陰陽の追憶

@Tsurugi_kn

自分の命が狙われている。


それを察しながらも、王座に座る若い男の口は楽しそうに歪んでいる。砂漠の国にも関わらず、その王の肌は病的な程白い。また、床に辿り着くほど伸びた長い髪は、この国で嫌われる紅の色をしていた。瞳の色もまた、紅。彼の瞳は、自分に向けられる白い刃を映していた。



「そこを退け」



凛とした少年の声が、王間に響く。

少年の右手には剣。その切っ先は王座に向けられている。


「そこは我の席ぞ」


少年はそう言葉を続けた。

少年の緑瞳は王座に座る男を睨んでいる。


その瞳の中で、若き王は笑みを浮かべた。切っ先を向けられ、刃の煌きを両の眼に映しているにも関わらず、恐れている様子はない。寧ろ楽しんでいる様子だった。


「名も名乗らず王の座を譲れとは……無礼にも程がありますね」


そして静かに、しかし良く通る声で言い放つ。まるで子供の粗相に苦笑するかのように。


「何が無礼か!!」


刃を更に近付け、少年は怒りに任せて声を荒げる。


「我が父を卑怯な手で殺し、そこにのうのうと座る貴様こそが無礼であろう!!」


幾ら叫んでも、やはり男は楽しそうに微笑むだけだった。尚も少年は吠えるように叫び続ける。


「我こそが前王・オシリスの正式な継承者――ホルスだ!そこを退け、仇敵・セトよ!!」


「ふふ……」


王座に座る男――セトは、パチパチと両手を叩き拍手を贈った。


実に愉快だと言うように。


「漸く自己紹介が出来たな、我が甥、ホルスよ。……良い演説だった」


「……っ」


己の叔父に刃を向け続けながら、少年は歯の奥を軋ませた。


彼の名はホルス。先代の王、オシリスの息子である。そして現在王座に座る男こそ、ホルスの倒すべき仇敵である。


セトはオシリスの実の弟。しかし、セトは自らの手で兄を殺し、ホルスから父を奪った。更にはホルスの母を王家から追放し、王座を自分の物とした。それ故、幼いホルスは王族でありながら、みずぼらしい生活を余儀なくされた。ここまでされて、憎まない理由などないだろう。だからこそ、成長した今、父の仇討ちとしてホルスは剣を手に取ったのである。


だが、どれだけ己が怒りをぶちまけても、目の前の仇敵は――きらびやかな金の装飾品を纏い、全てを見下したような瞳で見、軽い言葉で己の言葉をかわす。それが、余計に腹立たしかった。


「全く……兄上の子とは思えんな」


セトは呆れたように言いながらも微笑みを絶やさぬまま、ゆっくりと立ち上がりホルスへと歩み寄った。ホルスはセトにぴったりと刃を向けたまま、セトを睨み付ける。


「姉上に調教されたか…? 私を憎むようにと」


卑しい笑みを浮かべ、目を細めながらセトは言う。ホルスはそれに激しい嫌悪を感じながらも、口を開いた。


「調教など……っ」


言葉の途中でホルスの目が見開く。


剣の刃をセトに握られたからだ。


咄嗟に引こうとしても、動かない。物凄い力で押さえ付けられていた。セトの手が紅に染まっていく。


「このくらいで動揺してはいけませんよ」


セトは優しげな口調でホルスを宥めるように囁くと、刃を顔の横に退け、更にホルスに顔を近付けた。


「――ッ」


思わずホルスは息を呑む。

セトの手からは相変わらずポタポタと血が滴り刃を紅に濡らしているのに、セトは平気な顔をして微笑んでいた。


――神とて痛覚はある筈だ。


基本は人と同じなのだ。例え体をバラバラにされても復活は可能ではあるが、神とて首を跳ねられたら死ぬ。 だが、目の前のセトはどうだろう。痛覚などないような顔をしているではないか。


「ホルス……貴方は貴方の父に思い出などない筈だ。貴方が産まれた時には既に死んでいたのですからね。そんな相手の為に……私を憎みますか?」


セトはそう言うと、刃を握り締めていた手をパッと開いた。くっきりと刃の跡が残った掌からは、血が溢れ出ている。


「……僕、は…」


「おや」


急に弱々しい声色になったホルスを見て、セトは軽く目を見開く。 今までの演説じみたホルスの口調は、やはり教育されたものだったと気付いたからだ。


「やはりお前はまだ未熟なようですね……ホルス」


相手にならない、とでも言いたげに、セトは自らの掌の血を舌で掬う。 ホルスは一瞬俯いたが直ぐに顔を上げ、鋭い目つきでセトを見つめ返した。


「ええ、認めます……僕はまだ未熟であると。王としては、経験も力量もある貴方の方が相応しいでしょう……セト」


「ならば、早急に立ち去る事ですね」


「いいえ」


先程のように演技じみた力強い口調ではなくなったものの、ホルスの声は若々しく凛としている。セトの言葉をはっきりと否定し、背の高い相手を見返す眼差しも未だ厳しいままだ。


「ですから、証明します。僕が王に相応しい器であると……父の跡を継ぐのは僕だと」


「成程……ならば争おうか、我が甥よ」


そのセトの言葉に、緊張が走る。


今この場で、決着をつける。元よりその覚悟で今日この日を迎えたのだ。ホルスは剣を構え直し、柄を握る手に力を込めた。目の前の仇敵の首を跳ねる事を夢見て、今まで己は生きてきたのだ。地を踏み込み、息を詰めたその瞬間、


「まあ……待て。我が子らよ」


低い嗄れた声が、王間に響いた。王の血族が座る席の一つに、年老いた老人が座っている。その老人は皺まみれの指先をセトとホルスに向けると、溜息を吐きながら言葉を続けた。


「争うにも……おぬしらが本気で争えば国……いや、世界が滅ぶであろう?」


「……申し訳ありません、太陽神ラーよ」


セトは視線の先の老人に向かって、深々と頭を下げた。老人は持ち上げた手を自らの膝の上に戻すと、満足そうに笑む。その際、歪んだ唇から水泡混じりの涎がびちゃりと落ちた。口を締める程の筋力が、この老人には既に無いのだ。


王が頭を下げる程の相手。この老人こそ、この国の創造神、ラーである。彼もかつては王であったが、今ではこの通り、涎すら満足に啜れない、乾いたミイラ寸前の姿だ。ホルスの父であるオシリスにその王の座を譲ったのも随分前の事である。


しかし、どんなに年老いた姿になろうとも、世界の創造主として誰よりも発言力を持っていた。


現に、ラーはオシリスの正式な息子であるホルスよりも、セトを支持している。セトは若輩者のホルスよりも王としての仕事を理解している。今更オシリスの息子だからと出てこられても、子供のホルスに政治は任せられない。と言うのがラーの本音だ。


そして何より、セトは王の座の為に兄を殺す悪神だと言われながらも、ラーの乗る太陽の船の強力な守護者でもあった。セトは普段は温厚だが、本来の姿は荒々しい戦神である。ラーにとってセトは、自分を守る盾でもあった。


「……」


ホルスはキュッと唇を噛む。


下手な事を言えば、詭弁なセトの語術にラーは丸めこまれるだろう。黙るしかない。


「ならば――水中で争う、というのは?」


「ほぅ……水中?」


そんなホルスを後目に、セトは少し考える素振りを見せると、そうラーに提案する。水中という予想もつかない言葉に、ラーは何処か楽しげに、自らの伸びた白い髭を撫でてセトの次の言葉を待つ。


「単純かつ子供の戯(あそ)びですがね――…どちらが長く水中に潜っていられるか。というのは如何ですか? これならば地上に被害は及びません。ホルス、貴方はどう思われますか?」


急に話題を振られ、ホルスはハッとセトを見返した。声に出さずとも、「なにを言っている?」とその困惑した表情がホルスの言葉を語っている。


ホルスには理解が出来なかった。いや、セトの言っている事は理解出来たが――そんな幼稚な方法で王の座を決めていいのか? と。自分はここに殺し合いにきたつもりなのだ、ホルスの困惑も無理もない。それに、こんな話の中でもセトが何か裏を思案しているのではないかと、疑っているのもあった。


