第32話 聖銀の大狼


 

 

「母さま、寒い。お腹すいたよぅ」


 まだ十歳にも満たない男の子がスカイブルーの瞳を潤ませ、馬車の中の母親の膝の上に乗った。

 痩せた母の身体に手を伸ばすと、母親はその小さな身体を抱きしめる。


「もう少しよ、レフィ。我慢なさい」


 白いものが混じり始めた栗色の髪を襟足で無造作にまとめた母親は、男の子の毛皮に裏打ちされた外套を巻き付け直してやった。


「レフィ、これをあげるわ」


 男の子よりも年上の娘が、ポケットから紙に包まれたキャンディを取り出した。


「いいの?」

 

 母は娘が最後のキャンディを食べずに、大事に取って置いたのを知っていた。

 父譲りの金緑褐色ヘーゼルの瞳を見ると、コクリと頷いた。



 馬車の小さな窓から見える風景は、辺境の針葉樹の森。

 折しも曇天の鈍色の空から、チラチラと粉雪が舞い始めていた。


 辺境の森の中の街道を走る馬車を、御しているのはモーゼス・コーレイン。

 コーレイン家の三男で、従騎士になったばかりの若者だ。

 内乱による戦火に巻き込まれた領地から、父シェルトの命で辺境の村に疎開していた母子たち。

 しかし、その村にもついに争いの飛び火が移ってしまい、ほとんど着の身着のままで逃げ出して来たのだった。


 ――俺が、母さまと姉さまたちを守らなければ! 日が暮れる前に、なんとか人里にたどり着きたい……。


 初冬のこの季節に、母や姉たちに馬車の中で一夜を過ごさせるのは酷に思えた。

 それに、内乱のせいで農民たちが田畑を失い、盗賊になる者もいて治安も悪い。

 おまけに飢えた獣や魔物も出るかもしれない。


 今のムーレンハルト王国は、王位継承を争う王子たちにそれぞれ有力な貴族が権力を求めて加勢したため、千々に乱れていた。

 貴族に仕える騎士たちは主君に従い、他家の騎士とあちこちで戦いを繰り広げている。


 コーレイン家も例外ではなく、父シェルトは長男たちと共に、今も戦火の只中で戦っているのだ。



 突然、前方の森の中から、わらわらと盗賊たちが現れた。


 二頭の馬がおびえていななき、足を止める。


「何事ですか!」


 馬車の窓から、アリアネがモーゼスに問いかける。


「盗賊です! 中から出ないで。レフィ、母さまを頼む!」


 モーゼスが長剣を抜いて、御者席からひらりと飛び降りる。


 ――レフィはまだ子供だが、貴種の男だ。

 魔力を持たない平民から母と姉を守るくらいはできるはずだ。


「農民上がりの盗賊が、貴種に敵うものか!」


 ヒュン、ヒュンと、射かけられる弓矢を剣で切り裂き、叩き落しながら突進する。


 魔力を身体に巡らせ肉体強化スキルを発動すれば、まだあどけなさの残る若者は鬼神のごとく剣を振るい、山賊たちを討ち取っていく。


 切り結んだ山賊たちが倒れると、残りの者たちは悲鳴を上げてあわてて逃走する。


 モーゼスは深追いすることなく戻ろうとすると、別の盗賊の一群が母たちのいる馬車を襲っていた。


「しまった! 囮だったかっ」



 騎士になるべく訓練されてなくとも、アリアネも貴種の端くれ。

 子供たちを守ろうと、馬車の中で短剣を固く握りしめた。


 レフィもタガーナイフを持ち、魔力を持たない姉の前に立った。


 アリアネたちの馬車を取り囲んだのは、人相の悪いガタイの大きな男たちで傭兵崩れの盗賊だった。

 ヒュウッと短く口笛を吹き、獲物を見定める。


「へぇ、貴種のお貴族様かぁ。こりゃあ、上玉だね。お頭も貴種なんだ。抵抗しない方がいいぜ」


 眼帯をした碧眼の男がニヤニヤしながら、後ろにいる男を指さす。

 頬に傷のある目つきの鋭い男からは、強い魔力の発露を感じた。


