第15話
――とある樹海。
植物がひしめき合い、前方に進むだけでも一苦労な深き森の中に、ひっそりと鬼の里が存在する。
人間に見つからないように鬼は隠れるように里を築くのだが、その里だけは更に隠れていた。
その里に暮らす者達は忍を専門とし、暗殺を生業とする鬼だ。同族さえごく一部の者しか確認していない彼らの存在を、人間は誰一人として知りはしない。
その中で、奇才とされる鬼がいた。なぜ奇才などと称されるかといえば、彼の闘争は類を見ない程に優れており、そして何より――彼には足音というものが無かったからだ。
音が無ければ振動も無い。跳躍の時も着地の時も全く無い。遂には枯れ葉の上を歩いても走っても無音を保つ。
もしやすると幽霊ではないかと噂された事もあった。その鬼自体も、いつもぼうっとして何を考えているのかわからない雰囲気だったからだ。
しかしその実、確かに音は鳴っていた。彼のしなやか過ぎる骨肉と皮膚がそれを極限にまで吸収し、覇気にあてられた周囲の有機物が弱り力を無くしていたのだ。
けれどその才能は誠に素晴らしかった。暗き影として、忍び寄る技術に関しては最良の能力だった。
気配を消すのは何故か下手ではあったが、相手が脆弱なのだから問題は無いと、その鬼は着々と暗殺術を叩き込まれていった。有望故に厳しく教えられる鬼は、沈んだ様な無表情の毎日だった。
……数年経って、事件が起こる。
その鬼が齢一四に達した時の事、里にはその鬼以外に生きた者がいなくなっていた。
皆は何者かに惨殺され、身体の所々が欠けていた。
人の仕業ではない、里の存在を知らないのだから。
猛獣の仕業でもない、そんなもの指一本で殺せるのだから。
事の真相は深まるかと思ったが、しかし早々に解決した。唯一生存していた鬼の口元と両手が、幾層にも重ねられた血液で赤黒かったから。
後に里を訪れた閻覇という名の鬼が尋問したところ。“面白そうだったから。旨そうだったから”と鬼は答えたらしい。
隙を見て閻覇にも飛びかかったが、難なく叩き伏せられた。その技量と度胸を買われ、切狐は今にある――。
「かかっ――精々呆気なく終わってくれるなでありまする」
身を低くして構える切狐。元から小柄な彼は花の中に埋まり、姿は完全に見えなくなる。そして風の如く、花の海の中を尋常でない速さで以て攻め行く。
阿夜は意識を集中する。花と茎が擦れる音、それが近付いてくる音、今までとは違う異質な……本当の殺意が迫ってくる音。羆とは訳が違う。現在のコレはそのような可愛いものではなく、確実に自分の命を刈り取るものだと全身に伝わってくる。
音が六歩の距離まで来た瞬間、阿夜は拳を握りやや前傾姿勢となって迎え撃とうとして――困惑してしまった。
……音が……消えた。
殺意も無い。気配も無い。敵である筈の鬼がこの場からいなくなった。
彼女はきょとんとして、周りを見渡す。感じるのは花の香りと穏やかな空気だけ。幻覚でもしていたのかと不思議に思う鬼の少女。右脹ら脛に風が走ったのは、その時。
「っ――!?」
痛みに気を取られる前に跳躍して後退。樹木を飛び越える程の高さまで跳んだ彼女は、自分が立っていた場所に蛇の姿を感じる。……ニタリ、と笑っているのが直感的にわかった。
着地と同時に、また花が擦れ近付いてくる音。今度は始めから迎撃の体勢を取る。集中も高める。しかしまた、鬼はいなくなった。
――――静寂、時間が死んだ様な静けさ。右足から血を流す阿夜は初めての痛みにも構わず、姿無き静寂の鬼に気を注ぐ。
下方に意識を向ける。どういった理屈で気付かれずに寸前まで来たのかがわからない。故に襲われる瞬間の僅かな殺意を逃さない為、眉をひそめて待ち続けた。
「…………あー」
と。やる気の無い声が後ろから。喫驚して振り向けば、探していた鬼の気配と姿がある。
「そんなに意識を下に向けられてはソレガシも不利でありまする。何故か幼少の頃より気配消しが不得意故」
悪童と称される彼の性分。闘争に快楽を抱く彼には、元から忍ぶ事など性に合わない。
それ故に。気配を消すのが不得意なのではなく、無意識に己を発見してもらいたがってしまうのだ。けれども消すには消せるのだから、やはりその才能もあるにはあるのだろう。
暗殺では相手の生き様に立ち会えない。
彼が望むは生きるか死ぬかの殺し合い、手の内を探る駆け引き、死と隣り合わせの綱渡り。それが愉しくて愉しくて仕方がない。
故に、
「では真祖――」
右袖からも短刀を取り出し、
「今度は正面からの我が爪――」
