第256話 魚釣り
屋敷に戻ると、アリアはマナーレッスン漬けになる。稜真と顔を合わせるのは、朝晩のお手入れ時くらいだ。
そして稜真は日課をすませると、主に厨房の手伝いをしている。
夏にはピクルスとトマトソースを仕込むと以前料理長が言っていた通り、夏野菜を収穫し加工する仕事がたくさんあった。稜真は毎日厨房へ通い、イネスと一緒に料理長の指示で加工を手伝った。
従魔達とマーシャも連れてベリー類を採りに行ったり、それをジャムにしたりもした。
その合間には、従者の仕事を勉強しつつ伯爵の執務を手伝い、学園行きの為の勉強をしている。──今日も稜真は執務室で書類の手伝いをする予定だったのだが。
「何故俺は…ここにいるんでしょう…?」
「お前、この所厨房と執務室に籠もりっぱなしだろうが。ちっとは遊べ!」
スタンリーが稜真の頭を乱暴に撫でた。魚釣りに行くぞ、と連れ出されたのである。
「でも俺はベリー採りに行きましたし、庭で野菜の収穫も手伝いましたよ?」
「
「俺は楽しんでいますよ?」
じゃれ合う稜真とスタンリーをほけっと見ているのは、マーシャとイネスだ。この2人も「今日は休みだから遊びに行くぞ」とスタンリーに連れて来られたのだ。
マーシャはきさらに乗っている。イネスはその隣を歩いていて、そらはふくらんだももに乗って、ぽにんぽにんと跳ねながら進んでいた。
「ははっ! リョウマが楽しんでいるのは知っているがな。今日は私の休日につき合ってくれ。もちろん旦那様には了承を頂いているよ」と、料理長が笑った。
休日と言っても、料理長は朝食を作り、昼食と夕食の支度をしてから出かけている。自分以上に休んでいないのがこの人だろうと稜真は思うのだ。昼食はエルシーとメイド長が仕上げて提供する手筈になっている。
「今夜の夕食がかかっているからな。皆頑張ってくれよ」
こくこくとマーシャがきさらの上で頷いた。
スタンリーは、ひょいっとマーシャを抱き上げ肩車をした。マーシャはおろおろしているが、嫌がってはいないようで、どこか照れくさそうだ。
「おいマーシャ。お前は魚釣りの経験はあるか?」
「ある。おとうさんといっしょにやった」
マーシャの村は川が近い。食材確保の為に何度か行ったらしい。
「イネスはどうだ?」
「俺はやった事ないです」
「教えてやるよ」
「マーシャがおしえる!」
「よし! なら、マーシャに先生を任せるぞ!」
「うん!」
楽しそうな3人を、稜真は後ろから眺めていた。スタンリーとはぎこちなかったマーシャも、今では心を許していると分かる。
「料理長。師匠、楽しそうですね」
「マーシャが懐いてくれたのが嬉しいんだろうよ」
マーシャもイネスも、自分とアリアがいなくても上手くやっているようで、ひと安心だ。せっかくの休日。どうせ遊ぶなら全力で楽しもうと稜真は思った。
「師匠! どうせなら、誰が1番大きな魚を釣るか競争しませんか?」
「ふん。やる気になったな。お前は釣りの経験はあるのか?」
「小さな頃に何度か。最近はやっていません」
「野営の時に魚が食べたくならんか?」
「なりますけど、お嬢様が捕ってくれますからね」
「お嬢様って事は、これか?」
スタンリーは槍を投げる仕草をした。
「そうです。毎回大漁ですよ」
「だろうなぁ」
競争の賞品は、稜真が勝てば新しいレシピ。他の者が勝てば、稜真が本を朗読する事になった。
「マーシャとイネスはともかく、料理長と師匠もですか?」
「私はリョウマが読むのを聞いた事がないからな。マーシャかイネスが選んだ本を読んでくれればいい」
「ふふん。俺が勝ったら、秘蔵の本を読んで貰おう」
「師匠の秘蔵の本…ですか」
にやけるスタンリーに、稜真は不安を覚える。
「お前! リョウマに何を読ませようとしている!?」
料理長がマーシャを奪い取り、スタンリーの頭を叩いた。
