Babel

古宮九時/電撃文庫・電撃の新文芸

Babel 特別短編

Babel 特別短編①/沈黙を捧ぐ

 馬上から見える異世界の景色は平穏きわまりないものだ。

 まばらに生えた草の上を、轍の作る道が緩やかにカーブしながら伸びている。その上を、二頭の馬がのんびりと進んでいた。

 姿勢に気を付けながら手綱を握る雫は、遠くに見える木の看板に目を凝らす。

 茶色がかったセミロングの髪に、十八歳にしては幼めの顔立ち。この世界では比較的珍しい黒髪黒目は、彼女が異世界に迷いこんできた日本人のためだ。

 つい一か月前まで平凡な大学生活を送っていた雫は、先を行く連れにぼやく。

「ちょっとずつ馬に乗るのも慣れてきましたけど……やっぱり緊張しますね」

 日本で暮らしていた頃は、まさか馬に乗って旅をする日が来るとは故にも思わなかった。

 馬一頭分先を行く連れの青年が、鞍上で彼女を振り返る。

「ひょっとして、君の世界には馬がいなかったりしたのかな」

 青年の淡い色の髪が、日にあたって金に見える。中性的な造作は表情こそ薄いものの非常に整っていて、黙っていれば外見的には何の欠点もない好青年だ。

 文字を研究する魔法士であるエリクは、馬の歩調を緩めて雫の隣に並んだ。彼女は額の汗を手の甲で拭う。

「馬はいるんですけど、私の国では趣味で乗る人が多いです。昔はこっちみたいに普及してたんですけどね」

 雫は自分が乗る茶色い馬を見下ろす。元の世界で見る馬より若干ずんぐりして思えるのは、種類が違うからだろうか。

「こう、馬に乗ると視界が高くなるのが恐い原因なのかな、と……」

「そうかもね。君ももうちょっと体長が大きい種だったら、高さに慣れてただろうに」

「体長ってなんですか。せめて身長って言ってください。私、人間なんですから」

「ちなみに君の世界では、人間は何処まで大きくなれるの?」

「二メートルちょっとかな……って言っても分かんないですよね。多分こっちの世界と同じくらいです」

 元の世界へと戻る手段を探す旅。

 その連れであるエリクは、研究者のせいか雫が気にもしない話によくつっこんでくる。その度に真面目に返してはいるが、それで相互理解が深まっているかと言えば甚だ怪しい。雫は小柄な自分の体を見下ろした。

「まぁ、確かに私が今の十倍くらいの大きさだったら、旅も楽そうですけど」

「その場合は、こっちの世界で食糧難が起きて君の討伐隊が結成されるから、楽じゃないと思うよ」

「私、十倍って言いましたよね!? 身長十五メートルでいきなりそんな対応されるんですか!?」

「そっちの単位で言われてもよく分からない。あと、余所見は危ないよ」

 エリクに注意されるのと、馬上でバランスを崩しかけたのはほぼ同時だ。あわてて態勢を戻した雫に、青年は言う。

「ちょっと早い時間だけど、次の村で宿を取ろう。あんまり長い時間馬に乗ってて、また皮が剥けても困るだろうし」

「思いださないでくださいよ、恥ずかしい!」

 馬に乗り始めてすぐに、お尻の皮が剥けて泣いたのはまだ記憶に新しい。その時は、「魔法で治そうか?」という彼の善意を断固として断った。結局軟膏を塗ってしのいだが、できればもう同じ目には遭いたくない。

 雫はエリクの指示で道を横に逸れる。そしてその先の小さな村へと馬首を向けた。

 そこは古くからある集落で、小さな森に面した平和な村だった。


        ※


 村についた時はまだ夕暮れ前だった。

 馬を預けて広場に出た雫は、そこに集まっている人々を見て目を輝かせる。

 何かの催し事だろう。広場の中央には一段高い円形の台が置かれ、その上には花飾りをあしらった円柱が二本立てられている。

 周囲にはテーブルや椅子がいくつも並べられ、その上には大皿料理がふんだんに盛りつけられていた。既にそこには席についている人々がいて、浮き立つような雰囲気が満ちている。

