第16話

「……あれま。それなりに力を入れたでありまするが」


 足下に転がっていた短刀を拾う。

 隙を作る為だけとはいえ貫通させるつもりで投擲したのだが、投げるだけでは真祖の肉体に切っ先までが限界だったようだ。


「――苦しいか、真祖」


 ニタニタとしながら、朱い瞳の蛇は訊ねてみる。


 横たわり、呼吸が上手くできないでいる阿夜に返事の仕様はない。鳩尾に加えて心臓も強打された為、体は空気と血に対して正常な判断が出せない。

 端正な顔立ちを歪ませて苦悶に満ちた表情は、左腕を踏まれる事で悶絶へと切り替わる。


「あ゛ィ――!!」


 短刀が貫通している所を正確に踏まれ、丁寧にこねくり回された。腕からぐちゅぐちゅと嫌な音がして、聞こえてくる度に痛みが倍増した。

 相手は痛がるその姿に興奮したようで、笑いながら更に足に力を込める。


 ――勝敗は見るからに切狐の勝ち。身体能力が圧倒的に不利である筈の彼は、鬼の祖を打ち負かしてしまった。

 彼の技量は確かなものだが、理由はそれだけではない。これは当然といえば当然の結末。何しろ阿夜には決定的に欠けているものを、切狐はずっと前から持っているから。


 殺し合いの経験、それが一番の因子である。


 厳密に言って、阿夜は殺し合いをした事がない。熊とは何度か対峙して戦闘した事はあるが、毎回一方的に終わらすばかりで――そもそもそれは、殺し合いではない。


 獣の闘争とは、つまり存命。元々思考の乏しい生物であるが故、根源は総じて自身が生き残る事のみを優先する。

 相手を殺すは自分を残す為……そこには殺害なんて思想は無い。在るのは健気で幼気な、ただの防衛だ。


 殺し合いとは文字通りに殺し合う事を云う。相手を殺す。ただ殺す。限りを尽くして殺す。殺して殺す。殺す殺す殺す殺す殺す殺す。


 魂の奪い合いとも言おうか。


 獣の場合は魂を“守る”為に奪う。俗に言う本能であり、本能とは詰まるところ恐怖である。

 そんなものを背負って殺しと言い張るなど、甚だ恥ずかしい。逃げる為に攻めるのは、何をどう謀ろうとも結局は逃避なのだ。

 それらを踏まえて考えるなら、先ず獣からは殺し合いを学べない。彼女が一方的で無かったとしても、得られるものは食料だけ。ではナニと対峙すれば学べるのか。


 ――簡単。人だ。


 私利私欲――人という生き物。

 自己中心的利己主義――人という在り様。


 彼らほど【殺】が似合う存在はいない。何故なら彼らは、感情そのものが根源だからだ。


 人は雰囲気か理由に括弧つけて容易く殺害を行える。その時は自分の事を一切考えない、ただ単純に、略奪だけを思考する。本能だの何だのという機能美など無い、ただ殺すだけに付き従う。……つまり“奪う”為に奪う。


 それが二つが重なって、やっと殺し合いになる。それを幾度と無く体験していけば、殺すという行為は自然と精練されていく。相手の肉体を、魂を、奪う事が非道く上手になる。


“逃避”と“略奪”とでは決定的に差が生まれる。こと殺し合いなんて状況に似合うのは、略奪であろう?


 経験が在るか無いかでいえば、当然に在る方が有利に決まっている。初心者が熟練者に適わないのはこれの違いだ。万が一に張り合えたとしても、それは偶然の重なりか運命の悪戯か天の気まぐれでしかない。


 この理は絶対である。絶対であるから――阿夜は切狐にされるがままの蹂躙。熟練者が初心者をいたぶる、さしておかしくも何ともない光景なのだ。


「やめっ……ッ――!」


「やめるものか痴れ者。貴様が選んだ道であろうが。存分に、償いを乞うて苦しみ、そして死ねでありまする」


 ブチッ、と腕が終わった様な音が響く。ここで阿夜は初めて泣き叫んだ。大気を劈く程に、鈴が壊れる程に、絶叫という絶叫を繰り返す。


 切狐はもう笑わない。己が幕を閉ざす故に笑えない。楽しみの終わりとは、誰しもが悲しむもの。

 逆手に持った短刀の切っ先を真祖の喉に向ける。名残などない。だって勝負はとっくの疾うに付いている。このまま五月蠅い喚き声を向けられるのも煩わしく、何より幕は早々に閉じるもの。


