02:artbook 木炭


 空が重く翳っている。

 久遠くどおあさひほたるの腕を引いて駅へ急いだが、音を立てて降り出した雨に忽ち追いつかれてしまった。

 突然のスコールだ。傘を差して歩いていると服より先に靴が死ぬ。

 蛍は膝の擦り傷に水気が沁みるらしく、罠に嵌った小鹿のような瞳をしていた。

 気疲れするので選択肢から外したけれど、適当なカフェにでも避難すべきだったと後悔している。店を過ぎてしまい、身を寄せる場所がないので蛍を自宅に誘った。


「『ヒラマこどもクリニック』……? ここに住んでるの?」

「そうだけど」

 大学から近いこともあり、役目を終えた建物を譲って貰った。しかし、ときおり現れる患者が厄介だ。灯りの切れた電光看板を未だに外していないので、就寝中、家族愛に満ちた慌ただしい声に何度も起こされたが、どうしても無視することができなかった。医師の不在を詫び、子ども向けの絵を描いた受入先の地図を手渡している。

 錠を解き、水滴だらけの硝子扉を押し開けた。蛍は複雑な面持ちのまま動こうとしない。

 力では男の方が有利かもしれないが、知らない人間を警戒したいのはこちらも同じだ。襲われたなどと騒がれた場合、潔白な生き様を踏みにじられて刑務所で暮らすことになる。

 やがて諦めたように歩き出した蛍を迎え入れて扉を閉めた。

 雨の湿度と混ざり合った絵の具の匂いが廊下にまで漂っている。絵画依存の末期だ。

「あなたの名前、ひらまさんでいいの? 何て呼んでほしいか言って」

「センセイとは親子じゃない。……俺、孤児になったかも。家から連絡ないし」

「そうだとしてもひとりで生きていけるでしょ?」

 適確なレスポンスだ。変態の部下に殺されなくてよかった。

「旭でいい」

 姓をよく聞き違えられるので、仕方なく学生証を見せた。

「わたしのもどうぞ」

 差し出されたカードには確かに『宇多川ウタガワホタル』と記載があり、子どもっぽくはしゃいでいる奴らを軽蔑するような、可愛げのない顔写真が添えられている。

「少し笑えよ。無表情すぎるだろ」

 からかってみると蛍は挑発的に首を傾け、こちらの学生証を胸の辺りに軽く叩きつけてきた。

「同じこと言ってやりたい」

 口調と態度は生意気だが、写真の冷たい印象よりはましだ。

 髪の先から滴る雫がひっそりと凍えている。成り行きで招き入れた客人にパーカとハーフパンツを渡して自分の着替えを済ませた。


 かつて処置室だった部屋に彼女を案内し、教わった通りに消毒をしてガーゼを貼る。

 それを見て何を思ったのか、蛍が唇に手を遣って笑い出した。

「変な転び方したみたい」

「事実だろ」

 2階から道具を運び、余っていたフィルムに膝と同色のペイントをして上に被せた。

「ねえ。駅前広場でスケッチしてる青年に、好きな人の似顔絵を描いて貰うと恋が叶うって話、聞いたことない? クラスの子が情報回してた。……もしかして旭?」

 自分の過去を緩く笑いながら受け流す。

「人違いってことにしといて」

 この報復めいた雨はいつ止むのだろう。

 ふとした隙間に「手紙、ここで読んでいい?」と問いかけられ、2階を勧めた。不完全な絵が散らばっているだけの簡素な居住スペース。遺書は、書き手がおそらくそうであったように、孤独な空間で開封されるべきだと思う。

 蛍は小さな声で礼を言い、白い封筒を胸に抱えて廊下の階段を上って行った。

 女子にしては少し背が高く、肩に届かない髪の黒が綺麗で、敵に与した戦友を躊躇なく斬り捨てそうな潔い後ろ姿だ。自殺する人間は何かが欠けている、と悪魔より怖ろしい言葉を口にするような奴らと繋がることは絶対にないだろう。それだけで充分だ。

 無駄に走ったせいか酷く疲れ、眠気の濃密泡に顔を埋める感覚でデスクに伏せた。



 目覚めた頃には雨音も静まり、辺りが虚ろな暗闇に覆われていた。

 背中に備品の綿毛布が掛かっている。適度な重みが心地よくて眠りすぎてしまった。

 廊下に出てみたが、2階に灯りが点いている気配はない。

 連絡先を交換しなかったので、彼女がここを訪ねて来なければ再会する確率は低いと思ったが、階段の手摺に硬い筆跡で『服は洗って返します』と書き置きがある。

 面倒事を避けると決めたはずなのに、なぜ自分から関わりを持ってしまったのか。もう二度と他人には戻れない。

 偶然助けられたとはいえ、蛍が初対面の自分について来た理由も謎だ。あの手紙、あるいは彼女自身が何者かに狙われていたとすれば納得できなくはない。

 ぼんやりとした頭でポストを覗くと例の封筒が突っ込まれていた。コピーされた日記の文を書き写して挿絵を添え、サイトに載せるという闇バイトに精神を蝕まれている。

 執筆者の『私』はこれから人を殺すらしい。手書きでなければ気味の悪い小説のようだ。

 日記の死を回避する目的でネット上にデータを保管しておきたいのか、それとも別の意図があるのかは明かされていないが、依頼を受けたからには遣り遂げなければならない。

 奇妙な夜だ。

 蛍が学生証で叩いた左胸に、いつか思い出になりそうな若葉の余韻が残っている。



                              artbook:02 end.

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