さようなら! 惑う心と散り行く命!【4】

 重い瞼を開けると、親しみのある天井が映った。

 天国や地獄にしては地味だと思った。無地で白の壁紙が悪いとは言わないが、死後の世界にしてはとても殺風景だ。

 何度か瞬きを繰り返すとようやく脳が覚醒を始めた。そして情報が次から次へと寝惚けた頭にダウンロードされた。

 布団の暖かさや部屋の気温。今日の日付に目覚まし時計の秒針が奏でる音。額に浮かんでいるであろう汗に水分を失ったカサカサの唇。

 ここまで来てようやく気付く。自身に起きている不可解な現象に。


 五感が生きている。

 おかしい。

 あの時私は確実に死ぬと思った。少なくとも精器へのダメージは間違いなくあったはずだ。


 何故かコントロールが上手く効かない体を無理に動かし上半身を起き上がらせる。窓から差し込む光に照らされた自分のプライベート空間に小さく安堵し、緩やかにそっと右手を胸に当てた。


 やっぱりおかしい。

 あるべき精器が上手く知覚出来ない。

 どういうこと?


 疑問で埋まってしまった頭に手を移し、回答を求めるために夕はベッドから出ることに決めた。

 左手で掛け布団をはね除け、右足をじりじりと右方向へ持っていく。右足を進めたら今度は左足も。健康な人間であれば数秒で終わる動作も今の彼女にとっては酷く重労働で、過去にインフルエンザに罹患した時よりも遥かに動きが鈍かった。

 動き始めて五分が経過しようやく両足がベッドの外へと出た。そして両腕に力を込め立ち上がろうとした時である。


「――った!?」


 態勢が崩れ思い切り床に落ちた。いつの間にか置かれていた五〇〇mlのペットボトルを吹き飛ばしながら。

 痛む膝を気にしながらどうにか立とうとする。しかし力を入れようとすればするほど力は逃げていった。


「っ、あぁ!」


 ダメだ、どうやっても立てそうにない。


 立つことを諦めて仕方無く這って進むことにする。せめて水さえ飲めれば体も落ち着いてくれるだろうと淡い希望を抱いて。

「そういえば」と、飛ばしてしまったペットボトルへと視線を移す。横たわったボトルのラベルにはしっかりと北アルプス山脈から取れた水だという名前が付いていた。

 粋な計らいをする神に、感謝と少しばかりの恨みを送ってから水へと手を伸ばす。が、数十センチ届かない。勿論ほんの少々這えば届く距離だが、今の彼女には何よりも遠く感じられた。


 あと、すこ、し!


 しかしながら伸ばした右手はただただ空を掴むだけに終わった。

 筆舌に尽くしがたいほどの絶望感が押し寄せてくる。まさか振り払ったはずの死を自分の部屋で感じるとは思わなかった。

 そんな時だ。


「どうぞ」


 何処からともなく救いの手がやって来て希望を掴むと、静かに少女の手に納めた。

 いや、それは最初から部屋に居たのだ。

 夕が気が付かなかっただけで誰かは確かに存在していた。


「ごめんね。いつの間にか寝てて気が付くのが遅れちゃった」


 理解が追い付かない状況に夕の目が点となる。どうにか思考を回復させようとペットボトルの蓋を空けようとするが、力が足りず虚しく手首が回転するだけだった。


「ちょっと貸して」


 夕からボトルを取ると、小気味の良い音を鳴らして蓋を空ける。そして再度彼女へと返した。


「ぁ、が、う」


 お礼を言おうとしても喉が乾きすぎて、言葉になり損ねたただの音を出すので精一杯だった。


「お礼なら飲んでからでいいよ」


 不満が残るが水への渇望を癒すのが先だということに異論はない。夕は指を震えさせながら一心不乱に水を体内に流し込んだ。


 美味しい。

 全身に籠っていた熱が引いていくよう。

 水がこんなに美味しく感じる日がくるとは思わなかった。


 乾いた細胞に段々と命が芽生えていく感覚。生きながら死んでいた体に力が戻ってくる。


 ──!?


「がっ!? えほっ! ゲホッ」


 思い切り飲んだせいかむせてしまった。思いの外嚥下する力が失せていたのも原因だろう。

 無様に咳を繰り返す夕を見て、慌てて少年が背中をさすり始める。

 その時だった。


 ──っ!?


