旭、君は間違っている
satoh ame
01:artbook 画用紙
ベッドに寝転んだまま絵を描くことを、いつから始めたのか思い出せない。
呪いのように繰り返される中途覚醒。
時計を確かめなくても、静けさと空気の匂いで夜明け前だとわかる。
黒いカーテンを閉め切った部屋は暗く、気分の乗らない課題の構想にふさわしい。
ひととき何も考えず、ささくれた感情を白紙で覆って没頭する。逃避の手段として絵を描いている人間が悪だとすれば、あの低レベルな美大の中で自分が真っ先に処罰されるだろう。
やがて怠くなってきた腕を投げ出し、もう一度目を閉じる。
朝はまだ遠い。
ベッドの隅に追いやられた鉛筆が床に落ちる音が聴こえた。
カーテンの隙間から射し込む光に抗えるほど強くはなく、降参して青空の傘下へ。
マグカップに注いだミルクとシリアルを半分以上残して部屋を出た。
・
学内を歩いていると、周りの生徒の警戒心に気づかないふりはできない。
不愉快な視線。不気味な陰口。不機嫌な自分。
先日、いじめの報復と思われる現場を仲裁せずに眺めていたところ、警察から犯人ではないかと疑われ、このふざけたエミスフェール美術大学の要注意人物となった。
あの日の出来事は細部まで憶えている。夜の公園に訳ありな雰囲気の女子が5人。学生服姿の4人を、破れたジャージが金属バットで襲撃していた。
あれを止めるのは最低だ。復讐くらいさせてやれと思う。
その後、半殺しにした4人を置いてジャージが逃走し、通行人が警察に連絡。公園内のブランコでひとりスケッチをしていた自分が嫌疑をかけられた。
同じ大学の者に一部始終を目撃されていたのか、『水彩科の久遠が女子高生を拷問したにも関わらず、警察でそれなりの地位にいる父親が犯行を揉み消した』と事実無根の噂をばら撒かれている。
好奇心とひと匙の毒。他人の生み出す面倒事が鬱陶しくてうんざりだ。
人間が集まる場所特有の居心地の悪さについては沈黙すると決めているけれど。
講義の合間を見計らったようにポケットのフォンが振動し、画面を一瞥すると公園事件の刑事だった。
彼の話によれば、数日に渡り逃亡していたジャージが、走行中の列車から飛び降りて死んだらしい。自殺するつもりで乗り込んだのだろう。覚悟はしていたが後味が苦すぎる。
今後は何を見ても無関心を装ったまま距離を保ち、厄介な物事を意図的に回避するしかない。これを徹底しない限り問題が絡みついてくる。
・
帰路の途中、店が建ち並ぶメインストリートの裏を進んでいると、生々しい悲鳴が耳を掠めた。こういうとき、自然に方向転換ができる通行人が羨ましい。
「次は何だよ」
見覚えのある学生服が視界に映る。薄いグレーのワンピースに白いスカーフ。駅の辺りでよくすれ違う
そちらの女子生徒が、迫ってきた男に通学鞄を奪われたらしい。最近この手の犯罪が密かに横行している。飲みかけのペットボトルや使用済みのリップクリームなどを変態が高額で引き取っているとニュース番組のアナウンサーが打ち明けてくれた。深刻な脅威だ。
少女は必死に鞄を取り返そうとしている。
男が制服の襟を掴んで細い身体を路上に引き倒した。それでも彼女は諦めない。
すぐに体勢を立て直して鞄の持ち手を掴み、変態の部下を振り払おうとしている。
裏通りは3人だけの貸し切りで、正義感の塊のような救世主も見当たらない。
手を離さないことに苛ついたのか、男が少女の脚を蹴って転ばせた。
女の力では敵わない。暴力を振るわれた上に鞄も盗られる。今回は特例だ。
「おい、やめろ。殺すぞ」
軽く脅して間合を詰めると、男は自分のものになりかけていた鞄を投げ出して逃走した。
「……大丈夫か?」
少女はゆっくりと立ち上がりながら頷いた。肌が白く、適度にすらりとしていて、黒い髪を肩の少し上で切り揃えている。激しく争っていた割に冷静な表情だ。
膝の血を拭い取った淡い紫のハンカチに綺麗なレースが縫いつけられていた。
「助けなければよかったって思ってる? ……でも、ありがとう」
彼女は、鞄の中に友人の遺書が入っていると言った。
その落ち着いた声と澄んだ色の唇に、いつか自分が救われる気がして目を逸らす。
「
泣いていると思われたのか、華奢な指が何かを深く問いかけるようにトレーナーの袖をつまむ。
いずれこの日を後悔するときが来るだろう。
出会ったことは運命ではなく、出会いを避けられなかったことが運命だ。
artbook:01 end.
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