第127話 時間稼ぎ

 クリスは本を開く。


 禍々しい雰囲気がその場に立ち込める。それは、まさに魔本と呼べるものだった。


「おい冒険者女! 大丈夫なのかこれ!?」

「大丈夫じゃないでしょどう考えても! まずい……あの本まさか……!」


 クリスはニヤリと笑う。


「これは、”黒い霧”を封印していたアーティファクトの魔本……。ここ数カ月の間でかなりの魔力が溜まっているわ。あの子をここに呼び出し、霧であなたたちの魔力を吸い上げてあげる」

「させないわよ……っ!」


 クラリスは必死に腕を動かし、縄の拘束から抜け出そうとする。


 しかし、拘束が強く抜け出せない。


 炎魔術を使うが、一向に燃える気配はない。


「なんで!?」

「ふふ、その拘束は特別性でね。魔術として機能しているの。簡易結界のようなものね。そう簡単に抜け出せないわよ」

「俺のパワーでも無理だ、くそっ……!!」


 足掻くクラリスたちをみながら、クリスは楽しそうに笑みを浮かべる。


「ふふ、ねえ、黒い霧の捕食方法を知ってる?」

「知るわけねえ」

「素直ね。霧はね、体中の穴という穴から体内へと入り込み、細胞へと浸透していくの。組織を破壊し、内部から強制的に魔力を吸い上げる」

「……!」

「この魔本があれば、好きなように黒い霧を操れる。凄いでしょう?」

「凄いのはその魔本の開発者だろ、まぬけ」

「ふふ、威勢がいいわね。まだまだ元気そう」


 クリスは説明したがる。おそらくそこに付け入る隙がある。


 ここで時間を稼げば、きっとヴァン様が来てくれると、クラリスは信じて疑わなかった。


 瞬間移動とはいえ所詮は魔術。ヴァンがこの特異な魔力反応を見逃すわけがない。


「黒い霧……そういうことだったのね。けど、じゃあなんでこの森にとどまっているの? ヴェールの森を抜ければ、餌なんていくらでもいるじゃない」

「賢いわね」


 クリスは視線をクラリスに向ける。


「いいわ、答えてあげる。ヴェールの森は高い木に囲まれているでしょ? 黒い霧の幼体は日光にあまり強くないの。それに、この森はいわゆる聖域。太古からの空気を残した神聖な土地なの」


 古い伝承の残る土地はそう言うところが多い。神秘的な場所ほど、魔力は澄んでいたりする。


「幼体のまま黒い霧が外に出てしまうと、外郭を保てなくなる可能性が高い訳。だから森の中で獲物を狩ることにしたの。けど、大変だったわ。初めは入れ食いだったのに、すぐ警戒されて森に入る人は少なくなった。さすがは冒険者協会という感じかしら。だから仕方なく、私が少しずつ街の人間を拉致して連れてきていたの。黒い霧から逃げる姿を眺めるのはなかなか面白かったわ」

「俺がいえた立場じゃないが、てめえはとんだ下種野郎だぜ。人の命をなんだと思ってやがる」


 クリスはふんとそれを鼻で笑う。


「私たちをあなたたちみたいな時間間隔の短い猿と一緒にしないでくれる? 人は放っておいても増える。そういうものよ。だったら、私のために魔力をささげるのが光栄というものでしょう?」

「そんなの間違ってる! 誰かのために何かをささげるなんて、そんなの望んでる人いないわ!」

「望む望まないに関わらず、私はしたいようにする。嫌なら抵抗して止めてみなさい」


 いいながら、クリスはクラリスの顔面を蹴り飛ばす。


「グ……ッ!」

「悲鳴を上げないのはさすがね。蹴られ慣れてるのかしら?」


 クラリスの口の中が切れ、ツーっと血が口の端から垂れる。


 クリスはクラリスの髪を掴むと、持ち上げる。


「可愛らしい顔に傷をつけちゃったわね、ごめんなさい。綺麗にしてあげるからね」


 そう言ってクリスはクラリスの顔に唾を吹きかけると、持っていたハンカチで顔を拭く。


「多少は綺麗になったかしら。ふふ、無様だけど泥まみれよりはいいでしょ?」

「随分と……感情の起伏が激しいわね……!」

「言ったでしょ。私はしたいようにするの」


 クリスはにやりと笑い、魔本を開く。


「おしゃべりはおしまい。誰か来るのを待ってたのかもしれないけれど、残念それは叶わないわよ。だって、既にこの小屋の半径1kmには私のダミーに加え、私を信奉する複数の魔術師を配置しているわ。あなたたちの魔力を吸収し、彼らもまとめて黒い霧に捧げたら、私の勝ち。成体になる直前の魔力に満ちた黒い霧をもって、この世界に終焉を告げる魔の神を顕現させるわ!」


 そういって、クリスは手を天にかざす。

 そして、呼ぶ。


「来なさい、”黒い霧”! 私腹を肥やす時間よ!」


 瞬間、森の奥からまるで夜が襲ってくるかのように、黒いそれは目の前の景色を塗りつぶしていく。


 クラリスの毛が逆立ち、全身が警戒音を鳴らす。


(これが、”黒い霧”……!)


「ヴァオオオオオオオオオ!!!!」

「「!」」


 地鳴りのような叫び声。

 産声を上げるかのようなその声は、鼓膜を震わせ、心臓の鼓動を早める。


「さようなら、お二人とも。良い暇つぶしだったわ。私も後から行くから、先にあの世で待っててね?」

「うおおおおおおおあああああ!!!」


 ファルバートは顔を真っ赤にし、血管がちぎれそうになるほど力を入れて拘束をちぎろうとするが、それでもびくともしない。


「むだむだ。疲れるだけよ?」


 黒い霧はものすごいスピードで迫り、あっという間に金髪の魔女を通り越す。


 黒い霧は魔本を持つクリスを避け、空間を塗りつぶすように滑らかに移動すると、そのまま眼前に広がる。


 目の前には、黒い霧のカーテンが幕を下ろす。

 もう、逃げ場などない。


(だめ、間に合わない……ヴァン様が来るまでの時間を稼げなかった……!)


「ヴァン様……」


(こんなことなら、ヴァン様にもっと早くノアなのかどうか聞いておくんだったかしら……)


 クラリスは死を受け入れ、静かに目を瞑る。


(ごめんなさい、私が弱いばっかりに、この魔女の計画を進めてしまう……。後悔しても遅いけど……お願い、ヴァン様。勝手だけど、なんとしても、この女を……この世界を――)


「あはははははは!!!」


 クラリスを覆うように、黒い霧が闇を広げる。


 黒い霧は、まるでクラリスを水中に沈めるかのように飲み込む。


 ――その刹那。


 一瞬開いたクラリスの視界に、闇を切り裂く黒より黒い漆黒の閃光が横切る。


「――”黒雷”」

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