「金品はお渡しします。ですから、私たちのことは見逃してください」


 首飾りと指輪を外し盗賊たちに差し出すが、その手を掴まれ馬車の外に引きずり降ろされる。


「キャアァァ」

「母さまっ」


「カン違いすんな! お前らに交渉の余地なんてねえんだ。今まで平民から散々搾り取って、いい思いをしてきやがって。お前たちお貴族様が気に入らねぇんだよっ!」


「おかしらは平民出身の貴種だからよぉ。貴族が嫌いなんだ。貴種の子供は高く売れる。悪く思わないでくれよ」



「母さまを放せっ!」


 アリアネたち三人が取り押さえられているところに、モーゼスが飛び込んできた。


 長剣を一閃させるも、盗賊のかしら幅広の剣ブロードソードに叩き落される。


「お坊ちゃまの上品な剣筋なんぞ、ぬるくて虫が止まっちまうぞ?」


「兄さまっ」


 レフィが盗賊を振り払って、モーゼスを助けようと走り出す。


「レフィ、来るな!」


 盗賊の頭の強烈なまわし蹴りが、レフィの腹部に叩きこまれた。


 小さな身体は胃液を吐きながら吹き飛ばされ、地面に叩きつけられると動かなくなった。


「いやぁああああああっ、レフィィィィっ」


 姉娘が叫ぶと「うるさい、黙れ!」と盗賊が娘の頬を叩いた。


 モーゼスは予備の短剣を抜き、盗賊の頭に向かっていく。

 しかし、数多の戦場を生き抜いてきた百戦錬磨の傭兵にとって、実戦経験のない見習い騎士など赤子の手を捻るようだった。

 すぐに短剣も取り上げられ、弄り殺しにするかのように、一方的に蹂躙されていく。

 ついに力尽きて、膝をつくモーゼス。


 ――このまま盗賊どもに、俺たちはみな殺しにされてしまうのか……。


 母子の心が、絶望と諦めに侵食された時――。



 ウォォォォォォォン、ォォォォォオオオオン!



 大地を揺るがし、身の毛がよだつような遠吠えが聞こえてきた!



 ダン、ダン、ダン!



 地響きと共に跳躍し、空から降って来るようにして現れたのは、納屋ほどもある大きさの、蒼銀の大狼フェンリル

 アイスブルーの瞳に、蒼味を帯びた銀色の毛が仄かに輝いている。


「うわぁぁあああ、魔物モンスターだぁっ! 逃げろぉおおお」


 蜘蛛の子を散らすように、盗賊たちが逃げ出した。

 馬車につながれた馬たちも、恐慌状態になり、走り出してしまう。


 盗賊の頭は本能的な勘から、これは戦ってはならない相手だと悟った。

 ジリジリと後ずさりして、逃げるチャンスを狙う。

 魔力なしの娘の手を掴むと、蒼銀の大狼フェンリルに向かって突き飛ばし、その隙に逃げようと走り出した。


 蒼銀の大狼フェンリルはうなり声をあげて、盗賊の頭に襲い掛かりその身体を引きちぎった。


 アリアネたちは金縛りにあったように、動けずその場に立ち尽くしている。

 しかし、蒼銀の大狼フェンリルが倒れているレフィの方へ歩き出すと、アリアネは呪縛が解けたように悲鳴を上げた。

 そうしてレフィを庇うように、その身体の上に身を投げ出す。


 モーゼスも足を引きずりながら母の元へと急ぎ、長剣を拾うと蒼銀の大狼フェンリルに向かって構えた。


「く、来るな!」


 蒼銀の大狼フェンリルは困ったように首を傾げ、クゥーンと鳴いた。

 その場で体を伏せると、ピンク色の長い舌を出し、ハッハッと息をつき飼い犬のように待てのポーズを取っている。


「母さま、モーゼス。この獣は魔物じゃないわ。目が赤くないし、私たちを襲う気もないみたい。むしろ、私たちを盗賊から助けてくれたんじゃないかしら」


 姉娘の言葉に、母と息子は顔を見合わせた。

 

「まさか、そんな都合のいいことがあるわけ……」



 ダダン、ダダン、ダダダダン!


