其の十 亜麻色想い――、夏虫の鳴き声が、時計の針を再び動かして


「モモカ、今日帰りに難波屋行かない?」


 部活動の終わり、錆びついたロッカーをバタンと閉じ、スクールバッグを肩にかけたところで友人に声を掛けられる。「あっ」と小さく呻き声を漏らし、もじもじと何かを言おうと逡巡している私を見ながら、ジト目になった友人が私の顔を窺い見る。


「……なになに? 私の誘いに乗れないっての? ……さては、アンタ、男でもできた!? ――って、モモカに限ってそんなワケ――」

「えっ!?」


 友人の台詞、『男でも』のタイミングで私はすでに大声をあげていた。一瞬の静寂が私たちの間を駆け抜け、友人は間の抜けた顔をしながら間の抜けた声を出した。


「……冗談、だったんだけど、まさか、マジ――」

「ちっ……、ちがっ、ちがっ、ちがっ、ちが――」

「――茅ヶ崎?」

「ちがさっ……、なんでやねんっ!?」


 顔を真っ赤にしてブンブンと手を振る(あと浪速ツッコミを強要された)私に眼前、友人の目がだらしなくふやける。


「……はッは~ん、いや~、まさかモモカがね~、あのモモカがね~、いや~、おばさん嬉しいわ~~」

「――違うって言ってるでしょ! 久しぶりに会った親戚か!」


 ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべる友人に対して、私は真っ赤な顔で地団駄を踏んでいる。――ダメだ、これでは事実を認めたのも当然の態度……。

 観念した私は、せめて変な噂が立たぬようにと、正直な気持ちを白状することにした。


「……彼氏ができたわけじゃないよ、ただちょっと、最近、き、気になる人が――」


 ――言いながら、声が尻すぼんでいくのが自分でもわかる。照れる私のリアクションが面白いのか、友人があらゆる角度から私の顔を眺め回す。


「ちょっ、な、なによ……」

「……いや、うら若き乙女の初恋の顔を、この目に焼き付けとこうと思って」

「――やめろ! ってか同い年でしょーよ!」

「……恋愛歴という意味では、小学校五年の時から彼氏がいた私の方が上よ」

「――ぐっ……、ってかアンタがませすぎなのよ……」


 アハハと愉快そうに笑う友人とは対照的、私はちっとも面白くない。ぷーっと頬をふくらましてそっぽを向いた私に対して、友人はゴメンゴメンと全く反省の色が無いトーンで謝った。


「そういうことなら、しばらく難波屋はおあずけね……、その恋が無事に成就したら、好きなたい焼きをいくらでも奢ってあげるわ」

「――えっ! ホント!?」

「……やっぱり三個までにしてね」


 はぁっと呆れたようにタメ息を漏らした友人は帰り支度が終わったみたいで、「じゃあね」と漏らしながらガチャリと更衣室の扉を開けた。

 ――かと思うと、ふいに何かを思い出したかのようにピタっと動きを止め、くるっとこちらを振り向く。


「――そういえば、ヒマリ君がアンタのことを探していたわよ。ついさっきだから、まだ自転車置き場に居るかもね」

「えっ? ヒマリ? なんだろう……、あっ、ありがと――」

「――もしかして、アンタが好きになった相手って……?」

「あ、違う違う。コレはホントに違う。ヒマリじゃ、ないよ」

「……だよ、ね。うん……、じゃあ、また明日――」


 キィッと鉄が軋む音が寂しそうに鳴り響き、友人の背中が古びたアルミサッシの扉に隠れる。がらんとした更衣室で一人、私は髪ゴムを使ってひとくくりのポニーテールをきゅっと結んだ。




「――あっ」

「――おっ」


 思わず漏れた二つの声が交錯し、私の眼前――、癖の強い茶色い髪がフワリと揺らぐ。


 夕暮れの学校、シンとした静寂に包まれている自転車置き場。


 サドルにまたがっている向日葵は今まさに学校の裏門から外に出ようとしているところで、キィッとタイヤを急停止させる音とともに、眼前の少年がニコリと屈託のない笑顔を見せる。


「よかった。モモカ、お前もう帰ったのかと思った」

「あ、うん……。なんか、ヒマリが私を探しているって聞いて」


 ミンミンとセミの鳴き声は勢いがよく、日が傾いてきたとはいえ肌の上にはジンワリと汗が滲んでいる。向日葵はポリポリと照れ臭そうに頭を掻いており、小学校から変わらない幼馴染の笑顔に私はふと安寧を覚えた。


