第5話 兄と妹

 


 長椅子に座るエステルに、レオの顔が近づく。エステルが、魔力を渡すための口づけをするために。


 合わせた唇から、レオへと魔力が流れて行く。レオは少し顔を傾けて、より深くエステルを貪るように口腔内を吸った。


「あ、待って……レオ」


 レオがエステルを抱き寄せ、ぴったりと身体が密着している。


 なんだか、これではまるで恋人同士のキスみたいだと、エステルは尻込みする。


「朝の魔力供給に、そこまでする必要はない、だろう?」


 エステルはレオを見ないようにして身体を離すと、気になっていたことを口にした。


「レオはその、前の将軍の時も、こういう事をしていた、のか?」


 疑問に思っていたことを口にすると、心臓がトクトクと鳴り始める。


「いや、別に答えたくなければ言わなくていい」


 ――何だろう、このジリジリとした感情は。


「将軍とは、していないよ」


「うそ。だって魔力供給は……」


「将軍のところは、戦争の後だったから魔石がたくさんあってね。それをもらっていた」


「そ、そうか」 


 ほっとしたエステルは、そんな自分に戸惑う。


「じゃあ、つまり口づけじゃなくてもいいってことなんだね」


「そうだね。でも僕は口づけの方が良いよ」


 レオが再び口づけしようと身を乗り出すと、エステルはレオの胸に手を置いて止める。


「もう魔力供給はいいだろう? これ以上は……」


「これ以上は?」


「……」


 朝から変な気分になってしまう、とは言えなくてエステルは口をつぐむ。



 そこへ、トントンとノックがして、執事のヘルブラントがやって来た。


「おはようございます、エステルさま。旦那様より、静かな場所で療養できるようにと、今日より離れに移っていただくことになりました」


 エステルはこの兄を、一度も兄と呼んだことはない。兄もエステルを敬称なしに呼ぶことはない。

 兄妹であっても魔力を持たない平民の兄と貴種のエステルとの身分の差ははっきりしていて、幼いころより慣れ合わぬよう厳しくしつけられて来たのだった。


「離れ? そんなものがこの家にはあったのか」


「はい、敷地の物置小屋を改築して、お嬢さまに使っていただけるよう準備してあります」


「本館はこれから、アリアネさまのご結婚で賑やかになりますから、その方がお嬢さまにとってもよろしいかと」


 兄は使用人に命じてエステルを担架に乗せ、本館から敷地にある離れに連れて行くように命じた。


 ヘルブラントの後から来た乳母のヒルデが、慌てて抗議する。


「そんな急過ぎます。お嬢さまの部屋をお移しするなら、色々と準備もあるのに。せめて荷物をまとめるまで、待ってください!」


「必要なものは、離れに用意してあります。それとヒルデは、エステルさま付きの仕事は今日までとなります」


 担架に乗せられたエステルに、上掛けを掛けていた乳母の手が驚きに止まる。


「なぜ? ――どうかヒルデを、私から取り上げないで欲しい……



 このミズガルズでは、生まれながらに魔力の有無によって身分が決まる。


 主人と使用人。それが今までの兄との関係だった。


 ――でも、これからは?



「エステルさまは、コーレイン家の大切なお嬢さまです。離れにも使用人を用意してあります。乳母は本館勤務となりますが、まったく会えなくなるわけではございませんので、ご心配なきよう。これは当主様の命令です」


 さりげなく兄はエステルに、これからも二人の関係は変わらないのだと言外に伝える。

 病の床にあろうが貴種は貴種、平民とは深い溝がある。



 エステルは病床の日々を、心身ともに支えてくれた乳母と引き離されるとなって、蒼白になった。

 その様子を見て取った乳母は、意を決してヘルブラントに意見した。


「ヘルブラント様、今日まで、とおっしゃいましたね? なら今日いっぱいは、お嬢さまと一緒におります。離れとやらがちゃんとしているのか、良く見ておかなくては」


「ヒルデ、私からお父様に頼んでみる。お前が側に居てくれないと、私は――」


「ええ。わたしとしても、このようなお嬢さまの側を離れるわけには……」




 物置小屋を改築して出来た離れは、豪勢な本館からすれば、随分とみすぼらしく侘しく見えた。


 日当たりのいい一階の部屋のベッドにエステルが寝かされ、本館の使用人が去る。

 小さな離れの家に、エステルはレオと乳母だけになった。


 乳母は水回りのある台所や浴槽、屋根裏部屋、クローゼットと、気の済むまであちこち見て回った。


「一通り生活に必要なものは、揃っているようですね」


 ほっとしたように、ヒルデはエステルに告げた。


「この部屋からは、庭がよく見える……」


 出窓から見える庭の、色とりどりの美しい花々がエステルの心を慰める。


 静かな離れに来たことは悪くないのかも、とエステル達は思い始める。


「そう言えば、この離れは物置に使われる前は、庭番の夫婦が住んでいた家かも知れません。小さな台所や浴槽は年代物みたいですし」


 ここからは表門も見えないし、静かな暮らしが出来そうだった。


「庭の井戸から水を汲んで、お茶を入れましょう」



 庭にあるのは、はね釣瓶の井戸だ。

 はね釣瓶とは、縄をつけてある桶を細木の天秤の一方に下げ、もう一方に石の重しをつけた装置で、てこの原理で軽く水を汲みあげられるように工夫されている。


 水汲みをしながら、乳母は考える。


「離れの使用人は、いつ来るのだろう。お嬢さまの事を色々引継ぎしなければならないのに」


 後ろから乳母の持っていた水桶をひょいとレオが取った。


 ヒルデはぎくりとしてレオを見た。まだ魔道式機械人形アーティファクト・ドールのレオの存在に、慣れていないのだ。


「本館の使用人は、離れに移動したくないのかしら……! 全く、どいつもこいつも。お嬢さまの具合が悪くなったら掌を返して。いくら離れがみすぼらしいからって。

 ――そういえばこの離れにある石焼き風呂、修繕されていてすぐ使えるみたいね」


 風呂は庶民には贅沢品とされているが、この離れには庭木で作ったらしい檜の風呂と、薪も置いてあった。


「お嬢さまはお身体を温めると病状が緩和されるから、レオに用意してもらおうかね」


 

 夕食はヒルデが本館の厨房に行って、離れの二人分を分けてもらった。


 それを乳母が、台所で温め直してからエステルに食べさせる。



 エステルの食事が済んでから、台所でヒルデは食事を取った。


「わたしはともかく、お嬢さまのお食事が野菜の煮込みスープとパンだけなんて。明日、本館に行って文句を言ってやらないと」


 就寝前に、ヒルデはエステルに湯衣を着せ、レオに抱えさせて檜の風呂に浸からせた。


 本館の居室の猫足の小さな陶器で出来た浴槽と違った、檜の香りのするお湯の中でエステルはゆったりと入浴を楽しんだ。


 火魔石で沸かしたお湯は冷めにくく、身体の芯まで温まった。この世界では、井戸から水を汲んで沸かすお風呂は手間暇の掛かる贅沢な嗜好である。



「ヒルデも良かったら、この後お風呂を使ってくれ」


「ええ、お嬢さまの後で使わせていただきます」


 不安そうなエステルに、ヒルデは本館に戻った後も、毎日エステルの顔を見に来るからと言って慰める。


「私なら大丈夫だ。レオも居るし……」


 エステルは自分に言い聞かせように言った。


 


 けれど翌日、乳母は宿下がりすることになり、コーレイン家から姿を消した。


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