第18話

「――よく理解していても、心の深き何処で、生き物としての恐怖を抱いてしまった。しかし、相手を想う気持ちが死の進行を僅かに遅らせた、か。……ふんっ、悪趣味な」


 ふと、後ろで声がしてきた。


 急に現れた気配に別段驚いた様子もなく、阿夜はその声の主に背を向けたまま訊ねてみる。


「あなた様の、仕業で御座いますか?」


「愚問」


 簡潔な言葉。まるで脳を鷲掴みにされたかの如く、閻覇の低い声はのしかかってくる。二十歩ほど後方にいるにも拘わらず、直ぐ真後ろに佇むよう。


「何故、村を」


「笑止。真祖は生きていてはならない存在。ならばそれを知る人間も、生かす訳にはいかない」


 慈悲無き言葉。さも当たり前と云った口上には、感情が全く込められていない。


「……何故、ワタクシはそこまでして」


「黙れ。貴様に意見など皆無。貴様は生きてはならない、ただそれだけの事だ」


 キチ、と鍔が鳴る。鬼の気配が近付いてくる。今まで感じた事の無い強大な、切狐よりも重い殺意が迫ってくる。

 阿夜は、座ったまま。久野を見つめたままで、対抗する気配さえ無かった。背中に伝わる波動を気にもかけず、何かを待つ様に不動を保つ。


「……敵対する意思は無しか。拍子抜けだが、まあいい。そのまま死体を抱えて尽きよ、小娘」


 閻覇は蔑む。少女と云えどその身は真祖、僅かに鬼としての心情が期待を抱いていたのだが、この様子を見て落胆してしまった。

 最早警戒などしない。ゆったりと落ち着いて歩み、冷淡な黒い瞳で華奢な背中を見下す。


「……死体……何を仰っているので御座いますか?」


 十六歩。


「わからぬか。その膝でくたばっている小僧だ」


 十二歩。


「久野様が、死体?」


 十歩。


「阿呆か貴様。視たのだろう。ならば小僧は死んでいる」


 七歩。


「ふふ。何を仰るのやら。久野様は眠っているだけで御座います」


 三歩。


「……狂ったか。まあいい。せめてもの情けだ」


 一歩。


「一瞬であの世に送ってやる。精々、常世で小僧とでも――」












「眠っていると言っておろうが」













 三十歩――。


 本能に任せた閻覇の後退は、一足でそこまで到達する。よほど懸命に事を行ったのか、飛び退いた時に蹴りつけた地面は大きく抉れていた。

 そして体勢を整え、未だ同じ姿勢の長い黒絹を凝視する。


 ――いつしか、冷や汗なんてものが流れてきた。

 こんなに緊張した心は何年振りだろう。どんな大軍を前にしても眉一つ動かさなかった鬼の猛者は、三十歩も離れた相手を警戒している。


 初めてではない。自分の里の長と初めて対面した時と似ている。相対しただけで駆け巡る“殺される”という悪寒――ひどく一緒だ。


「……ほう。なるほど」


 先程の阿夜の声。今まで鈴を思わせていた声は、怒りに震える老婆の様に重くなっていた。だがそれでも、彼女の面影が消えている訳ではない。しかしそれでも、彼女の声だとは到底思えなかった。


 まるで地獄の底から叫ぶ亡者。生者が憎くて憎くて仕方の無い、断末魔に似た発狂の絶叫。それを押し固めた様に、阿夜の声は哀しく滅んでいた。滅んでしまった。


たがが外れたか……いや、醒めたと言うべき――ぐっ!?」


 阿夜を中心に、地面に天雷じみた罅が一瞬で走り、堪えきれないといった様子で地面が炸裂した。その爆風が土煙と共に、周りに吹き荒れる。抑える事が出来ない力を放出しているかのよう。


「っ……!」


 閻覇は、自分を蔑んだ。


 真祖に対する心構えは整っていたが、いざその相手を見据えての落胆、過小評価。

 見た目が子供で、闘志を沸き立たせない雰囲気。それを前にして気を無くしてしまった自分は腑抜けだと、鬼は自身の心に刃を突き立てた。


 何を世迷い言を……。我が身の前に相するはかつて浮き世を統べた存在。全てを蹂躙してきた暴虐の王。何だかんだ云々など関係ない。ある筈がない。




 ――あれは、


 始めからそういうモノだ――





 ……深呼吸をする。先程までの自分を殺す。


 閻覇も大したものだ。凍り付くほどに恐ろしい覇気を前に、普通ならば頭を垂れて許しを願いたくなる所を、彼は気を取り直す事に神経を注いだ。

 行い自体もさながら、それを完遂させてしまうのも、閻覇という鬼が只者でない証拠だった。


「――吠えるな、真祖。なまじ力の解放など、高が知れる」


 阿夜の絶対的な威圧に閻覇は対抗してみせた。鼻で笑う姿勢は虚勢ではない。歴とした、けれど油断の無い余裕から来るものだった。

 阿夜の肩がぴくり、と震えた。その瞬間に彼女の周りの小石が弾け飛ぶ。


 極めて優しく、ゆっくりと久野を横にする。


 ――眠っている様な、安らかな顔。彼女の言葉が正しく思えてしまう程に、微笑みを浮かべたままの彼の表情はとても穏やかだった。

 そんな久野の頭を撫でる。慈しみを込めて、名残惜しそうに、優しく。


 ――阿夜は直立する。


 一本一本が綺麗な黒髪を靡かせる。バチバチなんて空気が弾ける音は、彼女に戦慄する大気の悲鳴。拳を握れば、その真下の地面が独りでにひび割れ凹む。


 ――構える閻覇。


 右足を前に出し、力士の様に両膝を曲げて腰を下げての重心の安定。左手は鞘口ぎりぎりを握り、右手は鍔元から一寸離れて柄を握り締める。胴体は刀を下げた左方向に捻り、右肩を相手に向けて準備は整う。


 何とも従順な、抜刀術の構え。

 刀身を抜き取る初動の速さを活かした剣術。力は両手持ちに劣れども、その速度は刀を振るう事に関して最高峰に位置する。達人ともなれば、切りつける過程を相手に視認させないと云う。


 抜刀する際には、刃は下向きではなく胴体の反対向きにするのが常套である。下から上よりも横から横への方が断然に速い。加えて的にも当て易い上、振り切った後の隙も小さくて済む。


 彼はそれに則り、刃は横向き。刀は短くも長くも無い、刃渡り二尺二寸。

 鬼が持つにしては普通過ぎる武器、いや、どちらかといえば頼りなく思える。大概、鬼が扱う刀は刃渡り三尺以上が当たり前である。けれども閻覇が携える刀は人間が使う物とそう大差は無いのだ。それを鬼が構えるというのは、概念に反してどこか小さく見えてしまう――




 ……なんて、馬鹿な事を考えた者は今すぐに死ぬのが得策だろう。




 その構えから放つ殺意は、既に生き物の其れを超えている。

 何ともむごたらしく洗練とぎすまされた、殺意という無情の業。

 生への執着が根こそぎ掻き消えてしまう様な、生きている事が申し訳なく思えてしまう様な、まるで恐怖の塊。ここまでの境地に辿り着ける存在は他ならない、数多の戦場を駆け巡ってきた鬼という生き物のみ。


「――――」


 ……嗤う。


 顔だけで後ろを覗く阿夜の顔は、片頬だけが吊り上がっている。嘲笑混じりの憤怒は、閉じた瞼で閻覇を睨みつけていた。


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