 祝い酒が振る舞われているのを見て、雫は声を上げた。

「エリク、お祭りですよ! にぎやかです!」

「あれは結婚式だよ。ほら、あそこに薄紅の衣装を着た子がいるだろう? 彼女が花嫁」

 エリクが指さしたのは、淡いピンクの薄布を何枚も重ねて着ている少女だ。おそらくこの辺りの民族衣装なのだろう。服のあちこちには花飾りがつけられ、髪の上にも薄いヴェールを流している。

 しかし雫は、衣装の華やかさよりも別のことに驚いた。

「え。あんな若い子が結婚ですか? こっちの世界ってみんなそうなんですか?」

 花嫁衣装を着た娘は、どう見ても雫と同じくらいか、それより年下にしか見えない。雫がこの世界では童顔気味の扱いなので、実際の少女はもっと年若いかもしれない。

 驚く彼女に、エリクはかぶりを振った。

「そういうのは人それぞれだよ。あれくらいで結婚しても別に普通だし、しなくても普通。王族なんかは十代で結婚する人がほとんどだけど、それ以外はばらばらかな」

「はー、なるほど。ちなみにエリクに結婚のご予定は――」

「ない。考えたこともない」

 ある意味予想通りの返事だ。もっともエリクにそんな相手がいたら、見ず知らずの異世界人に付き合って、旅に出たりはしないだろう。

 雫が初めて出会う異世界の結婚式に見入っていると、花嫁が人の輪を離れ目の前にやってきた。鳶色の髪と瞳をした愛らしい少女は、二人に小さな木の杯を差しだす。

「ようこそ、旅人さん。今日はわたしの結婚式なんです。よろしかったら参加していってください」

「あ、お、おめでとうございます!」

 杯を受け取ると同時に、近くの村人が雫に花束を手渡してくる。それを花嫁に渡せということだろう。雫はあわてながらも、ひまわりを思わせる黄色い大輪の花束を少女に差しだした。

 花嫁はころころと笑ってそれを受け取る。

「ありがとうございます。わたし、この花が小さい頃から一番好きなんです」

 屈託のない笑顔は見ているだけで和んでくる。雫は少女が別の人のところに離れると、エリク相手に感嘆の溜息を漏らした。

「いやあ、可愛いですね……。あ、これお酒ですか?」

「果汁を水で割ったものだよ」

「甘い。美味しい」

 赤紫色のジュースは、何の果物か分からない味だが、すっきりとしていて美味しい。

 そうしている間に、花嫁は再び広場の中央に戻ってきた。花婿らしき青年から糸を編んだ幅広の腕輪をもらうと、それを手首に通して空にかざす。途端、周囲から歓声が上がった。

 エリクが横から説明してくれる。

「この辺りの結婚式は、花婿と花嫁でお互いに手作りの品を贈りあうことが多いんだよ。花婿が贈ったのがあの腕輪で、花嫁は首飾りかな」

「なるほど。雰囲気ありますね」

 異文化の空気を肌身に感じられるのは楽しい。

 雫はしばらく祝いの様子を眺めていたが、ふと花嫁の後方に立っている黒衣の人物に気づいた。厳めしい雰囲気の青年は、さっきから花嫁が移動する後を、一定の距離をもってついていっている。雫はエリクを振り返った。

「こっちの世界の介添えは、恐い男の人がやるとか決まってるんですか?」

「カイゾエって何? 君がさっきから見ている人のことなら、花嫁の家族だと思うよ」

「家族」

 雫はもう一度、黒衣の青年を見たが、どちらかと言えば強面の顔は、とても花嫁と血が繋がっているように見えない。ただ青年が花嫁を見る目は穏やかで優しいもので――確かに彼女の幸福を喜んでいるようだった。