 さらに大きな地響きがして、森の木々を押し倒しながら新手の蒼銀の大狼フェンリルが現れた。

 最初の蒼銀の大狼フェンリルよりも二回りほど大きい。


「ひぃっ」


 伏せていた蒼銀の大狼フェンリルが立ち上がると、その傍にもう一体が寄り添い、アリアネたちを振り返る。

 後から来た蒼銀の大狼フェンリルが頭を空に向かって上げ、一声吠えると蒼い閃光が蒼銀の大狼フェンリルから迸った。


 眩しさに目が眩む。

 モーゼスは無意識に腕で目を庇い、光が治まってから恐る恐る目を開いた。


 すると二体居た蒼銀の大狼フェンリルが一体になり、その代わりに蒼銀の大狼フェンリルの足元には、蒼銀のショートカットヘアにアイスブルーの瞳の少年が立っていた。


 少年は滑らかな銀色のジェストコートに蒼銀の毛皮のマントを羽織っている。

 その顔はこの世のものならぬ完璧な左右対称の造形美で、レフィとさほど変わらぬ年頃に見えた。

 アリアネはこの少年を、どこかで見たような気がしてならなかった。


「あ、あ……あなたたちは」


「驚かせてごめんなさい。僕はナルヴィ、これは弟のヴァーリです」


 ナルヴィが自己紹介すると、ヴァーリは大きな鼻ずらを少年に擦りつけた。


「ヴァーリはまだ小さいから、一日の内に何度も変身出来ないんだ。……あーあ。ヴァーリの口、あの人間の血で真っ赤じゃないか。この人たちにドン引きされているよ」


 クゥーン、と情けなさそうな声でヴァーリが鳴く。

 軽くヴァーリの鼻をたたくと、ナルヴィはアリアネたちに向き直った。


「フェリシア王妃に頼まれて、お迎えに来ました。西の国の国境まで僕たちが案内します」


「フェリシアさまが!」


 アリアネたちは、西の国に嫁いだフェリシアに付き従った騎士のつてを頼って、亡命しようとしていたのだ。


「でも馬車が……」


 先ほどの蒼銀の大狼フェンリルの騒動に、馬が驚いて馬車と共に走り去ってしまった。



「ヴァーリの背に乗ってください。あ、待って。その男の子は大丈夫ですか」


 ぐったりと倒れているレフィを、アリアネは揺り起こそうとした。


「僕に見せて。――蘇生魔法リジェネ!」


 少年が手をかざすと、レフィの身体が青白く光り、気絶から目を覚ました。


「母さま……」


「レフィ!」



 しんしんと雪が本格的に降り出していた。辺りは薄暗く夜の帳が訪れようとしている。


 ナルヴィは空を見上げてから、アリアネたちに顔を向けた。


「フェリシア王妃の騎士たちが、国境の砦であなた方を待っています。急ぎましょう」


 ヴァーリが体を低くして屈むと、ナルヴィがその背に乗り「さあ」と促した。


 アリアネはモーゼスと目を合わし、頷くと意を決して蒼銀の大狼フェンリルの背に乗った。


 蒼銀の大狼フェンリルの背中は、固い毛の下にふわふわした毛が生えている。

 彼らがその毛にしっかりと捕まると、蒼銀の大狼フェンリルは静かに走り出した。


 魔法で風よけの透明な球体の壁をナルヴィが作り出したので、落ちる心配もなく蒼銀の大狼フェンリルに乗っていられた。


 時折、ナルヴィが蒼銀の大狼フェンリルに「揺らさないように静かに走って」と声をかけている。

 馬車では考えられないほどの速さで、街道を疾走していき、日がとっぷりと暮れるころ、辺境の砦に到着した。



「では、僕たちはこれで」


 砦の前で親子を降ろすと、少年と蒼銀の大狼フェンリルは踵を返し、立去ろうとする。


 アリアネは「待って!」と小さく叫んだ。


「あなたたちの、ご両親の名前は――?」


「父神はロキ、母神はエステルです。さようなら、みなさん。……分かったよ、ヴァーリ。お腹すいたね。早く帰ろう。遅くなっちゃったから、母さんたちがきっと心配して待ってる」


「あの、ありがとう!」


 姉娘が礼を言うと、ナルヴィは少し微笑んだ。


 降りしきる雪の中、少年を乗せた蒼銀の大狼フェンリルは跳躍する。

 アリアネたちが乗っていた時とは比べようもない速度で駆け出し、あっという間に姿が見えなくなった。


「うう、寒い。早く中に入れてもらおう」


 彼らを呆然と見送っていたモーゼスが、我に返って母親を促した。

 アリアネは、少年たちが消え去った夜の暗闇をじっと見つめている。


「……母さま、泣いているの? どこか痛いの?」


 繋いだ手に、ポタポタと涙が落ちてきて、レフィは母親を見上げた。


「――ううん。なんでもないわ。さあ、行きましょう」



 親子は寄り添うように歩き、砦の門の門兵に声をかけると、少ししてから中へ迎えられた。



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