 身体の奥で音が鳴った気がした。パズルの最後のピースがはまった時のような。噛み合わせが悪かった歯車がぴったりと合わさった時のような音。

 同時に急激に世界が明るくなり視界が開ける。先程までの倦怠感は遥か彼方に吹き飛んでしまったように体は軽く、全身から力が漲ってきた。


「大丈夫?」


 咳が収まったのを皮切りに少年が声を掛けてくる。今ならば上手く話せる感じがして改めて少年の──真昼の顔を見て、絶句した。


 髪が銀色に染まっていた。

 昨日までは確かにまだ黒かったはずの彼の髪色は変わっており、日の光を浴びて蒼く輝いていた。

 良く見れば女性らしさも増しているように見える。体型の所々が更に丸み掛かっており、胸は服の上からでも大きくなっているのが分かった。

 何故気が付かなかったのだろうか。

 昨晩自分を助けられる可能性を持つのは彼だけだったことに。


「キミは!」


 反射的に真昼の両肩を掴む夕。中途半端に残っていたペットボトルは彼女の手から零れ、床に小さな水溜まりを作った。

 自分がしでかしたこと、正確に言えば真昼がやってしまったことの重要さに心を抉られた故の行動だった。


「霜月さん……?」

「キミは、どうして!」


 私を助けた。


「どうして……!」


 自分を犠牲にした。


「どうして!」


 私の死を受け入れなかった。


「どうして!!」


 出会って大して経っていない私の生を選んだんだ!


「霜月さん」


 彼が戸惑うのが分かった。

 だが、ぐちゃぐちゃとした感情を抱え、言の葉を上手く紡げない今だからこそ言わなければいけないことがあった。


「しも──」

「助けてくれて、ありがとう……」

「ぇ……」


 言えた。ようやく言えた。

 そしてどうしてだか涙が湧いた。


「私はお母さんのところに行けるなら何時死んでも良いと思ってた。でも間違ってた。本当は生きたかったんだ。私は生きたかった」

「うん……」

「死ぬ直前までいってようやく気付いたよ。私は馬鹿だったって」

「うん」


 ただただ相槌だけをくれるだけの真昼が作り出す雰囲気はとても心地良かった。荒れていた心が段々と落ち着いていくのがはっきりと分かった。

 胸のざわつきが収まると今度は泣き顔を見られているのが恥ずかしくなってきた。そもそも起きてから顔を洗ってなければ、歯も磨いていない。第一彼がこの部屋に居たということはずっと寝顔を見られていた──いや見守っていてくれたということだろう。

