天罰執行 4

まどろみの海の中に、光が差し込む。

まだここは海の底ではない。しかし沈んでいくのは止められない。いつかは底に落ちてしまう。だからその前に。

もがいて、足掻いて、手を動かし、足を動かし、上を目指す。

だがそれは、幻覚に過ぎない。この手も、足も、何も動いてなどいない。

「ダーメ。こっちきて」

暗くて何も見えない部屋には、男と女が居た。互いに下着だけで、他は何も身に着けてなどいない。

男は女に手を引かれるがままに、その後ろについていく。

女は男をベッドに押し倒すと、その上に体を重ねる。

女は男の手に指を絡め、包み込む。

「……握って」

女がそう言うと男は黙って絡められた指を握り返す。まるで男に意識はなく、女の傀儡であるかのように。

そして空いているもう片方の手を取り、女は男の手を胸に近づける。

「……触って」

またも女に言われるがままに、下着の上からその隠された場所に思いを馳せるかのように、指が動く。

女は満足そうな笑みを浮かべ、甘い吐息を漏らす。

「ねぇ……私のこと、好き?」

女はまるで男に支配されているかのように、体をくねらせる。それが望みであるかのように。

男は女の問いにただ黙って頷いた。

「フフフ……私もだよ」

息を荒げながらその体を密着させ、男の首元に顔をうずめる。

まるで愛犬を可愛がるかのように顔をなで、舌を這わせ、首筋を蜜で濡らす。そして最後に舌の先で首の頸動脈を探し当てると、まるで我慢できたご褒美を与えるかのように、脈打つその血管を甘く噛む。

「ねぇ私、もっと欲しいの……欲しくて欲しくて堪らない……」

首元から顔を離すと、よだれが糸を引きながら男の顔にまとわりついていく。そして両手を口元に添え、親指を口に当てると、男はまるで最初から力なんてものがなかったかのように口を開けた。

女は微笑むと同じように口を開けて、いたずらなように舌を出す。

「んべぇ……」

舌を伝って、よだれが男の口の中へと流し込まれていく。

そのよだれは透明ではなく、黒く濁っている。

「私を満たして」

女がゆっくりと顔を近づけるごとに黒い水はその量を増していく。

男の口内に溜まりに溜まった黒い水が、口の中に収まりきれずにあふれだす。

気道が塞がり、息をしようと体が酸素を欲し、もがき苦しみ始める。

必死に呼吸しようと、嗚咽と共に口の中で混ざり合った黒い水がしぶきを上げ、噴水のように女の顔にかかると、女は恍惚の笑みを浮かべた。

そしてそれが皮きりであるかのように、今度は女の目からも黒い水が流れだし、男の顔面に雨のように降りしきる。

女が喜びに体を震わせると全身の穴という穴から黒い水が那由他の如く溢れだし、すべてをおかしていく。

そして二人の体は、黒い海に沈んでいった。




「――なんてエッチな夢なんだぁ!」

今日の青木上葉の目覚めの開口一番は、それだった。

「っは!夢か」

さっきも夢だと言ったのに、まるで夢であることにあらがうかのように、ベッドの上でソワソワし始める。

そして心の中で神よと仏もとワンチャンを連呼しながら、布団をめくり、ベッドに黒いシミが付いてないか何度も確認するが、そんなものはどこにもない。

だがそこにシミはあった。

上葉の頬を伝った涙だったが。

「夢かよ――」

涙を呑み、夢が消えぬように頭の中で反芻するか、所詮夢は夢。すぐさま頭の中の海で泡となって消える運命。そう、それはかの有名なマーメイドプリンセスの最後。

「これが……!人魚姫の気持ち!」

「朝っぱらからなに騒いでんのアンタ……」

ベッドの上で猫のように丸くなっているところを目撃され、少し、照れる。これがアンデルセン童話の巧妙な罠ってわけね。あらゆる人間が悲しみをあらゆる意味で覚える。見ろよアンデルセン、あの蔑みの、前髪で見えないけどきっと紫苑は上葉に必殺サゲスミアイを繰り出している。

「えっとね紫苑さん……その、人魚姫がね? これは約200年も前からのアンデルセンの罠でね? 孔明より巧妙だよあの童話作家!」

「わっけわっかんねーこと言ってないで昨日の残り温めといたからはよ食え」

表情が見えなくてもおバカに配慮された声のトーンでわかる。彼女の心の声が。馬鹿阿呆その他もろもろこの場面で思いつくすべてのフィーリングが込められている。

寝室から出る紫苑を追いかけるように後ろに張り付いた上葉は、ふと彼女の背中に目を奪われる。

視力を上げるかのように目を細めるが効果があるかは知らない。ただTシャツの上から薄っすらとあるのはわかるが確かなことがわからない。色さえわかればよいのだが、いや形も確認しておきたい。何のことかと言えばもちろん、下着の話である。