膝を曲げ音もなく地を踏みしめ、
「どう躱す――?」
ニタリ、と笑うのだ。
吹き荒れる一瞬だけの突風――。切狐の覇気によって弾き飛ばされた風が、花弁を粉雪の様に舞い上がらせていく。花びらの津波に阿夜は呑まれるも、意識は前方に向けたまま不動。
白と黄の斑に紛れて攻め込んできた鬼だけを捉える。
狙いを絞って、突き出す拳。振り抜いた後の拳圧で大気が押し広がり、花びらは拡散して事の有様を鮮明に露わとする。
――空振った鬼の拳。
――首傾いた鬼の頭。
頬を掠めた女らしからぬ豪腕、臆す事なく笑みを浮かべる切狐は二の腕に向けて短刀を切り上げる。しかし肉を這う感触は何故か浅い。
「――?」
「っ……」
腕を裂かれた阿夜は苦い顔をしたが、痛がっている様子は無い。金属が触れる独特の艶めかしい感触が気持ち悪かった。構わず、短刀によって打ち上げられた腕をそのまま振りかぶり、蛇の頭を叩き潰すが如く拳を落とす。
――重低音で轟く大地。飛散する花弁。振動の波が広がる花の海。軽い地震を起こした拳は目線を下げさせる程に足元の地面を凹ます。だがそこに、潰れた肉は無し。
気付いた時には、同じ箇所をまた裂かれた。
「――……なんて、硬い…」
横から蛇の声がする。地面を陥没させた拳をぶっきらぼうに振り上げた。だが、三度も空振ってしまった腕にまた金属が這う感触。
流石に阿夜は後退した。このままでは同じ事の繰り返しだと悟り、そして腕もやっと痛くなってきたから。
触れてみれば、見えなくてもわかる夥しい出血。べっとりとした掌全体は、生暖かくて粘着質な液体に覆われた。三度も正確に刃を当てられたのだから、それは当然――
「まだ切断できない…。前言撤回、やはり貴様は化物でありまする」
以前の問題と、切狐の阿夜に対する呆れた様子が語る。
……まともに当たればただではすまない豪腕に襲われる中、同じ箇所を寸分違わず正確に狙う切狐もさながら、それを受けて未だに腕が繋がっている阿夜も異常だった。
刃の切れ味は悪くない、手も抜いていない、始めから両断のつもり。けれど、麗しい見た目に反して強靭な硬さの肉体がそれを阻害する。
しかし、この事態は特におかしいと言えるものでは無い。これが“真祖”。
かつて地上を支配していた生物、理不尽を撒き散らして闊歩する様な存在。右足の切り傷が疾うに塞がっているのも、やはりおかしい話ではない。
だから切狐が瞳を朱くするのは必然、むしろ遅いくらいだ。
「かっかっ。この瞳を見せるのは久方振りでありまする。鍛練を幾星霜つみ重ねてきた鬼だけが成せる限定解除――真祖よ、ソレガシをここまで猛らせるその御身、至極感謝するでありまする」
言って、潜行。また海の中に沈み、足を刈り取る鎌と化す。
阿夜は一瞬だけ地面に気を取られたが、その考えを払う様に上空を見上げた。――
「――ほう。やるではないか、真祖」
切狐は笑う。嬉しくて笑う。
潜った様に見せかけての跳躍。確かに切狐は一度しゃがみ込んだ、それは確かなのだが、その後に目にも止まらない速さで跳躍した。音を極限まで吸収してしまう為に、地を蹴りつける音がしない。
しゃがみ込む時に手を使ってわざと音を強調してやれば、端からは下に向かった事しか視認も認識もできないのだ。
「はい。あなた様からは殺意が溢れております故」
無論――それは眼の場合。眼を使わない彼女には通用しない細工である。
……が、
「――えっ」
実の所、これは細工ではなく策略なのである。
ただしゃがみ込むだけでは芸が無い、それだけではただの詐欺だ。しかし彼は嘘つきでは無く、正真正銘の殺し屋。散漫した意識を殺意により上へ集中させ、その前に投げた短刀に気付かせないとは何とも利口か……はたまた狡いのか。
どちらでもいい。何せ、ただ相手に隙を作らせる為だけの一手。足首に刃が刺さった阿夜はそれに則り、切狐の接近を一瞬だけ忘れてしまう。
「あ――ッッ…!」
気付いた時には、左肩を大きく裂かれた。落下の力も加わった斬撃は非道く痛い。だが相手はそれだけに留まってはくれず、左の二の腕に向けて短刀を突き上げてきた。今度は――貫通。
「、、、、!!」
全く持って初めての痛み。息を呑む恐怖と泣き叫ぶ慟哭が混じった呻き声。刃の入口と出口が熱湯の様に熱く、電撃の様に痛覚が暴走する。思考なんて定まらなくて、まとめようとする間に、鳩尾を蹴り飛ばされた。
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