其の十四 炭酸飲料――、青春をあますことなく謳歌したところで、ビタミンを体内で生成することはできない



 ――ガヤガヤガヤガヤ、ザワザワザワザワ……。

 だだっ広い空間に幾多の人の声が混ざり合い、深く低く唸るさざ波のように私の耳の中へ流れ込む。ひたすらに豪華で、ひたすらに煌びやかで、ひたすらに優雅なコンサートホールの雰囲気に私はシンプルに圧倒されていた。周りのお客さんは私たちより年上の方々ばかりで、妙な居心地の悪さを覚えた私の身がギュっと縮こまる。チラッと隣を見ると、着流しを身に纏った先輩が腕組みをしながらどしんと大股を開いて着座しており、サングラスの奥から透けた瞳で会場のど真ん中をじーっと睨んでいた。


 ――先輩、なんか肝が据わってるな。まぁ、こんな格好で堂々と街中を歩けるくらいだもんね、やっぱりちょっと人とどこかズレてるっていうか……


「……若いお客さん、私たちだけですね?」

「――む? 何か言ったか? すまんが集中していて聞いてなかった」

「……い、いえ、なんでも、ないです……」


 相変わらず先輩はジーッと中央を見据えていて、私は何かをごまかすように前髪をてぐしでいじくる。会場についてからというもの、先輩と私の間には会話らしい会話はなく(まぁ私のせいで到着がギリギリになった、というのもあるんだけど……)、『人生初デート』という大層なお題目が掲げられた私の一日に、 今のところ甘酸っぱい成分は皆無であった。


 ――ブーーッ、ブーーッ、ブーーッ……

 けたたましいブザー音が鳴り響いたかと思うと、会場を照らす橙色の光が次第にフェードアウトする。ハッとなった私は当初の目的……、「自分は『クロユリ』のライブを観に来たのだ」ということを思い出し――、というか正直、先輩のことが気になって今やそれどころではなかった。


 ――自然体で楽しめって言われても、私、いつもどうやって人と喋っていたんだろう……


 頭の中で双葉の台詞が反芻し、だけどそんなこともお構いなしに暗がりが私の視界を覆う。チケットが抽選した時は思わず小躍りして喜んだものだが、もはや私の頭の中を支配しているのは「いかにして先輩とのデートを成功させるか」の一点のみ。浮き立った心がプカプカと水面を漂い、真っ暗闇のなか、カチャリとプラスチックが畳まれるような音が聞こえる。「あっ、先輩サングラス外したんだ」と辛うじて音の正体を掴んだ私だったがそんなことはどうでもよく、気づけば暗がりと共に人々の喧騒はピタリと静まっていた。


 ――急速に降りかかったのは、『妙な緊張感』。

 なんだか「喋ったら殺される」くらいのプレッシャーを無駄に感じた私は思わずバッと両掌で口元を覆い、ドキドキと高鳴る胸の音だけが私の耳に響いており――



 次の瞬間、世界が止まった気がした。

 まっさらに透き通っているような、でもどこか黒く濁っているような――

 今まで聴いたことなんかなくて、でもどこか懐かしいような『声』。


 耳が、意識が、全神経が――、

 『私の全て』が、『彼女の歌声』に支配されていた。



 ――夏ぐれ……。

 


 真っ暗な世界で、一切のノイズが切除された空間で――

 彼女の身体から発される『音』だけが会場を包み、私の身体がフワフワと無重力空間を漂う。


 ――カンッ、 カンッ、 カンッ、 カンッ……。

 妙にエコーがかかったドラムスティックのフォーカウントを皮切りに、津波のような轟音が前方から押し寄せてくる。七色の光が世界を再び照らし、『彼女』は真っ黒なワンピースを身に纏っていた。


 ――全身から鳥肌が立ち、私は声の出し方と、思考の仕方を思い出せない。

 エイトビートのリズムに乗った彼女の声は力強く、でもその目はどこか虚ろで、一切の感情を持たないアンドロイドロボットのようだった。



 ただ、ただ、圧倒された。



 圧倒されて、全身が揺すられ、心がぐわんぐわんと転げまわって――

 ノンストップで歌い続けた彼女が、ポツンと一言、抑揚のない声を放つ。


 「次の曲が、最後です。ありがとう――」



 私が再び意識を取り戻した時には、彼女はすでに檀上から姿を消していた。




 ――一瞬にも、永遠にも感じられた不思議な時間だった。チラッと腕時計に目を落とすと悠に二時間は経過している、会場は橙色の照明に包まれており、人々の喧騒がガヤガヤとやかましく、ハッとなった私は慌てて隣に座る先輩へと目を向ける。


「せん……、ぱい……?」


 サングラスを外した先輩の横顔は、いつもの先輩の顔だったけど――


 虚ろな瞳でボーッと中央を見据えるその表情は、

 とても生きている人間のそれとは思えなかった。





 夏特有の湿った空気が私の鼻をくすぐり、アトランダムな虫の音が勝手気ままに夜空を交錯する。誰も居ない公園で二人、古ぼけた木造のベンチにポツンと座っている私たちのことを、橙色の街灯が淡く照らした。