セトは狡猾な男だと、ホルスはずっと母から言い聞かされてきた。父であるオシリス殺害の時もそうだったという。言葉巧みにオシリスを騙し、棺ごとオシリスをナイル川へと突き落としたのだと――。


しかし。


「……わかりました」


ホルスに断る理由はなかった。


待ち望んだ、漸くのチャンスだった。水中ならば、誰にも邪魔されず、二人きりになれる。その間に、この憎い仇敵を、殺せる隙が、何処かにある筈だ、と。


「ならば、また後日に。今日は会えて嬉しかったですよ、ホルス」


「……」


ホルスは優しく微笑む叔父の姿を見て、無表情で背を向けた。


あの笑みは信じてはならない。


そう感じ取った。


幼い頃から、ホルスは王の座を脅かす『オシリスの息子』として、セトに命を狙われ続けていた。ホルス自身の記憶には残ってないが、赤子の頃に毒蛇を仕掛けられた事もあるのだという。しかし、偉大なる魔法使いと呼ばれるホルスの母、イシスの力により、ホルスはここまで生き延びる事が出来た。


「いいわね、ホルス――貴方が王になるのよ」


美しく微笑みながら、イシスは言う。


王宮から帰ってきたホルスを優しく迎え、愛しそうにホルスの頬を指先で撫でるその母の手つきは、慈愛に溢れている。ただ、その眼はホルスの緑瞳を映してはいなかった。オシリスをセトに殺されてから、未亡人となった彼女の苦悩と悲しみは深かった。ただひたすらにセトの手から逃げ、女手一つでホルスをここまで育てたのだ。


彼女が見ているのは、ひとつ。


愛した男が座っていた、あの場所のみ。


「はい、母さん。僕は、必ず、父さんの仇を討ちます」


「良い子ね……」


ホルスにとって、母を喜ばせることが全てだった。剣の腕を磨き、強くなれば褒められた。こうして、仇討ちの事を口にすれば、優しく頬を撫でられた。本当に自分は父の仇を取りたいのか、疑問に感じることも勿論あった。だが、母を喜ばせる。その手段が仇討ちというだけで、理由など、どうでもよいと。ホルスはそう自分に言い聞かせた。


「あの男を殺して仇をとるの。彼は貴方の敵。貴方の父を殺した者。私達を苦しめた存在」


幼い頃から何度も言い聞かされてきた言葉である。ホルスは母の言葉にただ黙って頷いた。


『王になれ』


『あの男を殺せ』


何度も何度も度も何度も何度も何度も何度も何度も、それこそ、呪詛のように。

その言葉に、全く疑問を抱くことなく、生きてきた。


「はい、母さん。貴女の為に」


ホルスは、子供のように純粋な心で、それだけを信じていた。

母の為に。

そしてそれが己の為でもあると。

ただ、ひたすらに。



*



神は時に、人々が思い付かない手法で争う事がある。人とは違う生命力や価値観を持つ為か、人の目には滑稽に見える事もある。それは今回の水中での我慢比べも同じだろう。


獣の姿になる事も出来る彼等には、人としての当たり前が通用しない。既に二神が水中に潜って数時間が立とうとしていた。


水泡が、口の端から溢れる。水の中は心地好い温度だ。上を見れば、太陽の光が水面を照らしていた。


静かだ――とホルスは素直に思った。


「……静かですね」


それは相手も同じのようで、頭の中に声が響いた。水中では言葉を発する事が出来ないので、言霊を飛ばしたのだろう。


「……そうですね」


ホルスは相手と同じように言霊で返す。ふ、とセトが笑った気配がした。視線を向ければ、やはりセトの口は三日月を象っている。


昨日ぶりにあった彼は、やはり余裕そうに笑みを浮かべて、幼子と遊んでやっている、というような態度を見せる。これは挑発なのだろうか?そう思うだけで、夜の睡眠と冷たい水のお陰で大分落ち着いたが、再びふつふつと怒りの感情が湧き出てくる。セトはよく笑う男だ、とホルスは思う。その笑みの中にどれだけのものを隠しているのだろうか――計り知れない男だ、というのがホルスのセトに対する第一印象だった。


何度も母に言い聞かされてきたからかもしれないが、セトの表情や言葉の一つでさえ、嘘臭く見えてしまう。


「ホルス……少し話をしませんか?」


「……?」


出された提案に、ホルスは疑うような視線をセトに送った。何を考えている?とでも言いたげに。


「全く……私はただ純粋にお前と話がしたいだけですよ。私達は他人ではないのですから」


そんなホルスを見て、セトは僅かに苦笑した。


「……貴方の眼には、光がありませんね、ホルス」


唐突に切り出された話題に、ホルスは軽く目を見開いた。


「……どういう事ですか?」


「母の言いなりで満足していると言えば良いのか……いや、すでにお前は姉上の下僕だな」


「……!」


セトは笑みを絶やさずに、目の色を憤怒に変えたホルスを見つめる。


「お前には、姉上……母しか信じる者がいないのでしょう?…可哀想に」


「貴様に同情などされたくない…っ!!」


「同情?違いますよ――ホルス」


ふわ、とセトの体が浮き、ホルスへと近寄る。ホルスは咄嗟に身構えたが、母と良く似た手つきでセトに頬を撫でられ――思わず体を硬直させた。


「あ…」


似ている。母と。


ホルスはセトの紅眼を見て、そう思った。そう、セトはイシスの弟でもあるのだ。似ていて当然だ。忘れかけていた事実を、引き摺りだされたような、そんな感覚だった。


「お前に教えてやろう、お前が信じるものが如何に脆いかを」


「何を――」


答えの言葉の代わりに、セトに腕を掴まれ、体を引き寄せられた。

ホルスの目が見開く。

唇にあたる感触の意味が、理解、出来ない――。


「……これは、愛情表現ですよ、ホルス」


唇が離れ、セトは綺麗な笑みを浮かべてそう言った。


「……僕を、惑わす気ですか…?」


「さぁ……?お好きにとらえてくださって構いませんよ」


「セト……」


「私はお前を愛していますよ、ホルス。……それ故に、お前に教えてあげねばなりませんね。善が如何に脆いかを……」


その時だった。


「――!」


ホルスは目を見開いた。


水上から何かが放たれ、それはセトの体を貫いた。赤い血が水に溶ける。


セトの口からも血が溢れ、セトは己の体を貫通する槍に触れる。標的を確実に射抜く為だろうか、その槍には魔力が込められていた。


しかし、セトは相変わらず笑みを絶やさない。


「……やれやれ、姉上か…」


まるでちょっとした悪戯をされただけのように、セトは槍を掴みながら、そうぼやく。


(母さんが…?)


ホルスは水上を見た。


確かに陸地にはイシスがいる。大事な仇討ちの場だ、イシスが控えてない筈が無い。……中々セトの死体が浮かんで来なかった事に、我慢が効かなくなったのだろうか。


(そうだ、そもそもこれはセトを殺す為の勝負だったではないか!)