 故に腕を上げ、綺麗な白色の喉笛めがけて。


「阿夜! ここにいるの!?」


 下ろそうとした時には、そんな声がしてきた。振り向けば、桜色に包まれた中々の上玉が突っ立っている。真祖の叫び声が招き寄せたエモノが。


「――ほうほう。ふむふむ」


「……誰よ、あんた……」


 蛇に舐められる。佇む男からのそんな気がする朱い視線に、奈津は一歩下がる。――二歩は、下がれなかった。


「おっと、後ろ歩きは危ないでありまするよ?」


 蛇に背後を取られていた。気付いた時には既に捕まってしまった奈津は、叫ぶ間もなく口を塞がれる。


「ほほう、何とも旨そうな匂い。まぁ、女は顔が良ければ皆旨いでありまするが。……閻覇殿にはこれ内緒、かっかっかっ」


 何が面白いのか。後ろで下品に笑うも、拘束する手は緩まない。


 奈津の両腕は腰の辺りで掴まれていた。必死に身を動かしても解ける気配がない縛りは、縄よりも頑丈な印象を受ける。頭にきて、口を塞ぐ指を噛んでやろうとしたが、


「ひ……!?」


 悟った指は短刀に持ち変え、喉笛に刃を向ける。その冷たい感触は、一瞬で全身を凍らせる。


「抵抗されるのはあまり好ましく無いでありまする。どうせ無駄なのだから黙っている方が却って楽でありまする。では、ちょいと拝借」


 そう言って、奈津の腕を掴んでいた手は、彼女の胸を触り始めた。なぶる様な手つきはナメクジを思わせる。


「……可哀想に。全く無いでありまする」


「何ですって――うっ……!」


 怒りがこみ上げた奈津だったが、短刀を押し付けられてまた黙らされてしまう。ナメクジは尚も胸を嫌らしく弄り、彼女はそれにただ堪えるしかない。

 胸の次は、太股をまさぐられた。今度は着物の中に潜り込んで来て、不快な感触が内腿を這う。揉みしだきながらそれは、上へ上へと登ってくる。


「っ……!」


「――あれま。処女でありまするか」


 恥部に到達した蛇は嗤った。相手の秘密を知った事での高揚感からか、ただの性欲か、その手つきはより一層不快なものになる。


「慕う男でもいるのでありまするか? 大切にでもしているつもりでありまするか? かっかっ。初めてでは色々と困るであろう。ソレガシが突き破ってやろうではないか。かっかっかっ!」


 言葉と行為で辱められる奈津は、声も出せず涙を流した。悔しさと恥ずかしさが入り乱れた顔には怒りしかない。

 しかし、短刀のせいで抵抗しようにも抑圧される。凶器による恐怖で体は鎖に巻かれた様に締め付けられ、蛇の侮辱を許してしまうしかなかった。


「お止め下さい!!」


 と。切狐が指を立てたその時、鈴の大きな音が邪魔してきた。


「……何だ。今良い所でありまするのに」


「奈津様は関係御座いません……あなた様の目的はワタクシなのでしょう? でしたら、ワタクシに為さって下さい。奈津様を、離して下さい……っ!」


 苦しげに、ぶらんと垂れ下がった左腕を掴む阿夜は、切実な顔をして鬼に懇願する。

 袖は破れ落ち、覗く血塗れの赤い腕。肩と二の腕からの流血は未だ続いており、痛みで呼吸は整う事を忘れている。


 ……奈津はそんな姿となり果てた阿夜を見つめた。


 森の中で一緒に山菜採りをしていて、気付いたらいなくなっていた少女。探し続けて野原にたどり着き、叫び声を聞いて駆けつけてみれば、見知らぬ男と、血を流して苦しむ鬼の姿。


 名を呟いた。だが、あらゆる感情が入り混じった声は、彼女らしからぬとてもか細いもので、後ろにいる切狐にさえ聞き取れなかった。


「わかったでありまする」


 阿夜の願いを聞き入れた切狐は、奈津の恥部に指を突き入れた。


「っっっ!?」


「奈津様っ!」


「はい。離したでありまする」


 背中を蹴られた奈津は、糸が切れた人形の様に倒れ込んだ。股から血を流し、痛みと悲しみに呆然とする顔に生気は無い。ただただ、虚ろに開いたままの目から涙を流し続ける。


「――かっかっか、女は離した。では、次は貴様に同じ事をすればよいのでありまするな?」


 指に付いた血を舐め取り、笑う。


 切狐は確かに、離した。状態など関係ない。だって彼は離してくれとしか懇願されていないから。それに丁重に従ったまでの話、どこにも非はない。


 故に、次は『ワタクシに為さって下さい』と言う願い。ニタニタ嗤う鬼はそれを叶えてやる為に、黒絹の隙間から此方を視――……視?


「あ?」


 それだけ。


 切狐という鬼が死ぬ前に残した言葉は、それだけ。


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