ハーフェズの主と領地の麗しき女の関係
翌日アルダヴァーンは、成人男性八人で担ぐ天蓋付きの輿に乗り、王から大将軍に与えられている王宮の一角へと赴いた。
許可を取ることなく大将軍の部屋へと入り、上座に輿を降ろさせる。
随行していた側近が、輿を担いでいた八名に退出を促した。
「ご命令通りに先触れを出しませんでしたが……大将軍は城壁の破損具合の視察中ですので、戻ってくるのには相当時間がかかるようですが」
「問題ない、パルヴィズ。なにせわたしの真の目的は、いまここに息を切らせてやってくる大将軍の部下だからな」
神の意匠が全てに描かれた輿の中にいる、やや垂れ目にも関わらず、その眼光の鋭さから、全く柔らかさを感じることがないアルダヴァーンの言葉に、パルヴィスはため息を飲み込む。
「は? ……何時ものことではございますが、アルダヴァーン公のお考えは分かりませぬ」
乳兄弟として最側近として三十年近い付き合いながら、彼の行動を読むことはほとんど不可能であった。
「失礼いたします」
扉の向こう側から、早馬で大将軍に帰城するよう伝えたことを告げる声が聞こえた。
「パルヴィズ」
発言者の名を聞けということは分かったので、パルヴィスが問いただすと、
「申し遅れました。わたくしめは国王より中将軍の地位を賜っております、バスラのバーミーンと申します」
大将軍直属の部下が名乗る。
目を閉じているアルダヴァーンが満足げに頷いたので、パルヴィズはバーミーンに入室するよう指示を出した。
「公柱の御座す部屋に入るなど、わたくしめのような下民には恐れ多いこと」
「神命である」
アルダヴァーン直々の命と告げられたバーミーンは、部屋の外に控えているアルダヴァーンの部下の一人に、腰に下げていた剣を渡して入室する。
扉を越えて直ぐのところで平伏し、絨毯に額を押しつけた。
アルダヴァーンが「もう少し近づくよう言いなさい」と手で合図を送り、パルヴィズが声に出して命じる。
バーミーンは歩いて近づくような失礼な真似はせず、平伏したまますり寄る。「止まれ」と命じられる所まで進み ――
「顔を上げなさい、バーミーン」
パルヴィスの言葉に従い顔を上げたバーミーンは、自分がアルダヴァーンのとても近くにいることに驚いたが、表情には出さなかった。
アルダヴァーンがゆっくりと目蓋を開き、彼に確証を持って問いただす。
「バスラのバーミーン。御主、メルカルトの娘ラズワルドの父親だな」
今度はパルヴィズが驚いたものの、彼も驚きの表情を隠しきった。
「御意にござります」
できる事ならば生涯隠し通したかった秘密を、突然暴露されたバーミーンだが、神の子相手に誤魔化すことはしなかった。
「母親はエリドゥの国主の娘、シェヘラザードで間違いないな」
「御意にござります」
顔は青ざめ、脂汗なのか冷や汗なのか、傍から見ているパルヴィズには分からないが、バーミーンが死を覚悟していることだけは理解できた。
エリドゥとはバスラ地方の中にあった古代より続く都市国家で、約十年ほど前にペルセア王国によって滅ぼされている。
滅ぼした国の財産は全て王家のもので、女は当然財産に入る。
国主の娘ならば奴隷として
そんな王の財産を、バーミーンという男はかすめ取ったということになる。
「全てを語れとは言わぬが、大まかなところは教えてもらおう。後々ラズワルドが実の両親のことを知りたいと願った時に答えてやりたいのでな」
「御心のままに」
命じられたバーミーンは平伏し、できる限り客観的に彼とラズワルドの母親について語った ―― 都市国家エリドゥは周囲をペルセア王国に囲まれており、城壁を出ると直ぐに異国という状態だったが、両国の国民の仲は良好で、地方貴族のバーミーンとエリドゥ国主の娘シェヘラザードは幼馴染みであった。
十歳になった頃、バーミーンは故郷を離れて武人として仕官する。それから十年以上過ぎ、エリドゥ侵攻部隊の一員となり、幼馴染みの国を滅ぼした。
その際にシェヘラザードを連れて逃げ、王都の邸で夫婦として暮らしていた。そして子を身籠もり、生まれてきたのがラズワルドで、シェヘラザードは産褥熱でこの世を去った。
「ペルセア王家に対する忠誠ご苦労」
「勿体ない御言葉」
バーミーンはペルセアの多くの民と同じく、神の子に対して嘘を付くなどできない男。故に父親としてラズワルドを神殿に預けた後、母親のことを聞かれたら、母親にまつわる戦の話なども包み隠さずに語る。
その結果、ラズワルドがペルセア王家に対して疑念をいだき、王家と距離を置いたとしたら ――
「ラズワルドが我々のような普通の神の子ならば、御主も苦労はしなかったであろうにな」
「やはりラズワルド公柱は」
信心深いバーミーンは、ラズワルドのメルカルト文様が、二等辺三角形状に鼻梁を覆っているのを見て、これから五十年ちかく神の子が生まれぬこと理解する。
「御主が思っている通りだ。わたしも遠き未来は見通せぬが、ラズワルド以降、ペルセア国内で神の子が生まれる気配はない。サマルカンドのフラーテスからの