半ば自分の役目を忘れていたホルスは、隠し持っていた小剣を取り出そうとした。


が、


「ホルス」


「!」


既にセトに警戒されているのも当然である。名を呼ばれて、ホルスは動きを止めた。


「姉上に話の邪魔をされてしまいましたね。また会いましょう、愛しい甥よ」


セトはそう言霊を送ると、ゴポリと水泡を立てて水面へと上がって行く。


「っ、待て!」


ホルスは慌ててセトの後を追った。





「!」


セトが水上へと上がると、既にイシスは二打目の槍を構えていた。セトはそれを見ると、口の端を吊り上げる。濡れた紅髪を掻き上げながら己を殺そうとする姉の目を見つめた。


「何を驚かれているのです、姉上?槍が刺されば幾ら私でも痛いのですよ」


「セトッ…」


セトは陸地に上がると、動揺しているのか隙を見せたイシスの腕を掴み、顔を近付ける。


「そうですよ。よく見て下さい。私は貴女の実弟、セトです。お忘れになりましたか?」


「……ッ!」


イシスは抵抗を試みたが、男の握力に女が適う筈がない。セトはどこか嬉しそうに歪んだ笑みを浮かべながら、そのまま己の体に突き刺さる槍を掴み、一気に引き抜く。


「セト?!何を…っ」


「……ふ、」


驚愕するイシスを嘲笑うかのように、荒々しく肉が裂かれた傷口からは、ぼとぼとと血が流れ落ちている。


「…それもお忘れですか、姉上。貴女が、この弟の体を傷付けたのですよ?姉上、兄弟殺しの罪は私だけで結構です…」


セトは一瞬、悲しげに目を細める。そして突如、限界がきたかのようにガクリ、と地面に膝をついた。尚も血は流れ、地面を紅に染めていく。笑みは浮かべているものの、肩は上下に揺れ、苦しげな吐息がセトの口から漏れる。


このままイシスがセトを槍で射抜けば、容易くセトは殺せるだろう。だが、イシスの槍を握る手が、小刻みに震える。


憎んでいるのは、確かなのである。しかしその前に、彼等は、姉弟だった。


「…っ…!」


イシスは、構えていた槍を地に落とす。


そして――








「セトッ、母さっ…!」


少し遅れて水中から上がってきたホルスは、目を、見開いた。

仇敵に回復魔法をかける、母の姿を、その目で、見てしまった。


ドクリ、と。


ホルスの心臓が跳ねた。


その男を殺せと言い聞かせてきたのは、母ではないか。憎めと言ったのは、母ではないか。


何故、


そうも慈愛の眼で見つめ、


その男を癒して、


何故、


何故、


何故、


何故ッ!!!!


ホルスの感情が、爆発する。


「母よ――裏切ったかっ!!」


ホルスは吠えるように叫ぶと、そのまま激情に身を任せて剣を抜く。


「貴女の決意は家族の情などに負けるのか!!我にその男を殺す為に生きよと命じたのは貴女ではなかったかっ!!!」


「ホ、ホルス……! ひっ!」


イシスが怯んだ声を上げた瞬間とほぼ同時に、銀色の刃の煌めきが、イシスの首を撥ね飛ばした――。











「……ふっ」


ごとん。


と、首が地面に落ちる。イシスの艶やかな黒髪が土に汚れた。見開いた眼球が白く濁り空を見上げている。死の恐怖を貼り付けた表情のままごろりと転がった生首が、セトの足にぶつかった。


セトは、そんな変わり果てた姉の姿を見て――相変わらず微笑んでいた。


「流石姉上だ、もしもの時を考えていたようですよ?」


そう言うと、セトは爪先でイシスの頭を踏みつける。すると、


ぼろり。


とそれはみるみるうちに土色にかわり、砂となって崩れていった。今までのイシスは、彼女が万が一に備え、魔法で作り上げた土人形だったのだ。本来であれば、セトに殺されまいと備えての事、だったのだろうが。いや、もしかしたら、怒り狂った息子が自身に刃を向ける事があるかもしれないと思ってーー。


「言ったでしょう、ホルス?お前の信じるものは、脆いと」


セトは優しく、そして残酷な微笑みを浮かべ、ホルスに囁く。


「………ぁ…」


カタカタ、と。ホルスの構えた剣先が震え、カランと音を立てて、地面に落ちる。


「違……ちがう…ぼくは……ちが…」


ホルスは震える声で呟きながら目を見開き、息を荒げ、崩れ落ちそうな足でずるずると後退る。


「ホルス――」


セトは優しい、優し過ぎる声で、ホルスを絶望の底へと突き落とした。


「幾ら分身とはいえ――お前が信じていた母を、お前自身が斬り捨てた。お前が、母を殺したのですよ」


信じたものに裏切られ、


己の目的を見失い、


母殺しの罪を背負い――


「……、…ぁ…あぁあぁぁあああ…!!」


ホルスは、その場を逃げ出した。



*



『お前は姉上の下僕だ』


『お前の信じるものが如何に脆いか――教えてあげましょう』


『私はお前を、』


愛していますよ。





「煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩いうるさいうるさいうるさい…っ!」


幾らそう喚いても、耳を両手で塞いでも、脳に直接響く、悪神の声。逃げ惑いながら、ホルスは呻いた。


「違う違うチガウ…ッ僕は…ぼくは…」


偉大な父の跡継ぎで、王となる存在で。その為には殺さなくてはならなくて。憎き父の仇を。


――憎い?


『――本当にお前は私を憎んでいますか?』


「黙れ悪神!!僕の脳髄を犯すなぁああ゛…っ!!」


頭の中で木霊のように響く声に顔を苦痛に歪め、かち割れそうな頭をどうにかしたくてホルスはそのまま近くの木に勢いよく額を叩き付けた。


つぅ…と、額から血が滲む。


ハァハァと息を漏らす口からは唾液が流れ、肩を上下に揺らして大きく深呼吸するものの、ホルスは中々落ち着きを取り戻せないでいた。


「チガウ…ちがう…違う…」


呻きながら、ホルスは木に両手を付けたまま膝を折り曲げ、その場に崩れ落ちた。目をきつく閉じると、身体中から一気に汗が吹き出た。


暑い。


喉が痛い程に渇いていた。


「……くっ…」


込み上げてくる嗚咽を堪え、ホルスは小さく、母を呼ぶ。


「……かあさん、」


返事は、無かった。









「……脆いでしょう?」


「――!」


ドクン、とホルスの心臓が跳ねる。


脳ではなく、鼓膜を響かせる、優しい声。


「ホルス――わかったでしょう?お前の信じるものなど、その程度なのですよ」


「…――っ!」


振り向こうとした瞬間、腹部に重たい激痛が走る。


「ぐっ…ぁ!」


胃の物を全て吐き出しそうになる、吐き気が一気に喉まで上がってきた。ホルスは苦痛に顔を歪め、自分の腹にめり込むセトの拳を掴む。


「ホルス……お前は弱すぎる」


「ぅっ、…ぐっ…」


「私は闇を見つめる事も知らない光に汚れたお前の眼が嫌いです」


「、あ!う゛、げぇ…っ!」


拳に更に力が入り、胃を圧迫される。せり上がったものが遂に喉を通り過ぎ、口からゴポリと溢れ出た。吐物の中には血も混じっている。内蔵の何処かが出血したのかも知れない。


「ぅ、あ…ぁ…っ…あ…」


ホルスの身体は震え、唇は吐物で汚れ、空気は上手く気管に通らない。眼が潤み始める。ホルスはセトの拳に必死に爪を立てた。


「ふふ、随分と淫らですね、ホルス。可愛らしいですよ」


セトはそう嬉しそうな声色で言うと、ホルスの頬を優しく撫でる。ホルスの眼は完全に虚ろになっていた。生気が感じられない。


「あ…ぅ…」


「ホルス……」


セトは、優しく、愛しそうに、ホルスの名を呼ぶ。


そして、


「お前に教えてあげましょう…、本当の闇を」


「―――!」


途端、


ホルスの視界が闇に覆われた。


ぐちゃあっ、と、何かが潰れる、音が響き、


そして、


眼に走る激痛。


「あぁあぁぁあああぁぁぁあっ!!!!」


セトの白い指が、ホルスの瞼と眼球の間に滑り込み、抉る。ホルスの視界から、ブツ、と糸が切れたように、光が消えた。


「ア゛ァァア゛ァアッ!!」


ホルスは舌根を空へと突き出しながら悲鳴をあげる。既に眼球を無くした血の涙を流す両の眼を手で押さえ付け、喘ぐ。生温い血が手を汚した。それはドクドクと脈打ち溢れ出る。


「さぁホルス……これがお前への罰ですよ」


「あ゛…、ぁ…あ…」


セトがそう言い残し、その場を立ち去るのを気配で感じ取る。


ホルスは思わず手を伸ばした。


「や…だ…、ぃや……っ、」


闇の中にただ独り残される事に恐怖を覚えた。ホルスは震える手を必死に伸ばした。ひとりにしないでくれ。誰でも良いから、傍に。頭で考える余裕もなかった。セトが仇敵である事も、この闇に己を叩き落とした張本人であることも、忘れていた。


怖かった。


ひたすらに怖かった。


視界を奪われたから、だけではない。自分が進む道を見失っていた。信じていた母を信じる事も出来なくなり、己は何をすべきなのかすら、わからなくなっていた。


今、己の眼窩から溢れ出ているのは…血じゃなくて涙なのかもしれない。そんな事まで、錯覚するほどに。子供のように、ホルスは泣きじゃくった。どうすれば良いのか、わからなかった。


何も見えない。


何も。



そんなホルスの指先に、何かが触れた。


ホルスは咄嗟にその何かを掴もうとするが、それは掴めないギリギリの距離を保っている。


「…セ…ト……?」


名を呟いてみたが、返事はない。


先程まで多弁だったセトが、一言も喋らなかった。眼を奪われた今、どんな顔をしているのかも、ホルスにはわからない。いつものように笑っているのだろうか。



それとも――…?