「あ?」

不意打ちで後ろからTシャツをめくられ固まってしまう。困惑する紫苑をよそに、まじまじと上葉はそのぐうたらしてる割には意外と綺麗な白い肌を観察する。

「ブラかと思ったら肩甲骨だったか。夢だと下着つけて……あれそもそもつけてたっけ?」

「朝は寒いわぁ!」

気温が低い日々のおかげで暖房費が年中マシマシ。服をめくられれば寒さが一気に服を駆け巡る。なのでこの寒さへの復讐と、おはようの意を込めた振り向きざまの脳天チョップ。しかし上葉は手を放したがまったく効いていないようである。

「地球が冷えてるからな。ところでお前……」

氷のように溶けて水になった記憶をすくい上げ、夢の内容を思い出そうとするが、もう断片的にしか思い出せない。あれは彼女だったのか。それとも別人なのか。それともこの前立ち読みしたブツの表紙のスレンダー系グラビアアイドルか。夢は深層心理が反映されると聞いたことがある。夢だとしてもあれが誰なのかは気になってしまう。

「? なに?」

しかし、直接聞くのは何というか、できない。その先を考えようとしても思考できない。なんとも言えない不思議な感覚である。少しばかりの違和感を覚えてしまうほどに。

「いや、やっぱ何でもない。あ、そうそう俺今日ちょっと大学行ってくるから」

「え? あっそう行ってら……いや待て、じゃあなぜアタシの背中見たオイ」

「この裏海には……謎が多い……」

意味深な表情でテキトーなことを言い誤魔化し、食卓の前に座り朝のお天気コーナーを凝視する。このお天気お姉さんも夢と似てる、あれもしかして誰でもいいんじゃ? などと考えながら、スリーパーホールドを首に食らい続けながら、気にせず朝飯を食らい続ける。

「誤魔化してないで詫びとしてプリン買ってこいやぁ……!駅前のな!」

「大学と駅逆方向だからヤダ」

「逆だから罰なんだよ!」

がんばって技を決めようとしてどんどん体制がおかしくなっていき、現代アートみたいになっている。何を伝えるかなど興味はない。上葉が興味あるのはお天気お姉さんのボディラインである。スカートの上からでもふとももの太さがわかる。

「あ!またお前女の尻見てんな!」

今日の天気も寒そうだ。ニュースキャスターは防寒具の着用を勧めている。

いまは夏だというのに、天気予報には雪マークが散りばめられている。

この地域での話ではない。世界中が冷えている。

だからといってこの町のせいではない。ハズだ。




大学への道を歩きながら、上葉はいまだに夢のことを考えている。考え事で頭がいっぱいでも道を間違えることはない。すでに敷いた見えないレールを、電車のように足が勝手に辿っていく。さながら気分は顔つき列車。

夢の内容を考えているわけではなく、夢に関する別のことである。

夢を見たことを思い返すのに支障はない。しかし夢に関して考えようとすると、何も考えられない。まるで頭が彼ぴっぴのスマホのように、彼女っぴに見られたくないやましいことがあるかのように、ロックがかけられているようだ。

このロックの先に何か見える。真っ暗な先に映る記憶のレイトショー。しかし上映内容は砂嵐のみ。

下を向いてても赤信号であることはわかる。なにせ無音だから。なので上葉は立ち止まり、全身で思考に集中する。五感にいろいろパーセンテージが割り振られているが、思考は五感ではない。しかし人は目を閉じてしまうものだ。約80%の視覚を封じても、他の五感にいってしまうというのに。

「おーい上葉くーん」

そら見たことかと言わんばかりに、80%を得た聴力が思考を止める。

目的地である大学の門前で呼び止めたのは、蜂須賀時子であった。

路肩に止まった白塗りの車の助手席から、大慌てで飛び出してくる。釣った獲物が逃げるかの如く。釣りあげてもいないのに。

「今日はちゃんと大学に来たようで!」

「ああ、ちょっと氷雨ヒサメに用があってな」

村椿ムラツバキくん上葉くん並みに来てないよ。家に行った方がいいんじゃない?」

「俺並み……?」

時子が何気なく発したその一言が、釣り針のように引っかかった。フィッシュですよ時子さん。

上葉が大学に来なくなった理由は、上葉自身が一番よく知っている。当の本人の特権である。

そのきっかけは三か月前にある。村椿氷雨が音信不通になったのも三か月前。そしてあの出来事も三か月前。

「時子。サークルの資料っていつものとこか? ちょいと知りたいことがあってな」

「うん、そうだけど。講義は?」

「出ね」

「いいのか~? 留年するぞ~?」

ニヤニヤと人の不幸は蜜の味と言わんばかりに、危機的状況であることを認識させようとしてくる。なにせ蜜を集めるのはハチの本分である。

そしてそんなミツバチがもうひとり。

「いいじゃないか時子。真の大学デビューには、単位を落とすことも含まれているのだよ。いや出来れば同じ顔を次の年は見たくないものだが」

車の運転席から現れたその男こそ、もうひとりのハチ、蜂須賀ハチスガ政臣マサオミ

時子の父親である彼は、科学者でもあり、学者でもある。大学で教鞭をとることもある彼はまさに時子の血筋である。早い話が都市伝説大好きっこ。それが文化人類学に繋がった。都市伝説解明のためにはあらゆる知識が必要であるために、都市伝説のためだけに天才と呼ばれるまでになった男である。子供たちからすると一見が普通すぎてすごさがよく理解されていないが。