 諸々の感情の波に押し潰され、本能で彼の胸に顔を押し当てた。顔を包み込む大きなそれは明らかに夕のものよりも大きかった。


「霜月さん!? 流石にこれは」


 夕は何も返さなかった。

 そして真昼は一度天井を仰ぎ見て諦めたような表情を見せると、彼女の愚行を受け入れた。

 ただただ少女は胸に突っ伏し、少年は居たたまれなさを必死で堪える。真昼の羞恥心が限界を迎えようとした頃、夕がようやく口を動かした。


「ひいあ──」

「霜月さん、くすぐったいし何言ってるか分かんないよ」


 至極もっともな指摘を受け、夕はそっと口元だけを浮かせた。真昼にしてみれば頭全体を起こして欲しかったことだろう。


「キミは私に何を望む? 私に何をして欲しい」

「……ずっとボクの傍に居て欲しい」

「分かった」


 ド直球な答えだったが彼ならこう答えるなと予想はしていた。だからこそすんなり受け入れることが出来たのだ。

 ただ台詞自体に思うところが無い訳ではなかったが、気にしないことにした。


「ベタな展開だな」


 突然嫌みたらしい声が響く。二人揃って声がした方を顔を向けると入口のドアの隙間から中を覗き見ていた人物が三人。上からアケボノ、小宵、夜兎だ。


「ちょっと夜兎君! せっかく良いシーンだったのにっ!」

「いやいやこんな甘ったるい展開もう充分でしょう。くどいですよいい加減」

「同じ男としてもその発言はどーかと思うわ正直」


 夜兎に集中砲火を浴びせながら結局全員室内に入ってくる。アケボノは兎も角二人がどうしてここに居るかは突っ込まない。状況を鑑みればむしろ居ない方が不自然だ。

 夕は咄嗟に少年から距離を取り姿勢を正した。素早く畏まった態度を取ったのは真昼に不利益を与えてしまった小宵に対する謝罪の表れだった。


「いつから見てたの!?」

「霜月ちゃんが水を飲み始めたあたりかな」

「殆ど最初からじゃん!」


 言い争いの最中、ふと小宵と目が合った。それが切っ掛けに小宵が近寄ってくる。


 怖い。責められるのが怖い。

 彼は許してくれているけど小宵さんは別だ。叩かれたって文句は言えない。


「あの、私、小宵さんになんてお詫びすればよいか――」

「馬鹿ねぇ」

「ぇ――」


 ぶたれることを想像していた夕の幻想が砕け散る。そして次の瞬間には全身が温かさに包まれた。


「あの、小宵さん?」


 小宵に抱きつかれた。

 怒られ、否定され、拒絶されるとばかり思っていただけに意味が分からなかった。


「生きていてくれてありがとう」

「どうして……そんなこと」

「出会って、話して、一緒に遊んだ人間が死んで悲しまない人間なんていないわ。それにね」

「それ、に?」

「真昼くんに身近な人の死をまた経験して欲しくなったから。それが訪れなかっただけで私は嬉しい」

「でも私が生きていることで彼は!」

「うーん、私は女の子でも構わない――と、いうか女の子の方が良いからこのままでも構わなかったり」

「お母さん!!」


「この親子は本当に……」と心の中で呟く。同時に、また涙が零れた。ここまで人の優しさに包まれたのは夕の母が存命だった頃以来だったから。


「だから貴女は生きても良いの。大体霜月ちゃんは真昼くんを助けてくれたからこうなったのでしょう。感謝することはあっても非難したりしないわ」

「はい……ありがとう、ございます」


 言った途端、やんわりと頭を撫でられた。親が子をあやすように柔らかく。そして丁寧に。救われるような感覚が何よりも嬉しかった。


「あの時は反対しといてなんだが、今となっては全然この方が幸せだな」


 アケボノがぼそっと呟く。


「そうだね。でも、アケボノはボクを思って止めてくれたんだから間違って訳じゃないよ」

「そ、そうか?」

「うん。ボクも考え無しに突っ走っちゃう時があるから、違う視点で考えてくれる人がいると助かるよ」


 真昼の返しに照れ臭くなったのか、明後日の方向を向くアケボノ。彼の性格とは離れた姿に、初めて夕は「可愛い」と思った。


「本当にな。ちなみに、俺もその場に居たら反対してたからな」


 夜兎が怒っているような素振りで真昼の横に立つ。


「もう勘弁してよー。お説教は懲り懲りだよ」

「いいやお前は分かってない。普通精器の分解なんてやっていいことじゃ無いんだよ。下手すりゃお前の命だって危うい行為だったんだ。もっと反省しろ」

「うぅ」


 夜兎の言い分は至極真っ当だ。どれだけ大義名分があっても危険なことには変わり無い。


「ま、もう文句はこれっきりだ。結果論だが霜月も無事助けられたことだしな。それに──」

「それに?」

「出来るからって中々実行に移せる奴はそうはいない。普通は自分が一番大切だしな。だから俺は、真昼がやった行為を褒めはしないけど尊重はする」


 夜兎は彼に対して非常に甘いと思う。仮に私が同じことをしようとしたなら、馬鹿にするか全力でやれと命令するかのどちらか二択だろう。


「こんな奴でも付き合いは長いしな。生きてるに越したことはない」


『こんな奴』で悪かったな。

 だけどまあこれが夜兎の、白雪真昼を除いた周囲の人間に対する精一杯の心遣いだと考えるとそこまで悪いものでもない。


「夜兎君はもう少し素直になればモテると思うのに……。勿体無い」

「別にモテたいと思ってないから良いんですよ」

「モテない奴は皆そー言うよな」

「ほっとけ。間抜けな顔した何処ぞやの恐竜よりよっぽどマシだ」

「後手後手に回るのが得意などっかの組織の馬鹿と比べれば天と地ほどの差だと俺は思うがね」


 この発言を皮切りに夜兎が真昼が抱えていた恐竜を小突く。それに苛立ったのか、今度はアケボノがドロップキックを夜兎の顔面目掛けてぶちかました。世にも珍しい人間とぬいぐるみの喧嘩が誕生した瞬間だった。


「二人は放っておいて朝ご飯にしましょうか。お台所借りても良いかしら?」

「は、はい。それは構いませんけど、食材があまり無かったような」


 確か作り置きの惣菜が少々と、中途半端に残ったネギとキャベツぐらいだろうか。


「大丈夫。こんな時の為に家から持ってきたから」


 小宵は先日のプールの一件での帰り道に家庭事情をやんわりと伝えている。少しばかり先読みスキルが高過ぎるとはいえ、「まあ小宵さんだから」だと納得出来た。


「ボクも手伝うよ」

「ありがとう真昼くん。でも大丈夫。私はこれぐらいしか出来ないから休んでて。あんまり寝てないのでしょう」

「これぐらい平気だよ。なんてったって男だし」

「……そっか。それじゃあお願いするね。霜月ちゃんも出来る間シャワーでも浴びてたら?」

「はい、ありがとうございます」

「いえいえ」


 会話を切ると小宵は微笑みながら部屋から出ていった。続いて真昼も追うように出ていく。「後ろ姿は本当に似てる」と思いながら笑みを浮かべると、ようやく現実を直視するこにした。

 二人の馬鹿共は更なる罵倒を浴びせながら低レベルな勝負を繰り広げていた。夕はそれを見て呆れると静かに、そして大きく息を吸い込んだ。


「喧嘩なら表でやれッ!!!!」


 家中に夕の怒鳴り声が鳴り響いた。

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