        ※


 結婚式の宴会は夜まで続くらしい。二人は一旦宿に行ったが、今日は式の手伝いで食堂も休みだという。部屋に荷物を置いた二人は、自然村人たちの宴席に混ざることになった。

 外に広げられたテーブルにつきながら、雫は楽しげな彼らの昔話に相槌を打つ。

「へええ、花嫁さんのお父さんって、強い人だったんですね」

「そうさ。もう亡くなっちまったけどな。十六年前にこの村を野盗が襲った時なんて、一人であいつらを撃退したんだ。まったく腕の立つ憲兵だったよ。今は息子が後を継いでるけど、親父の域になるにはまだまだだな」

「あ、やっぱりあの黒い服の人はお兄さんなんですか」

「ああ。仲良い兄妹だったからな。妹が嫁にいっちまって、しばらくは淋しがるだろうよ」

 酔った男はそう言って笑う。

 雫は何の肉か分からぬ香草焼きをもぐもぐと食べながら、夕暮れ時の宴席を見回した。

 花嫁の姿は一番賑わった場所にいるが、その兄の姿は見当たらない。雫は隣でお茶を飲んでいるエリクに囁いた。

「お父さんが亡くなってるってことは、お兄さんが父親代わりですもんね。そりゃ淋しいでしょうね……」

「うん。君の人づきあいのよさにはなかなか驚いてる。君の世界はみんなそうなの?」

「人それぞれです」

 とは言え、そろそろ皆にも酔いが回ってくる頃だ。あまり酔っぱらいの中にいても休み時を逃してしまう。

 祝いの席で相伴に預かった雫とエリクは、周囲に断ると席を立った。腹ごなしがてら、散歩をして宿に帰ることにする。

 小さな村とあって村人の多くが宴席に集まっているのか、少し広場から離れるとほとんど人気がない。雫は明かりの灯る家々を見回しながら、大きく背伸びをした。

「いやあ、結婚式に出会えるなんてラッキーです。私、結婚式に出たことないんですよ」

 正確には幼稚園児の頃、親戚の結婚式に呼ばれたことがあるはずだが、もうよく覚えていない。ただ薄水色のワンピースを着た姉が、やたらと綺麗で周囲の評判がよかったことを覚えている。

 エリクが少しだけ関心を引かれたのか尋ねてくる。

「そっちの結婚式はどんな感じなの?」

「基本は変わらないと思いますよ。花嫁衣装は白で、みんなを集めて宴会したり歌ったり。変わり種を言い出したらきりがないですけど」

「この大陸でも西の方の国では白い衣装だよ」

「異世界のウェディングドレスですね。そっちも見てみたいです」

 あてどない旅だが、せっかくなので楽しめるところは楽しみたい。今日は宴席に参加できたので、初めて見る料理もいっぱい食べることができた。いつもならレシピを聞いていくところだが、今日は皆が忙しそうだ。明日もし余裕があったら、宿の人間に尋ねてみればいいだろう。

 ささやかな幸運を喜ぶ雫は、だが宿へと続く道の途中に、人影を見つけて足を止めた。

 森へと向かう入口に立っている男。

 それは、さっき結婚式で見かけた花嫁の兄だ。憲兵だという彼は、真面目な顔でじっと暗い森を見つめている。その横顔は話しかけるが躊躇われる雰囲気で――だが彼の方が、近づいてくる雫たちに気づいた。