「……先輩、具合は、どうですか……?」

「…………ああ、うん――」

「……何か、飲み物でも買ってきましょうか?」

「…………ああ、うん――」

「…………」


 ――さっきから、ずっとこの調子……


 陰鬱の混ざったタメ息が思わず漏れ出て、私は白旗を上げるかのように天を仰ぎ見た。煌々と光る月明かりはなんだか眩しくて、なんにもできない自分が一層みじめに感じる。


 ――会場を後にしてからというもの、先輩は相変わらず虚ろな目で、空っぽな表情で……、私が何を話しかけてもゾンビのような唸り声しか返って来ない。最寄りの駅に到着し、住宅街の一本道をとぼとぼと二人歩いている時に、先輩の足がピタっと止まった。


「……すまない、僕は少しそこの公園で休んでいく。君は先に帰ってくれ……」

「……えっ?」


 暗がりの中、うっすらと浮かぶ先輩の表情はなんだか青白くて、このままにしておくと先輩は溶けて消え去ってしまうんじゃないかと思った。真っ暗闇の公園へ、生気のない足取りで、吸い込まれるように歩く先輩を目で追いながら――、気づけば足でも、その背中を追っていた。




「――僕は、どうしたらいいのだ……」


 先輩が久しぶりにマトモな口を利いたかと思うと、飛び出してきたのはそんな台詞だった。急にどうしたんだろうと、思わず「えっ?」と私の口からマヌケな声が漏れ出て、色を失った先輩の瞳がユラリと私の方へと向けられる。


「……思い上がっていた」

 ――そして、深く低く、地鳴りのようなトーンの声で言葉が紡がれる。


「――前に君が言ってくれただろう? 僕のサックスを聴いて、僕の演奏に『クロユリ』を感じたって……、僕は、その言葉が嬉しくて、少しでも『クロユリ』に近づけたんだって……、そう思っていたが――、とんだ、間違いだったよ……」

「……えっ――」

「――レベルが違う。『クロユリ』の創る世界観は……、完ぺきだ。僕なんか、到底足元にも及ばない……」


 こぼすような先輩の声は、悔しさがにじみ出るように震えていた。いつもの自信に満ち溢れたトーンはそこにはなく、弱々しい音がはた喧しい夏虫の唄にかき消される。


 先輩が意気消沈している理由がようやくわかり――、でも私には、なんて言葉をかけたらいいかなんて皆目見当がつかなかった。取り繕う様に口を開き――


「そんな……、そんなこと、ないですよ。先輩のサックス、私は――」

「――そんなこと、『ある』だろう?」


 ――冷たいナイフみたいな先輩の声が、私の喉仏寸前でピタリと止まる。


「……君も、感じたはずだ。あの……、一切の雑音を排除し、ただただ自分の世界観だけに没頭し、他者を、空間を、世界を――、全てを支配して虜にする、圧倒的な、『音』を――」


 私は思わず、喉を詰まらせた。

 何故なら、『その通り』だったから。


 生で聴くクロユリの声は、デジタル変換されたCD音源なんか比べ物にならないくらいに、私の心を、感情を、強く揺さぶったのだ。


 ――先輩は言っていた、「一人の奏者として彼女を『超える』コトを目標にしている」と。

 ――先輩は言っていた、「まずは『クロユリ』の世界観を表現できるようになってから、自分だけの世界観を表現していく」のだと。


 ……そんな人が、あの音を、あの演奏を見せつけられたら、どんな気持ちになるんだろう――

 「ショック」なんて言葉では片づけられないくらいの、絶望を感じてしまうかもしれない。


「……で、でも――」


 ――口を開くも、続く言葉が出てこない。

「先輩がどれほど深く傷ついたのか」、想像もできない私が彼を慰める権利なんてない。何を言っても陳腐で、上滑りするような言葉にしかならない気がして――


 ――先輩の演奏に『クロユリ』を感じると言ったのは『私』だ……。先輩を『クロユリ』のライブに連れて行ったのも『私』だ――


 ふと、罪の意識が芽生え、どす黒いモヤがじわじわと胸の中に広がる。いよいよ私は、声の出し方を思い出すことができなくなった。


「――春風、すまんが、明日から屋上に来なくていい」

「……えっ?」


 幾ばくかの沈黙を経て、静寂を破ったのは先輩の声だった。


「……正確に言うと、『来ても無駄』だ。僕はもう、サックスを吹かない。というか、音楽そのものに、もう関わりたくない……」

「そ、そんなっ!」


 ――悲鳴のような声が漏れ出て、危機感と焦燥感が全身に巡る。「自分が先輩に会いに行く理由がなくなってしまう」という邪な思いもちょっとだけよぎったが――、どちらかというと、愛でるように指を動かし、風に委ねるように身体を揺らし、目を細め、自分の世界に没頭するように――


 一心にメロディを奏でる先輩の姿を、見られなくなるのが嫌だった。


「――さっきは言いそびれちゃったけど、私は、好きですよ、先輩の演奏……、辞めて欲しく、ないです……」


 しりすぼみな私の声が、湿った夏風にさらわれる。


 フッと自嘲気味に笑う先輩が、何もない空間を見つめながら――

 ぶっきらぼうに、言葉を放る。


「僕くらいの、程度の知れた奏者。そこらへんを探せばゴロゴロいるだろう。市民館のコンサートにでもあしげに通って、適当にファンにでもなればいい」

「……っ!」


 ――果たして、『投げやり』。


 やさぐれきった先輩から漏れたその一言は、

 あまりにも粗暴で、

 あまりにも節操が無くて、

 あまりにも、私の気持ちを無視していて――


 私はシンプルに、ちょっと『イラッとした』。



「――カッコ悪っ」

 そして、喉から勝手に声が漏れ出る。

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