神の子がラズワルド一人きりになったとき、ペルセア王家に対して負の感情を持ったとしたら ―― バーミーンは自分がラズワルドに対して語る位置にいなければ、ラズワルドはアルダヴァーンの元「神の子」として育ち、一人きりになったときも王家のほうを見てくれるであろうと考えた。
「バーミーン、一つ訂正しておくが、御主が父親で、母親の故国を滅ぼしたのがペルセア王国であり、総指揮官が王子エスファンデルであったと聞いたところで、ラズワルドはペルセア王家に対して何も思わぬ。人の世の理、枠組み、柵など、わたしたちにとって関係はない。特にラズワルドはほとんどが神だ。あれに人が抱える負、邪、魔など分かるはずもない」
「卑しい策を弄したことをお許し下さい」
バーミーンもそうではないかと思ってはいたのだが、彼はその可能性を信じることは出来なかった。それは彼が人だからに他ならない ―― 彼の心は曇りなく王家に忠誠とはいかない。彼の心で唯一迷うことなく信じられるのは、故郷を出る時に見送りにきてくれた
「そうか。今聞いたことは、ラズワルドに問われぬ限り答えはせぬので、安心するがいい。わたしの身になにかあった場合のことを考えて、神の子数名には伝えるが、決して口外せぬから安心せよ」
「御心のままに」
その後、大将軍が到着し遅くなったことを詫びる。
アルダヴァーンは昨日ファリドとシアーマクが希望していた通り、サータヴァーハナの情勢に詳しい者を寄越すよう命じた。
「それと、大将軍。バーミーンという男、見込みがある。四年後の崩御に向けて、育ておくがよい」
王家の秘密について触れさせよと指示を出した。
「御意にござります」
この時室内にいた四人のうち、意味が分からなかったのはバーミーンのみ。
アルダヴァーンの側近であるパルヴィズも、王家の秘密について知っていた。そのパルヴィスは扉を開けて手を叩く。輿を運ぶ男たちが入室し、跪拝してから輿を持ち上げ、王宮を後にした。
真神殿に戻ったパルヴィスは、いつアルダヴァーンがラズワルドの実父のことを知ったのか気になり尋ねた。
「誰に調べさせたのですか?」
パルヴィズはアルダヴァーンの一番の部下であり、重要なことは最側近である自分に命じてくれるという自負があった。それなのに知らぬところで、ラズワルドの父親を調査していたというのは、彼にとって非常に不満であった。
「お前は本当にファリドのジャバードに似ているな」
同じことをしたら、きっとジャバードも同じ態度を取るだろうとアルダヴァーンが笑う。
「あの
「色欲小僧ねえ。わたしからしたら、可愛いものですが」
「あれが可愛いですか……神とは怖ろしい」
「話が逸れたな。ラズワルドの父親のことだが、誰に調べさせたわけではない。わたしは知っていただけだ」
「は……」
「調査を命じるならば、お前に命じる。お前に調査を命じていないということは、調査はしていない。理解できたか? パルヴィズ」
「はい」
「エリドゥ攻略にはわたしも同行した」
「わたしもご一緒いたしました」
神の子は国外に出ることは叶わないが、国内であれば戦争に同行したいと希望すれば、軍を率いて同行することが可能である。
エリドゥはペルセア王国の中にぽつんと位置していた都市国家ゆえ、アルダヴァーンは同行することができた。
「あの進軍に同行したのは、
「予知夢を見られていたのですか……あの時、あの場に布陣して、近隣の捜索もあまり厳しく行わぬよう命じられたのは、逃がしてやるためでしたか」
アルダヴァーンの部隊が陣取っていた場所は、前線より離れた場所で ―― 国軍としては神の子を危険に晒したくはないので、アルダヴァーンが危険とは縁遠い場所にいてくれるのはありがたいと、周りを警戒したが近づくことはなかった。
「ああ。だがその結果、なにが起こるのかまでは分からなかった。それ以降、その二人のことを視ることもなかったのでな。先日
「あ……それでしたら、他者は気付かないでしょう」
ラズワルドのメルカルト文様は、顔の半分を覆い隠しているため、普通の人間はラズワルドの顔を認識することができない。
だが神の子たちは人間とは見え方が違うため、ラズワルドの顔がはっきりと分かるのだ。
「メルカルト文様が大きすぎて分からないのだったな」
「なにより、公柱の御尊顔を拝見するなど」
「ラズワルドと
「それ以上仰らないで下さいアルダヴァーン公。人の身には不敬極まりありませぬ」
「そうか。それでラズワルドの父親ならば、王家の暗部に携わらせても良かろうと考えて声を掛けた」
「そうで御座いましたか」
「まあ精々苦しんで生きるがよい。それが
「何故苦しみを?」
「
「……本当に神の子にとっては、どうでもいいことなのですがね」
「そうだ。だが
そうは言ったアルダヴァーンだが、彼も神の子ゆえ、本質的なことは分からなかった。
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