 黒い布服に同じ色に染めた革の胸宛てをしている男は、二人に向き直ると会釈をする。

 雫はあわてて自分も頭を下げた。

「あ、この度はおめでとうございます。御相伴に預かっちゃってすみません」

「旅の方か。こちらこそ祝いの席に参加してくれてありがとう」

 男は柔らかい笑顔を見せる。外見から厳めしいイメージを持っていた雫は、花嫁の家族らしいその笑顔にほっとした。

「お兄さんで、この村の憲兵をしていらっしゃるんですよね。他の方に聞きました」

「ああ……」

 男の目が、瞬間何かを考えこむように揺らぐ。彼は雫の隣にいるエリクに気づくと、軽く目を瞠った。

「その格好、旅の魔法士の方か」

「ええ。南の方から来ました」

「なら、ルクマの街を通って?」

 それは、数日前に雫たちが出立した街だ。エリクが頷くと、男はまた何かを考えこんだ。だがすぐに顔を上げる。

「できれば、ルクマの話を少し聞きたいんだが」

「構いませんよ」

 エリクがあっさり了承すると、男はほっとした顔になった。その表情が少しほろ苦いものに思えて、雫は不思議に思う。


        ※


 男はネルドと名乗った。

 彼は「近くだから」と自分の家に二人を招く。

 小さな家は綺麗に手入れされていたが、漂う空気は物寂しい。それは、この家で暮らしていた少女が今日限りで嫁いでしまったからだろう。

 雫は壁に飾られた家族四人の肖像を見つめる。

「今は、ご家族はお二人なんですか」

 父親は亡くなったと聞いたが、式には母親の姿もなかった。

 ネルドはお茶を用意しながら頷く。

「母は、妹が小さい頃に病で死んだんだ。体があまり丈夫でなくてな」

「じゃあネルドさんはこれから一人暮らしですか。淋しくなりますね……」

「いや、ほっとしたさ。嫁の貰い手があるか心配してたから」

 雫がテーブルにつくと、薄茶色のお茶が前に置かれる。胸がすくような香りに雫は顔を綻ばせて礼を言った。

 エリクが相変わらずの無表情で話を促す。

「それで、どのような話をお聞きになりたいんですか」

「ルクマの情勢と傭兵や魔法士の動きを。最近、近隣で戦争があっただろう?」

「ああ……分かりました」

 エリクはそれだけでネルドの意図を察したらしい。今まで旅をしてきた他の街や、そこで得た情報を加えて話をしていく。

 雫はその間、部屋に飾られた絵や調度品を眺めていた。愛らしい刺繍の壁掛けや、布の人形、丁寧に磨かれた洋箪笥など、一つ一つにこの家の住人の人柄が窺える。雫は、愛らしい少女が忙しく立ち働く姿を想像して和んだ。

 反対に、ネルドの私物らしいものはほとんど見当たらないが、これは彼の性格を表しているのだろうか。

 その間にも、二人の話は進んでいく。ネルドは一通りを聞くと満足したか頷いた。

「ありがとう。近いうちにルクマに行ってみるよ。ちょうど異動の話も来てたからな。この村には別の憲兵が来ることになるだろう」

「え、村を出ちゃうんですか!?」

 途中の話はよく分からなかったが、さすがにそれは理解できた。驚く雫にネルドは苦笑する。

「妹も嫁いで肩の荷が下りたからな。ちょうど上から他の大きい街に出てみないかと言われていたんだ」

「憲兵は領主がそれぞれの街や村に派遣してるんだ。生まれた村にいたい、とか希望に融通は利くけど、大きい街にいた方が昇進しやすいからね。彼の選択は普通だと思うよ」

「ああ……なるほど」

 エリクの説明を聞いて雫は納得する。今までは、妹の親代わりということで村を離れられなかったのだろう。だが、彼女が嫁いだことで、ネルドは自分の道を歩き出すことにしたのだ。

「ルクマの街なら、馬で一週間くらいですもんね。何かあった時も安心ですし」

「まあ、とりあえずはな。そのうち別の街に移動するかもしれないが」

 ネルドはそう言って苦笑する。さっきからところどころ歯切れが悪いのは、妹にこの村を離れることをまだ打ち明けていないからではないだろうか。それは雫の勘だったが、当たっている気がした。

