天地彦と云う鬼
彼が初めて殺人を行ったのは、八歳の頃である。
彼に何かしらの素質を感じていた父親が試しにと、道を歩いていただけの侍を挑発した時の事であった。
刀と素手。
大人と子供。
人間と鬼。
体格差、殺しの知識、武器の有無、戦闘の経験。絶望的なまでに傾いていた勝敗。種族としての性能差はあれど、未熟な彼にはどうしようもない、万に一つの勝ち目も在りはしない、そんな試合事が行われていた。
侍は腕利きの剣士だった。旅をしながら人の為に剣を振るう好青年だった。若輩といえど類い希なる天武の才を持ち、幾度となく賊を単身で斬り倒してきた。傷一つ負っていない、正真正銘の強者に他ならなかった。
対して、もう一方はただの子供だった。
その存在は人間から恐れられる鬼。
戦場を遊び場のように疾走し、どんな敵も玩具と化して絶命させる、生物の中で上位に位置する力量を持った種族。いくら子供といえど侮り難し。その力は石をも握り潰す。
なれど、彼はまだ、幼な過ぎた。
腕力は確かに年相応でない。力の上での理は確かに彼の方に傾いている。しかし頭は別、知能は年と釣り合っていた。
まだまだ幼い心。まだまだ幼い思考回路。いくら上質な身体を持ち合わせていようと、それを振るう者が子供ならば宝の持ち腐れ。後に進化すると確定していたとしても、今だけは、そうであるしかなかった。
ただ自分の家の縁側に座っていただけ。母と楽しく会話をしていただけ。いつもの日常を送っていただけ。
唐突に父親に呼び出され、
けれど彼の困惑も虚しく、試合の火蓋は切られてしまった。
踏み込む侍の動きは風の其れであった。
下段に構えた刀が恐怖を呼び起こし、睨みつける眼光が悪寒を生み出す。まるで死そのものが迫り来るよう。人の形をした自身の死が、もう目の前まで近づいていた。
いかな幼い心でも死はわかる。生き物全てに備わった本能の教えは万能にして絶対であるから。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。
彼の脳内はそれだけで埋め尽くされた。生きる事に対する単純にして簡潔な懇願のみとなった。
しかし悲しいかな。願うだけで願いは叶えられない。そして悲しいかな。叶えるだけの強さが彼には無い。
現実は現実に在り続ける。現実に生きる彼の運命もまた、現実に在る。
が、それが切っ掛けとなったか、ある一つの想いがよぎった。
本能でも逃避でも発狂でもない。ましてや空虚でもない。確かな精神から産まれた一つの思考。
死にたくない。
ならば――勝てばいい――
――よくやった。父の褒めに、彼は返事をしない。
両腕を無くし、胸を骨見えるまで抉られ頭を潰された侍を、血にまみれて眺めるばかり。
勝負とは、肉体を動かす精神によって決まる。
肉体を刀とするならば、精神は持ち手。たとえ名刀を持っていようと持ち手が初心者では、ナマクラを持った熟練者と大差はない。むしろ持ち手の強さにこそ刀の価値は左右される。
故に、
彼は既に名刀を持っていた。しからば、後は持ち手である自分が強ければそれだけでいい話。
肉体と違い精神の成長は早々である。
元より、漠然とした思考は産まれた時から持ち得るもの、故に今のこの場と状況に於いて実を結ばない筈が無い。無論、それが出来るかどうかは当人次第なのだが、彼はそれについても有能だったらしい。
――勝つ、とはそういうもの。
彼はそこから、着々と頭角を露にしていく事となる――
――――――――――――――。
「ぎ、」
潰される頭蓋。情け容赦なく踏まれた兜髪肉骨中身。赤い花火を地に咲かせる、首無し人間。
それを特等席で眺めるは拵えた本人であり、天地彦である。
――どよめき、たじろぎ、不穏の空気。
悲惨な光景。生涯目の当たりに出来るかどうかの、人の頭が文字通り潰された光景。ぐちゃぐちゃの脳味噌は汚泥に似て、その臭さその醜さ、常人には吐き気だけでは済まさない。
百戦錬磨の猛者が集まった、鬼狩り連合軍の侍達は身を強張らせた。
数多の人間を切り、時には穿ち、時には殴り、時には絞め、時には燃やし、国を勝利へと導いてきた勇猛果敢な男達。その腕前は確かであり、幾多の賞賛を浴びてきた各国の強者達。――それらが一歩、踏みとどまった。
戦闘となれば鬼に似た迫力で肉迫してきたが、しかしどうにも今回はいつもと違っていた。何せ、相手が容易く三十人ほどをものの数秒で殺してしまったからだ。
そして最後にはこれ見よがしに人間花火ときた。
空気が変わるのも無理は無い。劣勢なり圧倒を味わった事はあれ、個による多の蹂躙は初めての体験だった。彼らは初めて鬼と対峙したのだ。