「リョウマもいい年になったんだから、そっちの教育も必要だろうが」
そっちの教育…要するにエロ本だろうか? そんな物を音読させられては、たまったものではない。──もっとも、そんじょそこらのエロ本以上にハードな内容の仕事をこなした経験は、たっぷりとある稜真であるが。
「師匠だけには負けません!」
「はっ! 俺に勝とうなんて、3年は早いぞ!」
「スタンリー。また微妙な年月を…」
「こいつの成長速度は侮れんからな」
ともあれ、スタンリーは勝つ自信がありそうだ。
「マーシャ、イネス、協力してくれ。……頼む」
先程からきょとんとしていたマーシャとイネスは、力強く頷いた。
「がんばる!」
「頑張ります!」
川に着くと、マーシャとイネスが組み、他はてんでんばらばらになって竿を下ろした。
稜真は負けたくないと気を張っていたが、そらとももを見て力が抜けた。2匹は稜真の真似をしていたのだ。そらは小枝をくわえ、真剣な顔で川を見つめている。ももは小枝の一端を持ち、ゆらゆらと揺れていた。針も糸も付いていないが、一緒に釣りをしているつもりなのだろう。
(ふっ、可愛いな。せっかくの休日なんだし、俺も楽しもう。……師匠には負けたくないけど)
稜真の背中にはきさらが寄り添い、背もたれになってくれている。稜真は息をつくと、ゆったりした気分で川面を眺めた。
「あーあ。まさか、この2人に負けるとはなぁ」
スタンリーは天を見上げた。全員で釣り上げた魚を比べたら、その差は明らかだったのだ。
勝った筈の2人は困ったような顔をしている。
「どうした?」
料理長の問いに、稜真は魚を裏返す事で答えた。魚は何かに突き刺された跡があったのだ。
「「ああ」」
料理長とスタンリーは、訳知り顔で頷いた。
「おいで、もも」
稜真に呼ばれたももは、腕に飛び込んで来る。そして稜真の指示で、ぷっくりとボール状にふくらんだ。
「ちょっと遠いかな…」
そう呟いた稜真はももを抱えたまま、張り出している高い木の枝に、ひょいっと登った。10メートル程先の茂みが、何かが移動するのと一緒にガサガサと揺れて行く。
「逃がさないよ?」
ニッと笑った稜真がそちらにめがけてももを投げると、「みぎゃ!?」と悲鳴が上がった。悲鳴の元へ着いた稜真は、顔の汚れを払っている声の主を引きずり出した。
「はい。不審者確保」
──言わずと知れたアリアである。
「なんで!? 隠密スキルのレベル上がった筈なのに、どうして見つかるの!?」
「隠密スキル? バレバレだったけど」
「……いや、俺には分からんかったぞ? こりゃあ、真剣に修行しないと、早々に追いつかれるな」
スタンリーがぼやき、料理長が慰めるように肩を叩いた。
「ふふ~んだ。見つかっちゃったけど、私が捕った魚が1番大きいよね! 何読んで貰おっかなぁ~」
「お嬢様は釣りではないので、査定外でしょう?」
料理長が笑った。
「ええ~っ!? そんなのひどい!」
「ま、リョウマ次第ですかね」
「次に大きいのは俺だぞ? 俺の秘蔵の本を読まない為に、お嬢様を選ぶに決まっているだろうが」
「そんな理由で決めませんよ。──査定に入れてもいいんじゃないですか? どんな捕り方でも大きい魚を捕まえた者が1番って事で」
「やったぁ!! 読んで貰うなら、ジークフリード本がいいな。何巻にしようかな~」
「1番はお嬢様ではありませんよ?」
「へ?」
「あれ」
稜真が指さした先では、尾に食いついた魚を引きずって慌てている、きさらの姿があった。その魚は、優に1メートルを超えている。
きさらは河辺で眠っていたのだが、いつしか水に垂れていた尾に魚が食いついたのだ。
『主っ! きさらの尻尾が食べられた!?』
稜真は笑いながら、うろたえるきさらの尾から魚を外してやった。
「大丈夫だよ。ほら」
『良かった!』