わからなかったが、


セトの気配はそこにいた。


「……っ…」


ホルスは、それを感じ取ると、


そのまま意識を失った。




*




「……わかっていた筈なのに」


いつもは凛としていて、高貴な彼女の声が、弱々しく震えていた。


「イシス様……」


そんな彼女、イシスに回復魔法を掛けているのは、知恵と医術の神、トト。セトとホルスの争いには中立な立場であり、これまでもイシスに何かと協力してきた神である。かつてホルスの命を救ったのも、彼だ。


イシスは先程まで動かしていた分身を息子に斬られ、魔力の大半を削られていた。しかしそれだけではない。息子が自分を斬りつけて来た事へのショック、そしてなによりも、まだ自分が弟を憎み切れていなかった事への怒りが、彼女を疲弊させていた。


トトはそっとイシスの肩に手を乗せ、彼女を労る。なんと慰めの言葉を掛けるべきなのか。知恵の神であるトトでさえ、良い言葉が見付からない。


「昔から、嘘が得意で。心にもない事をペラペラと喋って。私を、騙して……。私、あいつが憎いわ。心から、憎い……」


トトが黙れば黙る程、イシスの言葉が憎悪に溢れていく。


「最初からこうするつもりだったのよ。私を惑わせて、ホルスを怒らせて……!親を殺させるような真似させて!ラーや他の神があの子を見たらどう思うか…!許さない……許さない…!」


「……」


トトは悲しそうに目を伏せると、イシスの肩に乗せた手を退けた。憎しみに濁ったイシスの瞳を、これ以上見たくなかった。


その時だ――。


「おやおや……酷いのは貴女じゃありませんか、姉上」


「――セト…!!」


いつもの微笑みを携えながら、セトがその場に現れた。その右手は、赤く染まっている。その手の中にある二つの球体に気付き、トトは咄嗟にイシスの前に立ち彼女の視界を遮った。


「セト様…っそれは…っ?!」


「ああ…これですか?母殺しの罰にと思い、抉り取ってきたのですよ」


セトはそう言い終えると同時に、二つの球体を床へ投げる。びちゃ、と生々しい音を立て、濁った球体が空中を睨んだ。


「…!!」


その二つの球体と目を合わせたトトは目を見開き、息を呑む。


「なんて酷な…っ彼はまだ子供だぞ!?」


「子供?だからなんだと言うのですか」


思わず怒鳴り声を上げたトトを気にもせず、セトは平然と自らの手についた血液を舐めとる。


「姉上――感謝して頂きたいですね。貴女の代わりに私がホルスを罰したのですから…」


その瞬間、


イシスの魔力が暴走した。


「あ゛ぁぁあぁぁぁあああ――ッ!!」


「っ、イシス様っ!!」


「殺してやるっ、殺してやるぅうぁぁあああぁぁああ――!!!」


涙を流しながら発狂し奇声を上げ、セトに向かおうとするイシスの体をトトは必死で止める。こんな状態のイシスを暴れさせる訳にはいかない。


「イシス様、落ち着いて下さい…!今の貴女では無理です!!」


「あぁぁあああぁぁあっ!!」


「ふふ…」


セトはその様子を愉しそうに見つめながら、ゆっくりとその場を離れていく。


「待ちなさいセトッ!!あの子は、あの子は何処っ…?!私の大切な子…っ」


悲鳴にも似た叫びを続けるイシスの言葉に、ピタリ、とセトは歩みを止める。


「……姉上」


低い声だった。


ただ、二神から見えるのはセトの背中だけで、表情は読み取れない。ゆっくりと、セトは首だけ振り向き、イシスに視線を向ける。


「貴女は本当に、ホルスを愛しているのか……?」


そう問い掛けたセトの顔には、笑みがなかった。眉間には皺も寄っている。


セトの素の顔だった。


普段気品な笑みで隠している、セトの本質――…


「……どういうこと…っ」


「……さあ…。今の貴女にはわからないかもしれませんね…。ククッ……良い眼ですよ、姉上。憎しみで濁らせた貴女の眼は何よりも美しい…クククッ…アハハハハハハッ!」


セトの高笑いが響く。普段の微笑みとは違う。血に濡れた手で顔を覆いながら、口角をつり上げ、肩を揺らしながらなんとも愉快そうにセトは笑う。


狂気に溢れていた。


悪神に相応しき、狂笑。


その狂気を止める術は、目の前の二神には無く、セトはそのままその場を立ち去った。


高笑いを続けながら。




*




闇から目覚めても闇から逃れる事は出来なくて。ホルスは両の目があった位置を両手で押さえ、苦痛にもがいていた。眼窩は血の涙を流し続け、眼球のあったその場所は激痛と熱でマグマのように煮えたぎっているのに、血が流れ落ちて行くせいで体は芯から冷えていく。


そんな憐れな子供に近付く、牛の角を頭に生やした美女の姿。慈愛の女神、ハトホル。戦いの場から逃げたホルスを探していた神々のひとりだ。


「……まぁ、まぁ…、なんてこと」


ハトホルはホルスに近寄ると、彼が両目を抉られている事に気付き、口元を手で覆う。そしてそのまま跪くと、ホルスの頭をそっと撫でた。


「う…ぅ…」


「大丈夫。直ぐに治しますわ」


ハトホルの手が光に包まれ、じんわりと温かい何かが手の平からホルスの体に伝わり、傷を癒していく。ハトホルの癒しの魔法は、失った眼球さえもホルスに与えた。


「さぁ、もう大丈夫ですわ……目を開けてくださるかしら?」


「う……」


セトに奪われた眼球はハトホルの手によって綺麗に再生され、再びホルスの世界に光が戻ってきた。ホルスは何度も瞬きをし、ぼやけた世界をクリアにしていく。そして、目の前の女神の姿を見つめた。


「あなたは……?」


「ハトホルと申します。慈愛の女神ですのよ」


小さく首を傾げて問うと、ハトホルはにっこりと微笑んで答えた。慈愛の女神だけあり、母を想わせる優しい微笑みだった。恐らく彼女はどんな人物でもその優しさで包み込んでしまうのだろう。そんな雰囲気を纏わせていた。


「ハトホル…さん。有難う御座います…」


ホルスは礼を言うと、体を起こそうとしたが上手く力が入らず、直ぐに立ち上がる事は諦めた。傷は癒されたとはいえ、まだ精神面が追い付かないようだ。


「まだ無理をなさらずに……。それから、礼には及びませんわ。ホルス様」


「僕をご存知なのですか……?」


「ええ。多くの神々が貴方を探しておりましたので。裁きを受けるべきとの事でしたが……」


「……」


親殺しは、許されざる罪である。例え分身であったとしても、実母に刃を向けた事は変わりないのだ。然るべき場で、罪を償わなければならない。己はその償いの場から逃げ出した罪人も同じなのか…と思うと、今更震えがホルスを襲った。戻るべきだ。今度はこの首を母に捧げる側になるのかもしれなくとも、だ。