 ――外見だけを言えば似ていない兄妹だ。

 それでも二人の間に確かな絆を感じて、雫は僅かに眉根を曇らせた。彼女の表情に気づいたエリクが、顔を覗きこんでくる。

「どうしたの?」

「あ、いえ、自分の家族のことをちょっと思い出しちゃって。私、誰にも知られずにここに来ちゃったんで、お姉ちゃんとか心配してるだろうなって……」

 離れた家族を思っているのは、雫も同じだ。

 ただ、こうして異世界に飛び込んでしまう以前、華やかで人目を引く姉妹から離れて、一人になってみたいと思ったのも確かだ。

 そんな風に思ってしまったからこそ、帰りたくとも帰り方が分からない状況になっているのかもしれない――それは感傷的すぎる考え方だが、雫は時折、そんな後悔を抱くことがあった。

 エリクが彼女の肩をぽんと叩く。

「大丈夫。無事帰れたら喜んでくれるよ」

「……はい。そうですよね」

 とりあえず今できることは、たゆまず進んでいくことくらいだ。

 雫は立ち上がると、空になったカップを手に取った。

「お茶ありがとうございます。ご馳走様です」

「あ、そのままでいい」

 席を立ったネルドが、雫の手からティーカップを受け取る。

 その時、身を屈めた彼の懐から何かが転がり落ちた。カップから手を放した雫は、代わりに床に落ちたそれを拾い上げる。

 ネルドが僅かに顔色を変えた。

「それは――」

「あ、これ。妹さんのですか?」

 雫が拾ったのは、青い糸を編んで作った腕輪だ。結婚式に花嫁に贈られるという手作りの品。

 それを雫がネルドの妹のものだと思ったのは、腕輪の中に黄色の花の意匠が描かれていたからだ。雫は腕輪を彼に返す。

「自分の好きな花を入れてもらえるなんて素敵ですね。はい、どうぞ」

 雫が差し出した腕輪を、だがネルドは受け取ろうとしなかった。強張って見える男の顔を雫は怪訝に思う。隣からエリクが言った。

「それは、あの彼女のものじゃないよ」

「え? でも」

「色と花が違う。第一、花嫁の腕輪だ。式の夜なんだから、まだつけたままなのが普通だろう」

「けど、これは……」

 腕輪を見た時、これは彼女のものだと直感したのだ。それが違っているというなら……

 雫は腕輪を持っていたネルドを見る。

 その時彼は、ずっと負っていた荷を今度こそ下ろしたように、淋しげに微笑っていた。


        ※


「十六年前のことだ。当時俺は七つかそこらだった。母は臨月間近で……そんな時、この村を野盗が襲ったんだ」

 遠い日を思い出す男の目は、さっき森を見つめていた目とよく似ている。雫は新しく出された果物のジュースを手に、話の続きを待った。

「野盗がどんなやつらで何人いたのか、俺は知らない。そういうことは、俺より他の村人の方が詳しいだろう。俺は、父が野盗と戦っている間、母に付き添ってずっとこの家にいた。母は元々体が弱かったから、襲ってきた野盗から逃げ出した反動で、ひどく具合が悪そうだった。そんな母を支えながら、ただ早くこの騒ぎが終わって欲しいとだけ思っていたんだ」

 十六年前の話は雫も宴席で少しだけ聞いた。その時、ネルドの父親が憲兵として目覚ましい活躍をしたという話も。

 だが父親が一人で戦っている間、具合の悪い臨月の母親とこの家で隠れていたというのは、七歳の子供にとってはかなりの重圧だったろう。

 雫のそんな思いを表情から見て取ったのか、ネルドはかぶりを振る。

「俺よりも大変だった人間は多いさ。みんなは俺の父親を褒めたたえるが、実際たった一人の憲兵で何人もの野盗を倒せるわけじゃない。戦った人間もいたし、死者も出た。けど何とか最終的に、野盗を殺し、村を守ることに成功した。そしてその数日後の晩――あいつは来たんだ」

