04:artbook 画架


 夢だとわかっていたけれど、架空の戦場で撃たれ、ほたるの腕の中で死ぬ自分を悪くないと思った。生きるのが辛いからといって、眠りながら胸の痛みを肉体のそれに変換する必要はない。苦難は人間を卒業するその日まで精神を呪い続ける。

 久遠くどおあさひは堕落した講義が終わっていないことにうんざりしつつラフ画だらけのノートを捲った。

 未だにあの噂のせいで周囲から危険人物扱いをされている。下品な仲間を作りたくて来ているわけではないので、適当に学び、熱心に絵を描いて単位を貰うだけだ。

 窓の外に緑を探している最中、不意に蛍の存在を思い出して迷路に囚われる。

 やはりこちらから連絡先を訊くべきだったのだろうか。拒絶される雰囲気ではなかったが、そういう目的で助けたと誤解を受けたくない。できれば彼女の方からフォンの番号を教えてほしかった。

 このすれ違いが、未来の惨劇を知っている誰かからの、二度と会うなという暗示だとしたら笑える。

 公園で過ごした後、言いかけていた話も聞けないまま駅で別れてしまった。

 無罫の紙の上に、蛍の生意気そうな目線の陰と、あたたかく色づいた唇を思い浮かべる。


 大学から帰るとポストに驚愕のメモが入っていた。

 見覚えのある硬い筆跡ですぐに気づいたが、差出人は件の宇多川うたがわ蛍で間違いなく、『もしかすると致死レベルの面倒事に巻き込むかもしれないけど、それでもよければ海岸通りのカフェに来て』と書かれている。

 素っ気ない割に、典型的な脅迫文より命の危うさについて考えさせられる内容だ。

 今回の依頼に応じなかったとしても、いずれまた街のどこかで彼女と再会するのだろう。

 通学用の鞄を部屋に置き、午後に予定していた課題制作を保留にして店へ向かった。



 カフェに入ると先に到着していた蛍が立ち上がり、開いていたテキストを片づける。

 ワンピースの形をしたグレーの学生服に白いカーディガン。肩の上で切り揃えた髪。

 成績の順位は不明だが、持っているはずのフォンで暇を潰さないところに彼女の理知的な一面を覗いた気がした。

「旭。外で話したい」

 呼び出したくせに核心に迫ることを怖れているような緊迫感だ。

 テイクアウトでつまらない珈琲を入手して場所を移す。

 一歩踏み出せば海、という埋立地の手摺に腕を載せた。風は淡く、水面も静かだ。

 蛍は乳白色の囲いに背を預けて人々の往来を眺めている。

「来てくれると思わなかった。放っておいてもよかったのに」

 彼女は遠くを見つめたまま乾いた声で言う。

「……何かあったのか?」

 控えめに訊いてみたが、内側を語りたがっている様子はなく、こちらから踏み込んでほしいのか、それとも今すぐには立ち入らないでほしいのかを判断するのが難しかった。

 沈黙の濃度が息苦しくて頭の中のイーゼルを破壊したくなる。

 無理に顔を上げ、カモメを追いかけている少年を視界の端に捉えたとき、幼い頃の記憶がかれるように欠如している自身の不気味さを味わった。平間ひらま医師は一時の健忘だからと穏やかだったけれど、額縁に絵が戻らないのはなぜなのか。

 こぼれそう、と差し伸べられた蛍の手に珈琲を救われて我に返った。

「わたし、殺されるかも」

 奇妙な眩暈がする。

「誰に……?」

「それはわからない。未解決事件の犯人を知ったから」

 要領を得ない情報開示。謎めいた危機感。悪を保護する法と警察。

 すべて、あの遺書がもたらした毒だとすれば辻褄が合う。預かった秘密を軽々しく打ち明けるわけにもいかず、選択を誤れば犠牲を増やす惧れがあるので躊躇っているのだろう。

 憶測が当たっているとしたら勝算はゼロに近い。

「現物見てないけどそいつたぶん、笑顔殺人鬼の系統だろ。罪の償いをさせるために愉快犯を追い詰めるのか? 駆け引きは得意じゃない」

「嫌なら断って」

 毅然とした口調とは裏腹に、大人っぽく装った瞳が突き放さないでと訴えている。

 人を信じて頼ることに命を懸けるほどの勇気と覚悟が求められているとしたら、嘘と策略が張り巡らされたこの世界の異様さを疑うべきだ。

 感情に振り回され、束の間の低温に染まったとしか思えない蛍の無口な横顔に、薄い言葉では掴み出せない戸惑いが沈んでいる。

「気が乗らないなら詳しくは話さなくていい。望んでることを簡潔に言ってくれ」

 険しく押し黙った後、彼女は意を決したようにこちらを向いた。

「死んだ同級生の仇を討ちたい。力を貸して」

 たとえ報われない最後が待っているとしても、退屈に揉まれて朽ち果てるよりはましだ。

「好きに使えよ。記録は任せろ」

「怖くないの? 関わったら旭まで……」

 不安げな面持ちで蛍が視線を外した刹那、ひと際強い風が吹いて、光を反射した彼女の髪が彼方の水平線へ誘われていく。

 この街そのものが巨大な病棟だ。どう生きても救いはない。

 だから命を削る痛みを受け入れる。

「俺はいつ死んでも構わない」

 蛍が鏡に映したように同じ微笑い方をした。

「わたしも」



                               artbook:04 end.

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