しかしそんなホルスの事を見詰めるハトホルの眼差しは、優しいままだ。


「ホルス様」


ハトホルは優しく微笑むと、震えるホルスの手を自分の両手で包むように握り締める。


「ハトホルさん…?」


「ホルス様――愛の形は様々ですわ」


「え……?」


言葉の意味が理解出来ず、ホルスは問い返したが――ハトホルはそれ以上何も言わず、ただ優しく微笑んでいるだけだった。


「……」


ホルスはハトホルから視線を変え俯き、僅かに目を伏せる。


その手の温もりから思い出すのは――



闇の中で指先に触れた、


掴めそうで掴めない、彼の体温だった。




母の元へと戻ったホルスは、謝罪の言葉を口にする前にイシスに抱き着かれ唖然とした。母が子供のように泣きじゃくっていたのである。それはセトがホルスの抉った眼球を見せ付けた直後だった、というのもあるのだが、ホルスはその事を知らない。複雑そうに顔を歪め、母を見詰める事しか出来なかった。


「母さ…」


「ホルス…っ、ごめんなさい…貴方を裏切るような真似をしてごめんなさい…!」


自分が謝罪する前に涙声の母に謝られ、ホルスの胸の奥がチクリと痛む。信じられなくなったとはいえ、ホルスにとって母は絶対的存在だった。そして最も愛すべき対象だった。彼女は子供を守る為、女一人で戦って来たのだ。夫に先立たれ王宮から追放され、命を狙われて。


消えかけていた、母への愛や、信頼が、再び強い気持ちになってホルスの中に戻ってくる。


(次は自分が母を守らなければならない――父がいない今、他に誰が彼女を守るのだ)


「母さん……申し訳ありませんでした。…それから…僕はもう大丈夫です」


その言葉を言った途端、不意にズキリ、と目の奥が痛んだ。ホルスは顔をしかめ、額を手で押さえる。両目を抉られた時のショックが、まだ消えていないようだった。未だ、目を瞑る事さえ恐怖の対象だった。


闇を恐れる、なんて――。



その後、ホルスの母殺しの罪は、セトが両目を抉った事により十分に罰せられたとされ、帳消しとなった。再び立場が公平となり、どちらが王に相応しいのか、神々の間で裁判が開かれた。

その裁判は実に80年の月日を費やしたという。


「……これでは決まりようがありませんな」


溜め息を吐き、神々の中の一人が言った。


「エジプトを上下に分け、それぞれの地を二人で納めるのはどうか?」


「強欲なセトが賛成するとは思えんな」


「うむ……」


神々が話し合いをしている最中にも、長い月日が流れていく。


何度太陽と月が交代を繰り返しただろうか。


セトとホルスは争いを避ける為、会う事を禁じられていたが――ある日、痺れを切らしたセトが神々の前で言った。


「争いは致しません。ただ、このままでは拉致があかない。そこで、親睦を深める為にホルスを私の家に招いても宜しいでしょうか?私達が和解する事は貴殿方にとっても良いことでしょう」


「和解、出来るというのか?」


一人の神がセトに反論する。


「さぁ。ただ、話し合いも出来ない状態が続くなら、永遠に和解も出来ないと思いますが?」


「むぅ…」


まるで他人事のようにセトはさらりと言うが、その言葉に反論出来る者は誰一人いなかった。


数日後、セトの家で宴を開く事が許された。


セトの手下やホルスの元についた神々をも含む、大きな宴となった。酒と豪勢な食事が用意され、陽気な音楽が流れ、着飾った女神達が舞う。


「……」


ホルスはその宴の場で、セトの姿を遠目に見ていた。和解を目的とした宴――そんなもの、信用していない。


水中での勝負の時もそうだった。先に提案したのはセトであり、それこそが罠だった。恐らく彼は勝負の最中にイシスが自分を殺そうとする事を予期していたのだ。そしてイシスがまだ自分に情が残っている事も。そのままホルスに母殺しの罪を着せる事も、計画の内だったのだろう。どんな罪でも、背負ってしまえば王の座からは遠ざかる。例えその罪が赦されたとしてもだ。


「…っ…」


再び、ズキリと目の奥が痛み、ホルスはきつく目を閉じる。闇の中でチカチカと白い光が点滅する。眼の神経を引き千切られた感覚を思い出し、顔をしかめる。…しっかりしなくては。そう思い、再び眼を開いたが――


「あれ…」


セトの姿が見当たらなかった。辺りを見渡すが、何処にもその姿はない。一瞬の間でいなくなってしまったようだ。


(……一体何処へ…?)


ホルスはそっと宴の会場を後にした。




外に出ると、少々肌寒く感じた。


何処か遠くの方で、野犬の吠える声がしていた。空を見上げれば、満天の星空。今頃月の神が船を動かしている頃だろうか。


「……セト…?」


特徴的な紅髪が靡く背中を見つけ、声を掛ける。それでも、此方には気付いていないようだった。

更に近付き、顔を見て――少し、驚く。


無表情だった。


いや、無表情と言うよりは、僅かに眉間に皺を寄せた、何処か不機嫌そうな顔をしていた。いつも微笑み、つり上がっている口角も今は下がり、キュッと閉じられている。

初めて見るセトの表情に、ホルスは戸惑う。


「あの…」


思わず声を掛けた。その小さな声でセトは漸くホルスの存在に気付き、視線を向けた。少し驚いたように軽く目を見開いて。

だが、直ぐに何時ものように優しげな眼差しに変わり、にっこりと微笑んでみせた。


「どうかしましたか?」


「あ…。」


その顔を見て、ホルスは何故か安堵した。そんな自分に一瞬戸惑い、セトから視線をそらして言葉を探す。


「……それは、こちらの台詞です。セト…ここで何をしているのです?」


「…ああ…。少し飲み過ぎたようでしたので、酔いを醒ましに」


「……大酒飲みと言われている貴方が、ですか?」


ホルスは嫌味を含めてそう言うと、セトは肩を揺らして笑った。


「フフッ…。流石の貴方も、これくらいの嘘なら見破れるようになりましたか。確かに私はあのくらいの量では酔いませんよ」


その言葉に、ホルスは不快そうに眉を寄せた。そんなホルスを気にもせずに、セトは言葉を続ける。


「私の嘘くらいわからなければ、私の対立者にもなりえませんよ、ホルス」


「…嘘、ですか」


「ええ」


「……その笑みも、ですか?」


ホルスの問いに、セトは一瞬目を細める。


「……そうですよ」


セトは自分の口元に指を這わせ、静かにそう言った。

その口は笑んだまま。


「……何故…?」


「さぁ…癖、でしょうか」


「……」


ホルスは何故か、心の奥が冷えた気がして、右手で胸をギュッと抑えた。


先程見たセトの表情を思い出した。全く笑みが無い、少し不機嫌そうな。あれが、セトの本当の顔だと言うのだろうか。ならば、己は最初から騙されていたのか。その笑みが、セトの素顔だと思っていた。狡猾な男に相応しい、顔だと。


「…これは例え話ですがね、ホルス」


静かに呟かれたセトの言葉に、ホルスは顔を上げる。


「兄上……お前の父を切り刻む時、私は己の体を引き裂く想いだったのだと言ったら――信じますか?」


「……っ?!」


その言葉に、驚愕と同時に困惑する。それが真実だとしても、偽りだとしても、実父を殺した張本人はこの男なのだ――例えこの男が父を殺した事に対して罪悪感を抱いていたとしても、己はこの男を許さないだろう。信じる、信じないの話ではない。だが……。ホルスはそこまで考えて、震えそうになる唇を、こじ開けた。


「セト…貴方は…」


「……?」


「父を、どう思っていたのですか?」


それは、ずっと聞きたかった事でもあった。

本当に、自分の欲の為だけに殺したのか。自分の目的の為に殺さねばならない存在だったから、殺したのか。それとも、憎み、妬み、殺したのか。

どんな理由であれ仇である事には変わらないのだが、ホルスはそれを知りたいと思った。

セトは、くす、と声に出して笑うと、ホルスに逆に問い掛ける。


「貴方にとって、どちらの方が酷ですかね?本当は好きだったのに、やむを得なく殺したというのと。本当に嫌いで、憎みながら殺したというのと」


「それは…」


「安心しなさい、ホルス。私は兄上が大嫌いでしたから。兄上の体を切り刻む時、愉快過ぎて笑いが止まりませんでした」


セトは綺麗な笑みを浮かべながら、ハッキリとそう口にした。ホルスは、ホッとしたような、腹立たしいような――そんな複雑な感情に襲われる。セトは自分の紅髪を撫でながら、言葉を続けた。