「あいつ?」

 何処か親しみを含んだ響き。ネルドの表情が、愛しむように柔らかいものになる。

「生まれたばかりの赤子を抱いた女が、あの森の入口を通って、夜更け過ぎに父を訪ねて来た。この村の人間じゃない女は、その赤子を父に押し付けて『お前が父親を殺した子』だと言った。その女は、野盗の妻だったんだ」

「それって、ひょっとして……」

「ああ、父は結局その赤子を引き取って、自分の子とした。ちょうどその時、母のお腹の子は騒ぎのせいで流れてしまったばかりだったから、村人たちにも怪しまれずに済んだんだ。俺はその日から……妹ができた」

 雫は息を飲む。

 似ていない兄妹だとは思った。だが、性別の違う兄妹だ。それを気に留める人間はほとんどいないだろう。


 ――だが、この兄妹は本当は血が繋がっていないのだ。


「そのこと、妹さんは……」

「知らない。父も母も、それをあいつに教えなかった。この村で一生を過ごして、幸せに生きられるなら充分だと言っていた」

 過ぎ去った家族の思い出を振り返って、彼は目を閉じる。

「今はもう、本当のことを知る人間は俺一人だ。……それでいいんだと、思う」

 小さく頷いて、ネルドはテーブルに置いた腕輪を見やる。

 美しい青に鮮やかな黄色の花を入れて編まれた腕輪。これはきっと、彼が妹のために作ったものだろう。

 そしてその腕輪は本来、妻を迎える男が、自分の花嫁への想いを込めて編み上げる品なのだ。

「…………」

 雫はこの時になって、彼の抱くほろ苦い感情が何であるか分かった。たった一人の妹へ向けるその感情を、何と呼ぶかも。

 胸が痛む。

 ぽつりと、やりきれない思いが口をついた。

「本当のこと、言わないんですか」

 もし、彼女が真実を知っていたら、別の道があったのではないだろうか。

 結婚式の日になって言うには遅すぎる。だがそれでも、この村を去っていくネルドだ。想いを伝えることくらい、許されるのではないのか。

 しかし彼は、穏やかに笑ってかぶりを振った。

「それをすれば、あいつはいつか自分が野盗の子であることに気づくかもしれない。この村には、あの野盗に家族を殺された者も多いんだ。あいつがそれを知れば……一生が曇ってしまう」