「政臣さん……」

「しばらくぶりだね上葉くん。ところで彼女と同棲してるってホント? いやー君が息子になる日を心待ちにしてたんだけどなー。なあ時子!」

娘が繰り出した正拳突きを軽くかわしながら車に寄りかかり、上葉の前に立つ。

昔のままの、いつも通りの姿を見た上葉はなんとなくな安堵感を得た。昔と変わらない顔がそこにある。正確に言えば歳は重ねているが、本質は変わらない。

いったいこの人はどうやって乗り越えたのであろうか。

つい三か月前に時子の兄は殺された。つまりこの蜂須賀政臣はつい三か月前に実の息子を殺されたのである。それもいまだに犯人は捕まっていない。

形だけの葬式の時は沈んでいるのが表情から読み取れるほどにじみ出ていた。

乗り越えたように見えるのは偽りの仮面で。いまも心の奥底では感情が溢れかえっているのだろうか。

真意は読み取れない。真意は誰にもわからない。言葉で伝えようが、完璧に伝わるわけではない。どうやっても真意を知るのは、己のみ。

「はーいちゅうもーく」

顔に出ていたのは上葉だったのあろうか。まるで心の内を見透かしているように右手の人差し指を上げる。この指とまれならぬ、この指見やがれである。

それは大学で何度も見かけた、学生たちの注目を集めると共に、視線を誘導するやり方である。

「上葉くん、簡単な計算だ。授業料割る講義数。これの答えが君が一回の講義を休む度に損している金額だ。世の中金じゃないとか綺麗ごとを抜かす連中は皆、金銭が持つ、銅、ニッケル、アルミニウムではない、本当の金の重さを知らない奴らばっかりだ」

どうやらしばらく大学に来ていないことは筒抜けのようである。そもそもこのおしゃべりマシーンが話を広げようとすれば音速を超える。つまり知られたくないことは絶対に言うなが鉄則である。鉄の強度では心配だが。

「しかーし、金で買えないものがあることも事実だ」

大学で講義経験があるがゆえに、てっきり説教が始まるのかと思いきや、話の列車はポイントを切り替え違う路線を走り始めた。

「寝ちまうほどのクソみたいな授業よりも、外に出て見聞を広めた方がよっぽど価値がある」

上葉に向けられたその笑みで、理解した。この人に心配など杞憂であると。いつも通りの平常運転である。心の奥底で何を思い、考えていようが、それで世界を終わらせることはできない。何が起こっても意外と世界はそのままなのである。

「――都市伝説いっぱい見つけてこいよ!」


知ってた。


ヘタクソな片目ウィンクとサムズアップを出される前から知っていた。

この親子の平常運転イコール都市伝説探求以外に何があろうか。他には何もないと言っていいほどに二人は盲目である。

だがまあ、いつも通りなのはいいことなんだな。と、上葉は思った。

でも本当は、ここに、もう一人いたんだよな。とも。


いつまでも話してはいられない、みんなの一日はとっくに動き出している。決まった動きをしなければ後がつかえる。

しばしの別れを告げて車に乗り込もうとする政臣は不意に後方を睨み、

「おっあれは高速に乗りに行く覆面パトだな? ゴールド免許持ちを見くびってもらっちゃ困るね」

急いで発進の準備を済ませ、助手席側の窓を下げる。

「じゃあパパ今日も遅いと思うから。ママのことよろしく」

「えー今日も?」

「最近どんどん忙しくなってきてるからね。それじゃ!」

都市部でもあるまいし、こんな大学の前などで路肩に停車していても地方の警察なども気にも留めないと思うが、こだわりがあるのだろう。露骨にゴールド免許を自慢していたことだし。

「なあ時子。忙しいって政臣さん何か新しい仕事しているのか?」

大学の教授といってもこの大学では非常勤講師であり、メインで動くのはもっと県外の大学である。

ゆえに上葉は知らない。政臣がいま何をしているのかなど。

そもそも同じ町に住んでいる知り合いでも、学生と社会人では街中で顔を合わせることなどまずない。現に久々に会ったのも葬式の時であった。

「うん。結構前からネクストコープの応用科学部門にやとわれてるよ。最近あの会社事件ばっかりだからきっとウキウキだよ」

だろうな。と相槌を打ちながら、昨夜のニュースを思い出す。ネクストコープが所有する建物で起こった事故のことを。

またネクストコープか。

まるでこの町はあの会社に支配されているように、街中に溢れかえる製品はすべてネクストコープのものばかり。

日用品も、食品も、最新の家電にもネクストコープの技術が使われている。手にする製品を調べれば調べるほど、常にどこかにネクストコープの名がある。

ネクストコープの技術は、多岐に渡りすぎている。自然と畏怖してしまうほどに。

「政臣さんは……ネクストコープの人間……」

上葉は誰にも聞こえないようにか細い声で呟いた。

特に眼前の人間は、勘がよすぎる節がある。

そういうのは面倒ごとにまで発展した時に、少々困ることであろうから。

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