「……先程、私の嘘は癖のようなものだと言いましたが……その通りなのですよ。周りは私を策士やら狡猾やらと呼びますが…私はただの嘘吐きなんです」


「…ただの…嘘吐き…」


「ホルス……教えてあげましょうか?私が兄上を嫌う理由を」


「?」


ホルスは首を傾げる。


まさかとは思うが、オシリスは嘘を知らない善神だったから、なんて、言うつもりじゃないだろうか、と思ったが、違ったようだ。


セトはやはり綺麗な笑みを浮かべながら言う。


「私のどんな嘘も、通じなかったからですよ」


「え……?」


「それが腹立たしくて堪らなかった」


一瞬だけ、セトの眉間に皺が寄る。口角はつり上がったままだったので、少し歪んだ表情になった。ホルスは、信じられない、と言うように、震える声を押さえつけながら更にセトに問い掛けた。


「なら、父さんは……貴方に騙されている事も、貴方に殺される事も…わかっていたと言うのですか…?!」


「……恐らくは」


「……!」


ホルスは目を見開く。信じられなかった。


父は、セトに騙されて殺されたと聞いていた。だが、先程のセトの言葉が本当ならば、オシリスはセトに騙されている事に気付いていたと言うことになる。


(父さんは、自ら、死を選んだというのか…っ)


ホルスは再び、信じていた者に裏切られた、そんな感覚に囚われる。


「……ホルス」


そんなホルスの心境を察してか、セトはゆっくりとホルスの顔に手を伸ばした。


「っ?」


ホルスは思わず身を引き、その身体を強張らせた。一瞬、背中に寒気が走る。目玉を抉られた時の感覚を、思い出した。ふつりと嫌な汗が滲む。


「……そう怯えるな」


セトはホルスの様子を見て、楽しそうに肩を揺らしながら笑うと、そっとホルスの頬を撫でた。


恐ろしい程、優しい手つきで。


この手から破壊が産み出されるのだと、信じられない程に。セトは害悪と破壊の神だ。荒々しい姿を見せる戦神でもある。だというのに、普段の彼は温和な姿を装っている。


ホルスには、一体、どちらが本当の彼なのか――わからなく、なっていた。


「セト……?」


「………。」


ホルスは急に不安になり、首を傾げたが、セトは何も言わずに、またゆっくりと手を離す。


「私は兄上の血を引くお前が嫌いです」


不意にそう呟かれ、ホルスはビクリと身体を震わせた。そのセトの優しげな口調の中に――怒気が含まれていたような、気が、した。


「何をそう怯える必要がある?ホルス――当然だろう。我等は憎しみ合い殺し合う定めなのですから」


「……なら、この宴は……やはり、和解などが目的ではないのですね」


ホルスは僅かに身を引き、セトをキッと睨み付ける。厳しい眼になったホルスの眼を見つめながら、セトはその紅眼を細めて楽しそうに肩を揺らした。


「フフッ……いいえ。私はお前と仲良くなりたいのですよ」


「何を言っているのです……!」


「――何を?さぁ、嘘かも知れませんし、真実かもしれません。貴方に見破れますか、ホルス…?」


「貴方の言葉に惑わされるのはもう沢山だ…っ?!」


その時だった。


プッ、という音を立てて、何かがホルスの背中に突き刺さった。同時に、激痛が走り、体が麻痺したように動かなくなる。


「…ぐっ…?!」


ぐらり――と、前のめり倒れるホルスの身体を、当然のように、セトの腕が支えた。


「離…――」


ホルスは抵抗しようと口を開いたが、呂律が回らない。まさか、毒を射たれたのか?ホルスがそんな事を考える暇もなく、視界が歪んでいく。


「ホルス……覚えておくと良い」


遠くなる意識の中で、セトが優しげに耳元で囁いた。



「私の本音は、嘘よりも残酷だ」



どういう意味だ。


ホルスは必死に口を開くが、舌がピリピリと痙攣して言葉を象る事が出来ない。そのまま動かない体を横抱きにされ、中へと運ばれる。ゆっくりとした、足取りで。それが、怖かった。


「…な……ゃ…っ…」


『何をする気なんだ』


『やめてくれ』


そう言葉にしたくても、まるで女の喘ぎのような声しか出ない。体の奥が熱くて堪らなかった。汗が吹き出る。


「おや、ホルス様――…どうされたのですか?」


「ふふ、少し酔ったようです。私が部屋に連れていきますから、ご心配なく」


ホルスの耳に、誰かとセトとの会話が届いた。こうしてセトは知らぬ顔で嘘を吐いていたのか、と思うと、悔しくて仕方がない。それと同時に、恐怖さえ感じた。この男は恐ろしい。その気品な笑みで、一体どれだけの嘘を吐いてきたと言うのだろう。


いや。


そもそも、この男はいつ本心で喋った事があるのだろう。


全てが嘘ではないか?


もしくは全てが真実なのではないか?


ホルスの頭が麻痺していく。


同時に体も、動かない。


わからない。


わからない。


この男が。


「ホルス」


混乱し、ろくな抵抗も出来ないうちに寝床に運ばれ、そこに寝かされる。優しげな微笑みが、ぼやけた視界に映った。


微笑みのその裏で、どんな表情をしていると言うのだろう。


「! う゛ぁぁああ――ッ!!…ぐ、むぐっ…」


突然左目をナイフで傷付けられ、その激痛にホルスは叫び声を上げた。無防備に開いたホルスの口の中に、容赦なく長い指が入り込む。舌根を押され、嘔吐感がせり上がる。


「うっ、うぐっ、ふぅうっ」


あまりの苦しさに、ホルスの目からじわ…と涙が滲む。左目からもドクドクと血が溢れ、温もりが奪われていった。痺れる舌を指で撫でられ、こぽ、と唾液が口から溢れる。いっそ息の根を止めて欲しいと願うほど、ホルスはセトによって追い詰められていく。


「苦しいですか?ホルス。…苦しいですか…?…フフフッ」


「は…ぁ…っ」


漸くズルリと指を引き抜かれ、口角からだらしなく溜まった唾液が溢れ出た。愉快そうな狂笑を聞きながら、ホルスは必死に空気を吸い込み、乱れた呼吸を整える。


「さぁ、ホルス。私と仲良くなりましょう?」


セトの顔が近付き、耳元で囁かれ、察する。


この男は、自分を犯す気だと。ゾクリ、と背筋に寒気が走る。痛む左目を抑え、ホルスは残る隻眼でセトをじっと見つめた。


『愛している』と、


呟かれたのを思い出した。


そんなのは嘘だ。


この男は己の立場を上にしたいだけだ。


抱かれてしまえば、自分は女と同じになる。つまり、王の立場から遠ざかる。セトはそれが目的だったのだ。最初から。


「…ぅっ…」


「ホルス……何故泣くのです?」


そう思うと、嗚咽を堪える事が出来なかった。セトが不思議そうにしていても、ホルスは声を押し殺しながら涙を流した。


自分自身でも何故泣いているのか、わからなかった。それでも、セトの言葉が嘘だとわかった瞬間、悲しかった。


何処かで、信じていたのだろう。


母以外の誰かに、愛された事に、喜びを感じていたのだ。愛されるのも、自分が愛すべき対象も、母しか、いなかったから。相手は、仇敵だというのに。


「ホルス……私が憎いですか?」


紅眼が、此方を見て、口が、三日月の形に象られている。見飽きた。そして、そんな優しい声色も……聞き飽きた。


その筈、なのに。


どれだけ、この男に裏切られ、傷付けられたのか、忘れたわけじゃない。今でさえ、左目を斬りつけられ、血が流れ、脳を針で刺されたような苦痛を味わっている。


父は二度もこの男に殺された。一度目はナイルに落とされ、二度目は体を刃で刻まれた。


母はそれ故に苦しんだ。己は殺されかけた事もある。


わかっている。


わかっているのに、


「……憎めません…」


ホルスは震える唇で、その言葉を絞り出した。それと同時に、胸が冷える。言葉に出した事で、その事実を認めてしまったからだ。


憎むべき相手を、憎めない己を。


そしてその相手を、殺さなければならないという、事実を。


そして、


答えが出た。


「きっと僕は、あなたを愛したいんだ」


憎しみ合い殺し合う関係じゃなく、ただ、普通の家族のように接したかった。愛し愛される関係に、憧れた。それでも、それは許されるものではなくて。だから、今まで気付かなかった。無意識に、それこそセトの笑みの理由のように、隠していた己の本音だ。


