1-11
――その日、俺は指の骨を折った。六歳くらいの頃だったと思う――。
幼かった俺は、骨折なんてものの意味がちっともわからなかった。何故だか指が物凄く痛い、と率直な感想でしか思考は働いてくれない。でも、中指と薬指が、普段決して曲がる事のない方向へ直角になっていたから、あの時は確かに骨折していたのだろう。
その日は、家族でピクニックに出掛けていた。ゴールデンウイークの二日目。どこかに行きたいと、前々からやかましく騒いでいた俺のわがままがやっと叶ったのだった。
小さな山の小さな野原。でも数十人は内包できる緑一色の空間。都会の喧騒から断絶された落ち着ける自然の平野。
俺たち四人家族と、他にもいくつかの家族の姿があった。子供がはしゃいで親はそれを見守る、または一緒に遊ぶ、ごく普通のありふれた一家団欒。緑に囲まれての楽しいひとときだった。
うちの場合、前者。つまり俺だけが駆け回って騒いでいた。父さんは、俺に遠くに行くなよなどと声をかけるなり見守っていて。母さんは、遊び疲れて眠くなってしまった妹に子守歌を聞かせていた。
開放的な場所で気ままに走り回り、気分が高まっていた俺は、小さな木によじ登り始めた。四メートル程しかなかったのだが、幼稚園児にとっては大木だ。目的なんてない、ただ単に高みに好奇心を抱いただけの話。誰しも経験あるだろう?
で、落ちた。足を滑らせて。
咄嗟に出した手から地面についたので、体の方はかすり傷で済んだが、やはりその手の方は無事ではなかった。落差は大人の身長ぐらいしか無かったのだが、幼い骨はあまりにも脆弱すぎる。腕じゃないだけ幸いなのかも知れない。
当然、泣き叫んだ。痛みを大きく主張して、泣いて泣いて泣いた。
見ていた父さんが急いで駆けつけてきた。俺の指を見るなり青ざめて、俺を抱きかかえて、病院に連れて行こうとして――母さんに止められた。妹は既にシートの上で安らかな寝顔。
父さんは言葉も出せずに呆然としていた。息子が指を折って泣いているというのに、その母親が至って平然と優しく微笑んで、細い体格で行く手を遮っていたから。
そんな父さんの姿も気にせず、母さんは、俺の傍まで近寄ってくる。とても優しい笑顔を見て、痛みが少しだけ和らいだ気がした。その慈愛に満ちた瞳に対する、言いようのない安心感と、本能による恐怖心によって。
日の光を背にして陰がかかったその顔は、天使か――悪魔か。……何故か、その二つが浮かんだ。
母さんはそっと、それはもう絹みたいな軽さと優しさで、俺の折れた指に自分の手を置いた。そのまま、暫くの静寂。
母さんは微笑んだまま、手を動かさず。
俺は涙を流したまま、じっと堪えて。
父さんは戸惑ったまま、何も出来ずに見つめ。
妹は眠ったまま、小さな寝息を立てて。
端から見たら、木から落ちて泣く息子を父母があやしている様にしか映らないだろう。誰も、大きな怪我をした事、子供が指を折った事に気が付かない。それほどまでに、息子を前にした母親の姿が落ち着いていた。
しばらく見つめていた父さんは気付いたように、または思い出したように、周りを気にし始めた。まるで、何かが知られてしまう事を怯えるように。
程なくして、母さんの手が離れてゆく。
その下にあった俺の指は、元に戻っていた。木から落ちる前の――いや、木に登る前の手に。骨も折れていない、枝を掴んだ時の引っ掻き傷もない、何も触った事がない様な綺麗な手に。
お母さんが治してくれたの?
幼い俺は訊ねた。
あなたが自分で治したのよ。
母さんは答えた。
その時、俺は思った。
不思議な光景を前にしてクエスチョンマークで頭が一杯だったのだが、一つだけ決意した事がある。
――これは決して話してはいけない、これは絶対に広めてはならない、と。今のは普通じゃないんだ……と。
後で父さんに念を押されたけど、そう言われる前から、その場で俺は自分だけで決めたのだ。
――天使か――悪魔か――。
……やはり、母さんの微笑みは、その二つを孕んでいた。
思えば、その時からかも知れない。“この人は何かおかしい”と思い始めたのは。
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