 彼女が幸せな人生を送れるように。

 鮮やかな花のように、陽の光の下で笑っていられるように。

 その曇りを取り除く。決して翳らせない。


 一人の少女へ向ける深い想いを以てネルドは微笑んだ。

 彼は青い腕輪を手に取る。

「だからこれも――もう不要だ」


        ※


 宿に戻る道は、すっかり暗くなっていた。

 まだ宴席は続いているのだろう。振り返れば広場の方から明るい光が洩れている。

 雫は人気のない夜道を、エリクと並んで歩きながら溜息を漏らした。

「なんか……すっきりしないんですけど」

「気持ちは分かるけどね。言わなくていいこともあると思う」

 藍色の目を伏せる青年は、雫よりも遥かに大人だ。だから彼は、妹のために自分の気持ちごと無言を保つ青年のことが理解できるのだろう。

 どちらかと言うと、妹の立場に近い雫は、眉根を曇らせた。

「ずっと一緒にって、難しいですよね……」

「血が繋がってたとしても難しいことはあるよ。それこそ人それぞれだ」

 雫が今、家族と離れて旅をしているように、望んでいても叶わないことはある。

 彼女は手の中の腕輪を見返した。ネルドが捨てようとするのを、忍びなくなってもらってきてしまったのだ。雫は、それを服のポケットにしまいこむ。

 微かに聞こえてくる祝いの歌声。

 雫は胸の痛みを抱えて目を閉じる。

 その日の夜は久しぶりに、家族と一緒の夢を見た。


        ※


 翌日、二人は朝食を食べた後に旅支度を整えた。必要なものを買い出し、預けていた馬を引き取る。

 小さな村は、昨日の祝い事の名残でまだ半分夢の中にいるようだ。人の少ない景色の中を、エリクと雫は馬を引いていく。

 雫は薄ぼんやりとした青空を見上げた。

「一日で色々あった気分ですけど、楽しかったです。この旅の間中、あといくつの結婚式に出会えるか楽しみですね!」

「君は時々前向きすぎて、目的が迷子になるよね。一応言っとくけど、君の目的は元の世界に帰ることだからね」

「気を抜くと勉強と食べ歩きの旅になりますからね……」

 それでも、日々に楽しみを見出していた方が、折れずにいられる。

 雫はそのまま村の入口を出ようとして、だが後ろから走ってきた少女に呼び止められた。

「あ、あの、旅人さん、待ってください!」

 振り返ると、駆けてくるのは昨日の花嫁だ。思わず微妙な表情になってしまった雫の肩を、隣からエリクがぽんと叩いた。それで気づいた彼女は、あわてて笑顔を作る。

 雫は少女に会釈した。

「おはようございます。昨日はありがとうございました」

「あ、こちらこそ……じゃなくて、あの、少しお話を聞きたいんですけど」

「へ?」

 雫とエリクは顔を見あわせる。

 昨日、彼女の兄に同じことを聞かれた記憶は新しいが、今度はどんな話だろう。

 少女は、自分がおかしなお願いをしているという自覚があるのか、申し訳なさそうに口を開いた。

「あの、実はわたしのお兄ちゃんが、朝訪ねたらいなくなってて……それで、この村を出てルクマの街に行くって書置きがあって……」

「……それは」

 昨日、彼の家を訪ねた時、確かにほとんど私物がないと思ったのだ。丁寧に磨かれた家は、嫁いでいく少女が掃除をしたのもあるだろうが、ネルドは既にあの時、家を出て行くつもりでいたのだろう。

 少女はうろたえて辺りを見回す。

「お兄ちゃんって、いつもそうなんです。自分一人で色々考えて、わたしのために影で苦労したり、色んなことしてくれたりして……」

 彼女の右手首には、薄紅色の腕輪が嵌まっている。愛らしく繊細な意匠は、彼女の夫が花嫁にふさわしいと作ったものだ。

「だから今回も、わたしお兄ちゃんがこの村を出てくなんて知らなかったんです。わたしが結婚したからもういいだろうと思ったって……きっと、今度こそお兄ちゃんが自分のために決めたことだから、応援しなくちゃって思うんですけど、あんまり突然でびっくりして――って」