その事実を、ホルスは漸く気付いた――…。











「…………笑わせるな」



一瞬、誰の声なのかわからぬ程、


低い、声色だった。


それをセトのものだと気付く前に、ホルスの細首にセトの手が伸びる。


「っぐ…!」


物凄い力で喉が押され、気管を圧迫し、息が詰まる。ホルスは苦痛に顔を歪めながらも、自分の首を絞めるセトの手を引き剥がそうと爪を立てる。だが、びくともしない。それも当然だ。これは破壊神の手なのである。ホルスの細首など片手で十分に足りていた。少し捻れば、折れるだろう。


「……お前も、兄上と同じなのか…っ!」


苦痛と酸欠で霞む視界でセトの顔は見えなかったが、今までにない程怒気を含んだ声色はホルスの耳にも届いた。しかし言葉の意味もわからぬまま、首を絞める手に更に力が入る。ゴキッと嫌な音がした。


「がぁっ!!」


ホルスは激痛に目を見開き、舌根をつき出して喘ぐ。口からは泡が吹き出ていた。既に酸素の入る隙間などなかった。体の末端から麻痺が始まり、手足の指先が痺れていく。


「私を憎め、憎んで殺せ!!」


セトの叫びが、響く。


その言葉に、麻痺し始めていたホルスの脳が、一瞬クリアになった。その言葉の意味を考えたいのに、酸欠の脳では、思考が、出来ない。意識を手放しそうになる。が、急に手をパッと離され、一気に入り込んできた空気に肺が破裂しそうになった。


「…っ!…はぁっ!…ハッ、ぐ…はっ…」


ホルスは首と胸を抑え、必死に呼吸を整える。びっしょりと汗をかいていた。熱が一気に冷える感覚に、ぶるりと体を震わせる。


「ハァ、はっ……せ…と…?」


若干声がしゃがれていた。喉を潰されかけたのだから無理もない。ホルスは視界を取り戻し掛けている隻眼でセトの顔を見つめる。


「せと……」


「………」


セトは何も喋らなかった。


代わりに、いつものように、小さく笑んだ。


にこり、と。


そっとセトの手が伸び、ホルスはビクリと肩を震わせる。その手は優しくホルスの頬を撫でた。まるで壊れ物を扱うかのように。顔が近付き、ホルスは咄嗟に目を閉じた。傷付いた左目に這う、温かい、何か。


「ンッ…」


ビリ、と小さく電撃が走る。血はもう止まっていた。少し乾き始めてさえいる。


「セ…ト…っ…?」


困惑したホルスが声をあげる前に、血に濡れた左頬にチュ、と音を立ててセトの唇があたる。


「……。…ホルス…」


優しい声色だった。優しい声が自分を呼んでいた。


安堵、してしまう。思わず、子供のように泣きわめいて、その体に抱きついてしまいたくなる。その衝動を堪え、ホルスはぐっと下唇を噛んだ。


また、涙が出そうだった。


理由はわからない。


確かな事は。


己はこれからこの男に犯されるだろう。


しかし、それでもいいと思ってしまった。


……それでも、いいと。







既に夜は明けていた。


部屋に射し込む太陽の光に刺激され、不随的にホルスの体がピクリと震える。


目を開けようとすると、左目は完全に潰され、開くことが出来なかった。残った隻眼がうっすら開いたが、光はない。


「……ぁ…」


喉は枯れ、酷く痛んでいた。


ホルスは小さく口を開き、掠れた声を漏らす。傷つけられた体は麻痺していた。痛みなど無い。僅かに足を動かすと、生暖かいドロリとした液体が、注ぎ込まれた孔から溢れ出し、身震いする。酷く寒い何かが、背中を走った。


昨日の夜の記憶は殆ど無い。

思い出したくもなかった。


「…、…と…」


それでもホルスは小さく彼の名を呼んだ。

もうこの部屋にいない事などわかっているのに。

何かに、飢えていた。


それが何か、無知な子供であるホルスには、わからない。ただ寂しくて、母を求めて泣く幼児のように、声を殺してホルスは泣いた。


その時である。


母の悲鳴が、ホルスの耳に入り込んできた。


「……かあ……さん……?」


残った右目で母の姿を探す。このときばかりは、母の声を聞いただけでホルスもただの人の子のように安堵した。傷付いた体を優しく抱擁し、慰めてくれることを期待して。


「ああ、ホルス……! 可哀想に……」


なにがあったのか察したのだろう。始めこそ驚愕し悲鳴を上げたものの、イシスは直ぐに息子の元に駆け寄り、ホルスの期待通りにその体を抱き締めた。その母の温もりに、ホルスは目を細める。そのまままどろみの中に落ちてしまいそうだった。


だが、それは、他の誰でもない、母が許してはくれなかった。


イシスはホルスの体を自分から離すと、ほぼ裸同然の息子の体を見下ろし、何処か冷たい目をしてホルスに言った。


「いい……? ホルス……このままでは貴方は女と同じ扱いを受けた事にされてしまう……そんなこと私が許さないわ」


「……え?」


ホルスがその言葉の意味を理解する前に、イシスは我が子の性器をその手に握りこんだ。


「っ!? いっ……嫌だ、母さん!! 離してっ……」


予想もしなかった母の行動に、流石のホルスも目に涙を浮かべながら抵抗しようとする。 だが、ただでさえ実の叔父に体を穢されて疲労しきった体では、ろくな抵抗も出来る筈がなかった。


「セトの食事に私の子の精液を混ぜてやるわ。女の辛さを思い知らせてあげる」


我が子の涙など見えていないのだろう。彼女の目は復讐に囚われていた。


強制的に引き起こされる快楽に、ホルスは再び意識を無くした。





ホルスが次に目を覚ましたのは、日も傾きかけた頃だった。


「ホルス様」


左目に強く感じた熱に、ホルスは目を覚ました。視界に映ったのは、トトの姿である。


「体の具合は……如何ですか」


「はい、もう……大丈夫です」


目が合うと、トトは真っ先にそう聞いた。覚醒したばかりで思考がまともに働いていないが、自分の治療の為にトトはここにいるのだろうと予想は出来た。その為ホルスも直ぐにそう答える事が出来た。


ホルスは体を起き上がらせ、傷付いた左目にそっと手を当てる。彼の両眼は、元々豊穣の神である父オシリスに良く似た緑の瞳をしていた。が、なんの影響なのか。治療を終えたその左眼は、セトの血のような髪と瞳と同じ紅色に染まっていた。


「セトは……どうしましたか。それに……母さんは」


自分の変化に気付いたのか、気付いていないのか。ホルスは一度目を閉じると手を退け、トトに視線を向けて一番気になっていることを聞く。トトは一瞬答えに戸惑ったが、静かな声で話し始めた。


「イシス様が……策を。結果、彼はデシェレトの地へ逃走しました」


ホルスが眠っている間、イシスは神々の前でセトを追放する理由を作ろうとしていた。


この国のこの時代では男同士の性行為は固く禁じられている。そして裁かれるのは犯された側、とされている。本来ならば裁かれるのはホルスの方なのだが、ホルスの体はイシスによって清められ、そして、絞り取ったその息子の精液を彼女は、セトの食事に混ぜたのである。


そして自分は、神々の前で裁くべきのはどちらかと問うだけだ。体の中に男の精を取り込んだ者が、女側という事になる訳である。


事実は異なれど、裁かれる側となったのはセトの方であった。当然、セトは激怒。神々の審議の場で己を獣の姿に変え、酷く暴れたのだという。審議どころではなくなったその場は騒然となり、この出来事にラーはやむ無くセトを王家から追放した。神聖な場を荒らした代償は大きいのだ。


