の対価に、魂を求めてこなかった。それどころか、「魂を差し出してもいい」という投げやりなこちらの言葉を咎めてきたくらいだった。

 混乱するアカリだったが、説明は続く。


「人間の魂を抜いて魔本を生成する行為は、その人間から生命力を吸い取る行為でもあるのだ。本魔はそれ以外に生命力を供給するすべを持たない。一度も供給がない場合、十八歳の誕生日を迎えると同時に消滅する」

「……」

「だから、本魔は全員がこの塔の中にある学校に通い、人間との契約の仕方や、願いを叶えるための魔術を学んでいる。そして人間と最初の契約をし、その魂を魔本とすることで卒業、成人となる。それ以降は定期的に人間と契約し、魂を奪い続けなければならない。怠れば死ぬ」


「え、でも……ミナトは私に、対価として『本をたくさん読んでほしい』って」


 アカリがそう言うと、彼は穏やかに微笑んだ。


「それは対価とはならない。我々がおこなう契約での対価は、契約する人間の魂以外にはありえない。それ以外はすべて契約違反となり、やはり消滅することになる」


 アカリは驚いた。

 人間が魔本になるのは、普通に死亡したときと、契約で強制的に魂を抜かれたときの二パターン。それはミナトから聞いていたが、実は後者が「本魔が生きるため」であることは知らされていなかった。

 彼は続けた。


「対価として魂を抜く。それを疑問に思う者など、今までいなかったと思う。誰もが当然のように人間と契約し、願いを叶え、対価として人間の魂を抜き続けた。人間が食事をすることと同じで、その行為が正当なものかどうかなど、考えもしないことだった。ところが、息子だけはなぜか、自分が生きるために人間を殺すことを良しとしなかった。そんなことをするくらいなら自分は消滅したほうがいいと考えたのだ。だから十八歳になる直前に、人間と最初で最後の契約をして願いを叶え、対価を取らずそのまま消滅することを決意した。それは父親である私も了承済みだ」


「そんな……」


 あまりにも衝撃的だった。

 契約を交わしたときには、予想だにしなかったことだ。

 だが――。


「息子は小さいころに、こう言っていたよ。『願いを叶えるって、いいことだよな? いいことをすると俺は嬉しくて楽しいのに、どうしてその対価を取らないといけないんだろ?』とね。息子と同じ時を過ごした今の君なら、なんとなくわかるかい?」


 今なら――。


「……わかります」


 ミナトの父親は、細い目をさらに細くした。


「ありがとう。最期を君に見られてしまったのは予定外だったが、息子は本懐を遂げた。これでよいのだ」


 アカリは、手元の魔本を見た。

 その焦げ茶色の表紙に、彼の爽やかで人懐っこい笑顔が浮かぶ。

 ふたたび目が熱くなり、鼻の奥が痛む。

 だがやはり、涙が出ることはなかった。


「君は意識を失い、今は病院で寝ている。ここにいる君は魂だけの状態。涙は流せぬはずだ。自分の体をよく見てごらん」


 心を読んだかのように、説明をしてくれた。

 アカリは言われたとおり、自身の体を見た。

 橙の照明でわかりづらかったが、露出している手の質感が、いつもと違う気がした。


 手のひらを、キャンドルの照明に向けた。

 キャンドルの光が、透けて見えた。

 今までまったく気づいていなかった。生身の体ではなかったのだ。


「このあと、君の意識は地上に戻ることになるが……」


 彼は、もともとよい姿勢を、さらに正した。


「これは父親としてのお願いだ。地上に戻ってからも、悲しんでくださるな。泣いてくださるな。息子を思ってくださるのであれば、息子のように、楽しんで生きていただきたい」


 気づいたら、アカリは魔本をギュッと抱きしめていた。


「その魔本、少しだけ見せてもらってもいいかな」


 その声に、アカリは一つうなずいた。


「これは、お返しします」


 そう言って、カウンターの上に魔本を差し出した。

 これは形見の品になる。自分が持っているべきではない。ずっと父親である彼が持っているべきだと思った。


 しかしミナトの父親はそれには答えず、微笑を浮かべるだけだった。

 そして置かれた魔本を手に取り、パラパラとめくった。


「これからの君には、そうだな……『生きていれば、きっとそのうちよいことはある』『どうせやるなら楽しまなければ損』――このあたりがぴったりかな。まあ、人間であれば真理だろう。頑張りたまえ」


 ――!


