其の十五 不可解奇怪――、乙女の秘密は、大文字英数合わせて八ケタくらいのパスワードでロックした方がいい


「……なんだと?」

「そんなカッコ悪いこと、先輩に言って欲しくないです」


 声の出し方を忘れたはずの私の口から、溢れる言葉が止まらない。感情に任せて声を連ねる私はキッと先輩の顔を睨み、――気迫に押されたのか先輩が少しだけ身を引いた。


「……今まで水泳しかしてこなかった私を、音楽とか芸術に疎くてバカにされていた私を……、心の底から感動させてくれたのは、世界でたった『二人』だけなんです!」


 金切り声が静寂の公園につんざき、気づけば私は立ち上がっていた。先輩は呆気にとられた表情で私を見上げており、私の目にはウルウルと涙が溜まり始める。


「……先輩と『クロユリ』が違うのなんて、当たり前じゃないですか……、先輩は先輩だし、『クロユリ』は『クロユリ』です。先輩が自分の演奏を『クロユリ』と比較する必要なんて、これっぽっちもないと思います。私は『クロユリ』が大好きだけど、同じくらい先輩の演奏も好きなんです。だから、簡単に『辞める』だなんて、い、言って欲しく、ない……」


 ――溜まったダムが決壊するみたいに、私の頬にツーっと涙が伝う。感情まかせに口を動かしている私は、もはや自分でも何を言いたいのかわからなくなっていた。――でも、吐き出された感情は、一切のコーティングがされていない、純度百パーセントの私の本心だった。


「……最初は確かに、『クロユリ』の曲だったから、先輩のサックスを聴きに行ったんです。でも、青空の下で、だだっ広い屋上で、必死にサックスを吹いている先輩の姿は本当に綺麗で……、私、その場にずっと居たくなって、ずっと、その音を聴いていたくなって……、だから、だから――」


 ――ふいに夏風がそよいで、朱色に染まった私の頬をなでる。

「……だ、だから……、あ、あれ――」



 ――果たして、『私、何してるんだろう』。



 頭に集結していた血流がスーッと全身に下り、冷静になった私は眼前へと目を向ける。相変わらずマヌケな顔で口を開け放っている先輩が、ポカンと私を見上げていた。

 傷心中の先輩の心に土足でドカドカと入り込み、あまつさえ大暴れをしているという事実に気づいた私は、急速に、朱色の頬が青く上塗りされていくのを感じて――


「――あっ……、ご、ご、ご、ごめんなさい!」

 ――とりあえず、謝った。 


 頭の中で「どうしよう」が十乗ほど浮かび、グルグルとハイスピードなワルツを踊り始める。混乱と混迷を極めた私は顔を上げることができず、脳は現実を直視することを明確に拒否しており――


「……プッ――」


 タイヤの空気が情けなく萎むような先輩の笑い声が、

 フッと耳の中に入り込んだ。


 ――おそるおそる顔を上げると、先ほどまでの空虚な表情はどこへやら、なぜかニヤニヤと愉しそうに口元を綻ばせる先輩の顔がそこにあった。


「……えっ、えっ……?」


 オロオロと狼狽しながら声をどもらせているのは『私』で――、先輩はふぅーっと大きく息を吐き出すと、煌々と光る月明かりへと目を向けた。


「……春風、お前、興奮すると周りがよく見えなくなるタイプなんだな……」


 こぼすような先輩の声が湿った夏風にさらわれ、私はかぁーっと体温が急上昇するのを感じる。


「あっ、やっ……、ひゃい……、ゴメンナサ――」

「――ありがとう」


 ――そして、輪郭のある五文字のテキストが、夜の公園にくっきりと響いた。


「……というか、スマン……、とんだ醜態を、さらしてしまったな……」


 へらっと自嘲気味に笑う先輩は相変わらず夜空を見つめており、月明かりに照らされた先輩の顔には、気づいたら活気が戻っている。


「……いえ、私の、方こそ、生意気な口を――」

「――いや、いいんだ。……そういえばついぞ人に叱られることなんてなかったな……、たまには思いっきり怒鳴りつけられるのも清々しいものだ」

「……先輩、Mなんですか?」

「む? それはどういう意味だ?」

「……いえ、なんでもないです……」


 へらっと再び先輩が笑い、クスッ釣られるように私も笑って――


 ――果たして、『予想外の展開』。


 優しく綻んでいた先輩の顔がピタっと止まり、

 その視線がスーッと私の顔から徐々に『下の方』に降りていき――


「……あれ、先輩? どこ見て――」

「――うわぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 ――闇夜を切り裂く先輩の断末魔が、夏虫の唄声をかき消した。


 先輩の身体が派手にのけぞり、一回転しながらベンチの裏側にすっころんだ(そんなことある? って思うだろうが、実際あったんだからそう綴るしかない)。


「……えっ!? せ、先輩……大丈夫ですか!?」


 慌てた私は思わず先輩に駆け寄り、地べたに仰向けになっている先輩の身体に覆いかぶさるように顔を覗き込み――


「だ、だいじょう――、って近ぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 ――再び断末魔が鳴り響き、暗黒の木々がざわざわと不気味に揺らいだ。

「えっ、えっ、な、なんで――」


 わけがわからない私はうろたえるしかなく、バタバたと手を動かしている先輩は何かに抗おうと必死だ。……これではまるで私が先輩のコトを押し倒しているみたいではないか。今警察に通報されたら言い訳のしようがないなと、どうでもいい杞憂が頭をかすめる。


「まっ、まっ、まっ、待て! 春風……、落ち着けッ!? と、とにかく僕から離れてくれッ!?」


 ――落ち着いてないのはアンタだろーが……

 ――心の中でしっかりとツッコミつつ、而して私も混乱しているのは事実である。


 とりあえず私は言われた通りに先輩から少し距離を取り、――果たして、ガバッと起き上がった先輩が、袖のふところにしまっていたサングラスをスチャッと装着した。


「――ふぅっ、いやもう大丈夫だ。……さ、帰るぞ、春風」



 ――えぇーーっ!?



 ――果たして、『いくらなんでも、コレはスルーできないでしょっ!?』


「どっ……、どういうカラクリですか!?」

「む……、いや別段、種も仕掛けも無い。強いていうなら神の思し召しだ……、ホラ……」


 ――果たして、『煙に巻かれる』。


 「いやいや、そんなのでごまかされないですよ」と、追撃を緩めないのがこのシーンでの正しい選択肢だったのだろうが……、而してその時の私は、差し出された先輩の白い手にくぎ付けで――


「ま、また手を繋ぐんですか……?」

「……当たり前だ。正直この暗さで、僕はもはや何も見えん。それにさっきはあんなことを言ったが……、やはり暗い夜道を若い女に一人歩かせるのも、男冥利が廃るものだろう?」


 ――だったらグラサン外せばいいじゃん……、と、喉まで出かかったツッコミを無理やり胃の奥へ押し戻し、私はゴクリと生唾を呑み込みながら、おずおずと自身の手を前方へ差し出す。細くて白い手を遠慮がちに包み込むと、柔らかい体温が私の身体を伝い、火照った全身にじんわりと汗がにじみ出て――


 先輩がムクっと起き上がり、私たちはゆっくりゆっくり、掌を重ね合いながら夜の公園を後にする。静寂が通り抜ける住宅街の一本道、家路に辿り着くまで二人の間に会話らしい会話はなかったが――、それでも私は、この時間が少しでも長く続けばいいなと……、ちょっと遠回りして帰った事実は――

 

 先輩には、内緒にしといてね?

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