 相当気が動転しているのだろう。少女は余分なことまで言い散らしている自分に気づいたのか、我に返ると目元を押さえた。

「あの、そうじゃなくて、ただ知りたいんです」

「知りたいって、何をですか?」

 雫は自分の服のポケットを押さえる。そこに入っているものは、もう一つの腕輪だ。

 少女は真摯な目で、彼女を見つめる。

「旅の人ならきっとご存じですよね。兄の行く街が……安全なところどうか」


 大切な相手が、幸せに暮らせるように願う。

 それは何処の世界でも、きっと誰でも変わらぬ思いだ。


 雫はポケットを押さえる手に力を込める。

 兄を心配する少女に、この腕輪を渡して「彼もあなたの幸せを願っている」と言おうか。

――そんな迷いが、脳裏をよぎった。たとえこの村を離れても、彼の愛情は少しも変わりがないのだと。

 だが――


「大丈夫ですよ」

 雫はにっこり笑いかける。ポケットから手を離し、不安そうな少女に頷いた。

「その街は私たちも通ってきましたけど、賑やかでいい街でしたよ。多分、心配要らないと思います。ですよね、エリク」

「うん。腕の立つ憲兵は重宝されるし、戦火に巻きこまれるような場所じゃないから」

 二人の話を聞いて、少女はほっと表情を和らげる。馬で一週間ほどの場所でも、この村を出たことのない彼女には、遥か遠い見知らぬ街なのだろう。

 彼女は安堵の顔で、けれど兄と同様ほろ苦く微笑んで頭を下げる。

「あの、急におかしなこと聞いてすみません。助かりました。ありがとうございます」

「いえいえ。――どうか、お幸せに」

 伝えられないこともある。

 だからせめて、偽りのない想いを言葉にして。

 雫は笑顔で手を振ると、少女と別れる。


        ※


「よく思いとどまったね」

 エリクがそんなことを言ったのは、後にした村がすっかり見えなくなった頃だ。

 何のことかすぐに分かった雫は苦笑する。

「いくらなんでも、まずいなって分かりますから。私たち、旅人の身ですしね」

 ネルドの気持ちを知ってはいても、雫はすぐに去っていく人間だ。おそらくもう二度と彼らと会うことはない。それが分かっているから、彼も雫たちに真実を教える気になったのだろう。

 彼は、大切な少女の為に沈黙を選んだ。そこに自分の想いが含まれることを承知で口をつぐんだのだ。

 雫はポケットから青い腕輪を取り出し、同じ色の空にかざす。

「それに、私この腕輪をもらう時、ネルドさんに聞いちゃったじゃないですか。『後悔してないですか』って」

 不躾な質問だとは思ったが、確かめずにはいられなかった。

 だが彼の答えは、シンプルなものだ。


『後悔はない。出会えた偶然に、感謝している』


 皮肉な巡り合わせで、彼らは兄妹になった。

 だがこの偶然がなければ、きっと出会うこともなかっただろう。だから彼は後悔しない。少女を想って、別の道へ分かれていく。

「あの人に後悔がないなら、すっきりしないように思えても、やっぱり私が口出すべきじゃないかなって……正直それでも迷っちゃいましたけど」

「それでいいと思うよ。何を選んでも、何かは失うものがある。彼もずっとそれを考えていたんだろうし」

 肯定してくれるエリクの言葉は、淡白だが誠実だ。その答えに雫もいくらか気が楽になる。

彼女は頷いて腕輪をポケットにしまった。

「私もネルドさんじゃないですけど、後悔しないように頑張らないと、ですね」

 先の見えない旅だ。今回のようにすっきりしないこともあるに違いない。だからせめて悔いることがないように進んでいきたい。

 そう決意を新たにする雫に、エリクは言う。

「君は割といつもそんな感じだと思うけど」

「え、そうですか? 結構後悔したりしますよ」

「そっちじゃなくて。旅をして新しいものを見たり、人に出会ったりするのを素直に喜ぶだろう? この世界に迷いこんだこと自体が、君にとっては不運だろうに、あんまりそういうところ見せないから」

「……ああ」

 意識して、前向きでいようとは思っている。

 それがカラ元気でも、旅をするには必要なことだと思うのだ。姉妹とは違う、自分らしい自分になるためにも。

 雫は得心すると笑った。

「でも、私が前向きでいられるのは、エリクが旅に付き合ってくれてるからですよ! 出会えた偶然に感謝です。毎日が発見ですし。楽しいです!」

「それは僕も同感かな。君に会えて幸運だったと思ってる」

「へぁ!? ど、どうしたんですか、急に」

「君といると面白い話を聞ける。変わった文字が教えてもらえる」

「あ、はい。そういうオチだと思いました」

「あと君自身も割と見てて面白い。よくおかしなことしてるし」

「珍獣扱いですよね、それ」

 二人の乗る馬は、ゆっくりと街道を旅していく。

 本来なら出会うはずもない少女と魔法士の旅。

 大陸を変革するこの旅は、まだ歴史の俎上ではなく――平凡な途上にあった。

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