故に、初見の鬼の闘争。目の前で繰り広げられたその凄惨は今までに無い衝撃を与えた。
圧倒的な戦闘能力、羽虫みたいに殺される仲間、尋常ではない覇気を纏う唯一つでしかない敵、
初めて体感する鬼との対峙、目の当たりにして彼らは――……
「――――ははっ」
誰が始めたかわからない。釣られて、周りの者も一斉に笑い出した。
――頭が潰れたからどうした。
――脳が零れたからどうした。
――人が爆ぜたからどうした。
既に戦場と云う名の地獄を幾度も経験してきた彼らにとって、そんなものに恐怖を抱きはしなかった。そんなものは疾うに捨て去った。
たかだか臓物を撒き散らせて死んだだけではないか。だから何だ。だからどうした。はははははは。
彼らに在るは恐怖ではなく高揚のみ。人としての大切な感情が摩耗してしまうまで戦ってきた彼らだからこそ、鬼を統べる鬼である天地彦の討伐に選ばれたのだから。
「…………」
そんな彼らを、天地彦は興味深く見渡して、残念そうにため息一つ。
「拙者は東の
笑い声がやまぬまま、天地彦の前に一人の侍が名乗り出た。高揚の冷めぬ微笑みは、しかし臆する事なく正眼の構えを取る。
多摩菱とは、東の方で一番に大きな国だ。刀造りが有名であり、その質の良さから他国にも流通されている。
そして名乗りを上げたこの男、十士郎とはその国一番の強さを誇る侍である。人の胴体ほどもある大木を一刀両断する腕力と技量を持ち、また戦略に於いても相手を出し抜く程の知識を兼ね備えていた。
二千の兵で四千の敵を相手した昔の戦、見事に勝利をものにしたのは彼の才能があったからだ。
まさに国を代表する侍――だった。
「…………」
勝負は一息でついた。
天地彦の拳が十士郎の胴体を貫いた。それはあまりにも速かった為、十士郎は名乗り出た時と同じ微笑みを浮かべたまま絶命していた。
天地彦に、表情の変化は無し。散歩でもしているかの様な無表情だった。
――笑い声がやみ、そしてまた笑い声。
仲間の憐れな死と鬼の闘争が愉快で愉快でたまらない。次は俺だと言わんばかりに、肩を回すなり具足を締め直すなり始める各国の強豪たち。
侍だった死体を投げ捨て、天地彦はまた、残念そうにため息をついた。
先程から、天地彦は落胆の色を隠せないでいる。
何も、呆れや退屈からではない。彼らの闘争がとても成っていない故の、哀しみからだ。
憶さないまではいい、人間にしては中々に上等だ。
だが、高揚が余計だった。
高揚とは、心の昂ぶりを表す。相手する状況に好感を抱いてのめり込み、あらゆる思考を加速させる着火材のようなもの。それは時として潜在能力を引き出し、疲れを忘れさせて限界を何時までも維持する効能を持っている。
日が浅く経験に劣る者は、これの進行速度、深度によって熟練者に対抗できる事がある。その世界の中に心酔する事により、己が身をそれだけの存在へと改変させるからだ。
一の経験を十と成し、十の経験を百と成す。それだけにしか思考が働かず、また筋繊維も馴れる事しか考えない。
些末を取り払い、手にする情報を手にしたい情報だけに絞り込むだけで、肉体とは劇的に変化するもの。
――しかし、
限界とは維持するものに非ず。限界とは超えるもの也。
高揚などする必要は無し。勝利は常に確信する事に在り。
――天地彦からするならば、
酔うてはならぬ。
乞うてはならぬ。
望んではならぬ。
原始は一つ。
――それすらも、
魂を汚すな。魂を失うな。
心など汚せ。心など失え。
――闘争ではない。
この身に宿すは勝利のみ。その他は殺してしまえ。それがわからないなら、死んでしまえ……!
途端、響き渡る悲鳴。四十人が飛び散ってからやっと呼び覚まされる激情。弱者による数の暴力。急に暴れ出した猛獣を抑えようとする霊長の本能。次いで、これらを覆す圧倒的な性能差による蹂躙、陵辱、教授、阿鼻叫喚。収まらない絶望の嵐。
爆ぜる肉、肉、肉、肉、肉、肉、肉、肉、命。
砕ける骨、骨、骨、骨、骨、骨、骨、骨、命。
堕ちる中、中、中、中、中、中、中、中、命。
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死勝死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
――……なんて、空に昇る太陽には、そう見えたかも知れない。
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