これで王の座は、正式にホルスのものになった。ということになる。


「人間達の間でも、既にセト様は悪神として認知されています。そしてホルス様、貴方は善神として。今回の件でラー様もそれを認めています」


「……僕が。王になるのですね……」


「……はい」


余りにも静かな決着だった。


あれほど奪い返そうとしていたものが、あっさりと手に入った。喜ぶべき事なのだろうが、今のホルスに、そんな事を思う余裕も、気力も、存在しない。だが、確かな変化があった。ホルスはじっとトトの目を見つめると――不意にフッ、と笑って言った。


「不安ですか?」


その言葉に、トトはびくりと体を震わせた。


「い……いいえ」


「ふふ……いいんですよ。無理なさらずとも、わかって、いますから」


「やはり……」


その何処か悲しげなホルスの微笑みに、トトは確信した。己の治療によって、この子供に与えた影響を。


太陽の力を持つハトホル、月の力を持つトトの治癒は、ホルスに大きな影響を与えた。太陽と月は地上を見下ろすもの。この二つの力を同時に持つということは、地上を、天空を支配したのも当然なのである。


それと同時に身に付いたのは“監視”の能力。人々の正義と悪を見定める為の、真実を見抜く力。


簡単に言ってしまえば、ホルスは“嘘”がわかるようになったのだ。真実の眼の力によって。言葉と態度に矛盾があれば、それが眼に映るのだ。


「申し訳ありません、ホルス様。辛い思いばかりさせて……」


トトにはわかっていたのだろう。自分の治癒で、後遺症ともいえる現象が起きてしまうことを。


「いいえ。僕には、必要な力だったんです。きっと」


ホルスは全て受け入れている様子で、小さく頷いた。この力を手に入れて、強く思うのは。自分の敵対者と真正面から向かい合いたい。そんな思いだった。


デシェレトの地。


渇いた砂漠、荒れた大地。そこに住むのも墓荒らしや盗賊といった犯罪者ばかり。彼の想い人は、そこにいるという。


「……セトは生きているのですね」


「………」


「……殺さなくては」


ホルスは暗い眼をしながら呟いた。


その眼に光など無い。


そう、まだ終幕ではない。


王の敵となった悪神は、野放しにすれば国に災いをもたらすだけの存在になる。彼を冥界に送り込むまでは。父の仇を取るまでは。終わらない。


「……ホルス様……貴方には酷な力かも知れません。ですが、貴方が王となるにはこの力が必要でしょう」


「……はい」


のちに、ホルスのその眼は


《ウジャトの眼》


真実(マアト)を映す眼だと呼ばれるようになる――





太陽の船を襲う大蛇、アポピスもかつては太陽だったのだという。太陽の座をラーに奪われ、その憎しみから毎日船を襲うようになったのだと。彼は何度殺されても、その翌日には生き返った。毎日繰り返される、襲撃と殺戮。不死の、蛇。


悪神は、この世に負の感情がある限り存在し続ける。それは、セトも同じ。


デシェレトの地の砂は、赤い。豊穣の土地であるケメトとは違い、デシェレトの地は草木の育つような土地ではない。『死者の国』とも呼ばれ、墓場なども多く作られていた。


その地に吹き荒れる、熱風。


優しいものではない。殆ど嵐だった。赤い砂が宙を舞い、視界を奪う。普通の人間ならばそこに立っていられないだろう。


その風を起こす神は、この地と同じ、赤を司る、悪神――。


「……」


その横顔は、いつもの笑みを浮かべていた。背後に気配を感じていた。それ故の、笑みだった。


「セト……」


「……久し振りですね、ホルス」


この二神が別れてから、長い月日が流れていた。


『追跡者』と『逃亡者』として。


セトは長い紅髪を風に揺らしながらホルスへと振り向いた。今のホルスの眼は、月と太陽の力を得ている。


“真実”を映す眼。

それは偽りを見抜く力を持つ。


ホルスは無言でセトを見つめる。睨むような目付きで。が、不意にズキリ、と眼の奥が痛み、顔をしかめた。


「……厄介な力を手に入れたようですね」


セトはホルスの両目を見つめると、その能力を察して肩を竦めた。ホルスはその場を動かず、ただセトの顔を睨んでいた。右手には剣の柄を握り締めて。


「……綺麗な色だ」


ホルスの眼を見つめながら、セトは相変わらず綺麗な笑みを浮かべる。ホルスには、それが、歪んで見えた。笑みの裏側の表情が、真実の眼の中に入り込んでくる。


「…また抉りとりたいと思っているんじゃありませんか?」


確信を持った口調で、ホルスは静かに呟いた。その言葉に、セトは一瞬眼を丸くさせながらも、直ぐに肩を揺らして笑った。


「フフッ……バレていましたか」


「……」


「本当に……厄介な力だ」


セトの笑みが消えていく。


やり取りの中、体を全く動かさなかったホルスが、左足を半歩、後ろに下がらせた。


そして――


剣撃。


「……っ」


ホルスの降り下ろした刃が、セトの手に掴まれる。以前にもあった光景だった。だが、今回は違った。ホルスは素早く左手を懐に伸ばすと、小剣をセトの肩に目掛けて降り下ろす。


「!」


セトの眼が驚愕の色に染まる。判断が一瞬遅れ、手を刃から離す前に、小剣が肩に突き刺さり血が吹き出る。


「……成長したようですね」


そう呟きながら距離を取り、セトは負傷した肩を手で抑える。笑みはなかった。


「私を殺せますか、ホルス」


「……」


ホルスはセトの問い掛けには答えなかった。

剣の柄を握るその指先は、震えていた。


「僕に殺される事を望んでいるのでしょう?」


「……」


そして静かに、そう問い掛けた。

セトは何も言わない。

笑みもない。


しかしホルスには視えていた。


彼の、笑みの中の、表情が。

泣いているわけでもなければ、無表情なわけでもない。

“顔”で表現出来るものでは無い。それほどまでに入り雑じった、重たい、負の感情。


長く見ていられなかった。だが、ホルスはセトから眼をそらさなかった。


それが、彼の宿命だった。


対立者として、ホルスの眼である月と太陽であるように、


その存在を否定するわけにはいかなかった。



「…さよなら叔父上」



ホルスは、凛とした声でその言葉を放つと、駆け出した。


抵抗はなかった。


寧ろ、受け入れるかのように。


セトの胸に、剣が、深々と突き刺さる――


「………」


確実に刃は心臓を捉えた。


セトの表情は変わらず、


言葉も呻きもなく、


苦痛を感じているのかどうかわからない、そんな状態で、


ホルスの頭が撫でられた。


以前と同じ、優しげな手付きで。


ホルスは体が震えるのを感じながらも、セトを見上げる。



「ホルス、愛していますよ」



いつもの口調だった。

いつもの優しげな微笑みだった。


その事実に、

ホルスの眼が見開かれる。


「…ぁ……」


顔が歪み、

嗚咽のような声が漏れる。


「な…んで……なんで…どうして…」


涙声だった。


信じられなかった。


体の震えが、止まらない。


「……言ったでしょう、ホルス」


セトは、微笑みを絶やさずに、言い放つ。







「私の本音は嘘より残酷だと」



その言葉を最後に、

悪神はこの土地と同じ赤い砂となり消えていく。

セトの体に突き刺さった剣が、砂地に落ちた。


悪神は不死だ。

常に善に危険をもたらし、試練を与える存在だ。人間達が裏切りや不幸を忘れぬ限り、何度でも蘇る。


「ぁ……あ、ぁ…」


そして、


善神の務めは、その悪を何度でも、悪が蘇る限り、悪を滅さなくてはならない。


「…ぃ…やだ……セト、嫌だ、僕だって、僕だって貴方のこと、」


神は宿命には逆らえない。

世界の秩序を崩す事など、出来なかった。

それが彼等の存在意義なのだから。







「……だいすきです、おじうえ」



ホルスの小さな呟きが、赤い砂の地に消えていった。


彼はこれから、赤砂を背負い、生きていく。


悪神が、叔父が復活するその時まで。



神々の王としてこの地に君臨する――。












静かに、


物語は終幕を迎える。


彼等の真実を、ここに記す。


いつか訪れる追憶の日の為に。

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陰陽の追憶 @Tsurugi_kn

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