「いや、用事ってわけじゃないんだけど、家近いし、たまには一緒に帰ろうと思って」


 夏休み、虫捕りに誘う少年のような笑顔が私の眼前で眩しく輝き――、モヤモヤと胸の奥から広がる罪悪感の理由がわからない。思わず目を逸らした私は、コンクリートの地面にポツンと言葉を落とした。


「……ゴメン、ちょっと、まだ学校に用事があって」

「えっ、今から?」

「うん……」


 ミンミンとセミの鳴き声は勢いがよく、私と向日葵の間を無節操に流れる。「そっか」とこぼした向日葵の声は淡々としており、ハハッと笑った彼の顔は少し寂しそうに見えた。


「モモカ、昨日から元気ないからさ。考えゴトしてるとか言ってたし……。話でも聞こうかと思って」

「……えっ?」

「い、いや……、何もないなら、いいんだけどさ――」


 驚いたような声を上げたのは『私』で、歯切れ悪く声をどもらせたのは『向日葵』で――

 珍しく神妙な顔つきの向日葵に私は動揺してしまい、脳裏によぎったのは昼休みの双葉の言葉。


 ――男の子の気持ちは、『男の子』がやっぱり一番理解できると思うの――

 

「あっ、あのさ――」


 ――思わず、声を上げた。

 「ん?」となんだか嬉しそうにこっちを見る向日葵に対して――、でも私はそこで口を閉ざしてしまった。喉の奥にフタがされてしまったみたいに、私の心の中で言葉の渋滞が起きている。


 ――まるで、誰でもない誰かが、透明な手で私の口を塞いでいるみたいに――


「――ゴメン、何でもない……、ちょっと最近眠れないだけで、大したことじゃないから、気にしないで……?」


 言いながら無理やり口角を上げ、眼前の少年の瞳を見つめる。相変わらず神妙な顔つきの向日葵が、何かを言いたそうな顔でやはり私の目を見つめていたが、やがてくしゃっと顔を潰して、無邪気な声で笑った。


「――そっか。そんなら、良かった……、じゃあ、また明日、な――」

 そう言って、グッと足に力を込めた向日葵が自転車を発進させる。校門をくぐったところで彼は首だけこちらを向けて、片手をブンブンと振りながらその姿がフェードアウトした。私も自身の胸の前で遠慮がちに手を振っており――、もやもやと広がる罪悪感の理由は、結局最後までわからなかった。



 錆びついた鉄が軋む音が青空に響き、灰色の地面がひたすら広がる。

 その人は、相変わらず自分の世界に没入するかのように、一人サックスを吹いていた。


 ――学校の屋上、橙色の空に濃い藍色が混じり、そこには私と先輩だけが存在している。


 約五メートルほど離れた距離、肩に掛けていたスクールバッグを地面に置いた私は、ちょこんと体育座りをしながら先輩の演奏に耳を傾ける。奏でられているのはやっぱり『クロユリ』で、曲は『メランコリー』――、艶めかしい彼女の歌声が幻想的なサウンドに包み込まれ、なんだか大人びた気持ちにさせてくれる不思議な楽曲だった。

 ふと、音が鳴りやみ、先輩がチラリとこちらに目を向ける。


「……なんだ、いたのか。今日は遅いから、もう来ないかと思った」


 先輩の低いトーンの声に、私の心臓がドキッと動く、――コレ、先輩も少なからず私のことを気にしてくれていたってことじゃ――


「は、はい、ちょっと部活の友達と話していたら、遅くなってしまい……」

「――すまないが、もう遅いし、そろそろ切り上げようと思っていた所だ」

「あっ……」


 しおしおと萎れた声が私の口から漏れ出て、私はなぜか立ち上がることができない。もじもじと身体を左右に動かしている私に向かって、先輩が訝し気な目線を向ける。


「……なんだ、帰らないのか?」

「……えっ?」

「いや……、君の目的は、僕の演奏を聴くことだろう。その僕がもう止めると言っているんだ、君がココにいる理由はないだろう?」


 ――果たして、『おっしゃる通り』。

 理路整然と、無味乾燥に――、紡がれた先輩の言葉はごもっともすぎて隙がない。


「そう、ですよね……、ハハッ――」


 重い腰をのそりと上げ、パンパンと申し訳程度にスカートを払った私は、地面に置いていたスクールバッグを背負い、グッと扉のドアノブに手を掛ける。鉄の冷たい感触が私の掌に伝い、何故か頭の中に浮かんだのは向日葵の寂しそうな笑顔で――


「あ、あのっ――」


 ――気づいたら、くるっと振り向いて、声を上げていた。

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