きさらの尾の先は、ふわっとした毛が束になっている。魚には、水の中で揺れた毛が美味しそうに見えたのかも知れない。
「尾を使った釣りですし、どこからどう見てもきさらの勝ちですよね?」
「きさらすごい!」
マーシャに褒められ、きさらも自慢げな顔になった。
「き、きさらに負けるなんて」
アリアは、がっくりと膝をついた。
きさらは賞品の話を聞いていなかったので、稜真は何が良いか聞いた。甘いのが食べたいと言うので、ベリー入りを焼いてやろうと思う。
「──それで、お嬢様はまた抜け出して来たのですか?」
料理長が言った。
「うぐっ! だって、この間抜け出してから、メイド長のしごきがきついんだもの。たまには息抜きしたいもん」
「抜け出さなければいいのになぁ」
「なぁ、リョウマ。お前の育て方が悪いんじゃないか?」
「俺は育てていませんから! むしろ師匠の影響が強いでしょうに。幼少期から剣を教えたのは、どなたです?」
「俺は基礎しか教えてないぞー。お嬢様が変わったのはお前と出会ってから、ってぇ事はだ。お前の影響が強い証拠だ」
「1年やそこらで人格の形成に影響を与えられる訳がないでしょう?」
「2人共!? 押しつけ合うなんて、ひどくない!?」
「そう言われましてもね…」
「俺のせいにされたくはありませんから…」
ふくれっ面のアリアは、稜真とかちりと目があった。するといきなり、あわあわと挙動不審になる。
「どうかなさいましたか?」
「ひゃい!? な、なんでもない! わ、私! 屋敷に戻るね!!」
アリアは全速力で走り去って行った。
「リョウマ。お前、お嬢様に何かしたのか? いつにもましておかしいぞ?」
「特に変わった事をした覚えはありませんけど。どうしたんでしょうね?」
「……はぁ」
ベッドに入ったアリアは、深々とため息をついた。自分は誕生日から何日たっても稜真の言葉が頭を離れないと言うのに、稜真は普段のままなのである。
(うぅ~。稜真ったら、全然気にしてないや。もしかして、何言ったか忘れてるとか? ……いつまでも気にしてる私が馬鹿みたいじゃないの。よっし! あれは親愛! もう気にしない!!)
吹っ切ったアリアは、ようやく通常に戻ったのだった。
マーシャの育てていた花は満開になった。
今日は屋敷の馬車で、バインズの町にある両親のお墓参りに行く。
馬車を引くのはメリッサ、御者はアリアだ。旅の後、何度か練習したアリアの御者っぷりは、堂に入ったものだ。『アリア様』に御者をさせるのはどうかと思うが、本人がやりたがるのだから仕方ないし、今更だ。時折すれ違う人からも生暖かい視線を送られたりもした。
アリアの隣には、両親の贈り物を身につけておめかししたマーシャが花束を抱えて座っている。稜真とイネスはきさらに乗っていた。
町が近づくにつれ、マーシャは次第に無口になって行った。
マーシャは墓の前で立ちすくんでいた。両親の最後の姿が目に浮かんだのだ。稜真は花束ごとマーシャを抱き上げ、震える背中をさすってやる。
「マーシャ。先にご両親に挨拶させてね」
優しく微笑んだアリアに、マーシャは頷いた。
アリアは墓に挨拶をすると、マーシャの屋敷での様子を面白おかしく話した。
代わって墓の前に立ったイネスは、旅の時にお世話になった礼と共に、マーシャと一緒に頑張って行くと誓った。
マーシャの震えは、次第に治まって来た。稜真はマーシャをギュッと抱きしめてから降ろし、墓の前に立って一礼した。
「マーシャは伯爵家の皆で見守っています。どうか安心して下さい。──マーシャ。俺達は馬車の所にいるからね。ご両親とゆっくり、たくさんお話ししておいで」
「……うん」
──しばらくして。
人の気配がなくなった墓地で、墓に向かって懸命に話しかけるマーシャの姿があった。
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