「その魔本、まさか……。誰の魂から作られたものか、教えてもらうことはできますか」

「ほう、気づいたようだな。そのとおりだ。この魔本のもとになった魂の持ち主は、西海枝京介。君のおじいさんだ」


 ……。


 旅行中に聞いていた魔本読み上げの言葉。あれらはすべて、祖父の言葉だったのだ。

 ミナトに対し、どこか懐かしさを感じ続けていた理由がわかった。

 でも、なんで……。


「人名からこの塔の蔵書を探すのは少し大変でね。息子は必死に探していたようだよ」


 あ――。

 彼にぶつけて却下された、願い。


『私のおじいちゃんを、生き返らせてよ』


 ……。

 どうしてだろう。

 どうして――。


「どうして、そんなに優しいの……」


 そのつぶやきで、また彼が穏やかに笑った。


「そういう子だ、ということもあるが……。きっと、契約者が君だったから、ということもあるのかもしれないね」

「ミナトは、何か言ってたんですか?」


「何かどころか、ここ最近は、いつもここで君の話をしていたよ。契約した女の子は、引っ叩いてくれて、怒鳴ってくれて、からかってくれて、嫌な顔をしてくれて、足を拭いてくれて、面白い本を貸してくれて――と、ずいぶん感謝していたね」

「……」

「なのに、その子には友達がいないみたいなんだ、とも言っていた。息子もあんな性格なので、この塔では異端扱いされていた。塔の仕事は一生懸命にやる子だったから、追い出そうという声はなかったが……。周りからは完全に浮いていて、親しい友人もおらず、空いている時間はいつもここで本を読んでいたよ。だから君の中に同じ部分を見つけて、親近感を持ったのかもしれないね」


 いや、それは同じ部分ではない。

 口には出さなかったが、アカリはそう思った。


 ミナトが実は孤独だった――それは本魔として生まれたからだ。

 彼は優しくて、明るくて、前向きで、一生懸命で、いつも楽しそうで、こちらが求めていないことまでやってくれて。完璧だった。自分にないものを全部持っていると思うくらいだった。


 彼は生まれたところが不運だっただけだ。

 人間に生まれてきさえすれば、きっと誰からも愛されるような存在になっていたはずだ。

 生まれたところが不運だったばっかりに。

 人間として生まれてこなかったばっかりに――。


 だが自分は違う。生まれたところは不運ではない。

 だから、彼と同じではない。

 彼の父親が同じと言ってくれるのはよくても、自分がそう考えてしまうのは、あまりにも彼に申し訳ないと思った。


「さて。ではもういいかな。君を地上に転送しよう」


 本魔の代表者は、L字カウンターから出てきた。

 アカリも席から立ち上がり、彼と向き合う。


「私……彼に出会えてよかったです。短い間でしたけど、彼のことは一生忘れません」


 それを聞くと、本魔の代表者はまた笑った。

 やはりミナトにはあまり似ていない気がしたが、優しい笑顔だった。


「ありがとう。息子が君に求めた対価については、読書量と死後に魔本になる確率は正の相関があるから、実行してもらえるに越したことはないが……。まあ、私からは無理しなくてもよいと言っておこう。君が死後に魔本になるかどうかは、この塔の運営上は誤差の範囲内でしかない」


 答えは一つだった。


「いえ、それでも読みます。彼との約束を守りたいです」


 約束は破らないと言ったときの、ミナトの嬉しそうな顔。それははっきりと覚えていた。


「それに彼は、魔本でなくても、『本には書いた人の人生が詰まっている』って言ってました。だから読めって」

「ほう、なるほど。それは事実だ。きっとあの子のことだ。君のことを本気で思って言ったことなのだろう」


 息子の遺志を尊重してくれること、感謝する――

 彼はそう言って、アカリの顔に手のひらを向けた。


 次の瞬間、アカリの体が光に包まれた。

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