閑話 瑠璃とマーシャ 後編
明け方に瑠璃は目を覚ました。
今日から皆、アリアの屋敷で暮らすのだ。──瑠璃以外は。
瑠璃は水を恋しく思った。旅に出てから水に入っていない。
水を感じたい。全身で水を感じたかった。
こんなに長い間、水に入らない事がなかった瑠璃は、ひんやりとした水を思い、いてもたってもいられなくなった。水に入れば、もやもやした思いから解放される気がした。
まだ誰も起きていない。
瑠璃はそっと馬車を抜け出した。
軽い羽音がして、そらが瑠璃の肩に舞い降りた。
『ルリ。どうした、の?』
「ちょっと水浴びして来ますわ」
『わかった』
そらは馬車の上に戻って行った。
林の中に小さな泉がある。
美しい水をたたえた、小さな、けれど深い泉だ。
瑠璃が着ている服は、町で買った服である。魔力で作った服と違って、濡れると重くなり動きづらく、水を感じるのに不便だ。
瑠璃は服を脱ぐと、するりと泉に入った。
(気持ちいいですわ)
全身で水を感じる。
水底まで泉に潜り、体を横たえて上を見ると陽の光が水に踊って見える。小さな魚が群れになって泳ぐ。
瑠璃はゆらゆらと水に体を任せた。
もやもやした気持ちから解放される事はなかったが、それでも少しはすっきりしたので、瑠璃は泉から上がった。
「ルリ」
「え!? マーシャ…どうして…」
「いなくてしんぱいした。そらがつれてきてくれた」
「…そらったら…」
「クゥ?」とそらは首を傾げている。マーシャに瑠璃の居場所を聞かれ、素直に案内したのだ。そらは馬車へ戻って行った。
「あの…、マーシャはいつ来ましたの?」
人はどれくらい水の中にいられるのだろう。自分はどれだけ水の中にいただろうか。瑠璃は不安になった。
「いま。ルリがいずみから、でたところだった」
瑠璃は、ほっと息をついた。
「ルリ。はやくふく、きないと」
マーシャは瑠璃が脱いだ服を持って来てくれた。そして、まじまじと瑠璃を見る。
「ルリのかみ、ぬれてない?」
精霊である瑠璃は、水から出る時はいつも無意識に水気を飛ばす。お風呂では気をつけていたが、1人だと思って気を抜いていた。
「あの、それは…」
「まほう?」
「は、はい! 私は少しだけ、水の魔法が使えるのですわ。それで乾かしましたの!」
(…これで…大丈夫なのでしょうか。主に相談……、でも、まだ眠っていたら申し訳ないですし…)
「魔法が使えるのは珍しいですか?」
「ともだちにはいなかった。おとななら、せいかつまほうをつかえるひとは、いた。ルリのは、せいかつまほうじゃない?」
「…違いますわ」
「ほかにも、なにかできる?」
マーシャは瑠璃に服を着せながら聞いた。その目は期待に輝いている。
どこまでやっていいのか分からないが、力をそれ程使わない事なら大丈夫だろう。瑠璃は泉の水を宙に浮かべた。瑠璃の拳大程の水がいくつも球になって、2人の周囲にふわふわと浮かび、朝日を浴びて煌めいた。
「きれい! ルリ、すごいね」
「内緒ですよ?」
「だれにもないしょ?」
「稜真お兄ちゃんとアリアお姉ちゃんは知っていますわ。でも…」
「わかった。ほかのひとには、ないしょ」
2人は手を繋いで、煌めく水の球を眺めたのだった。
手を繋いで馬車へ戻ると、稜真とイネスが朝食の用意をしていた。イネスは驚いた顔をしている。
「出かけてたんだ。おはよう」
そらを肩に乗せた稜真は「おはよう」と笑う。
「おはようございます」
「おはよう、ございます」
「アリアを起こして来てくれるかな?」
「うん!」
瑠璃は一緒に行かず、稜真にぴとっと抱きつき、念話で言った。
『主…やらかしちゃいました…』
『瑠璃が? 珍しいね』
『マーシャに魔力が使えると、バレてしまいましたの』
『あらら』
水が恋しくなって泉へ行った事から、全てを話した。
『一般的には魔法の才があっても、使えるのは10歳を過ぎてかららしいね。マーシャが内緒にしてくれると言ったなら、気にしなくても大丈夫だよ』
学園用の勉強で仕入れた知識で知っていた稜真は、安心させるように頭を撫でた。
『……もし私が精霊だと知られたら、嫌われるでしょうか』
『嫌わないと思うよ。戸惑うかも知れないけどね。瑠璃は話したい?』
稜真は手を止めて、瑠璃を抱き上げた。
『…話したく…ないです。私は人間として、マーシャと友達でいたいのです』
『それでいいんじゃないかな。小さな魔法使いさん』
『はい』
マーシャとは、稜真に頼まれたから友達になった。
瑠璃にとって、初めての人間の友達だ。
一緒にいて楽しかった。色々教えて貰って嬉しかった。稜真やアリアといる時と違って、同じ目線でいられたのが、本当に楽しかったのだ。だから、自分の正体を隠しているのが気になって、苦しかった。
マーシャに自分の秘密を少しだけ見せて、心がちょっぴり軽くなった。
朝食を食べ終え、いよいよ瑠璃は湖へ帰る。
「マーシャ、これ…」
「っ!?」
瑠璃がマーシャに渡したのは、マーシャの母が縫った布人形だ。泥だらけだった人形は、すっかり綺麗になっていた。
「魔法で綺麗に出来ないか、試してみましたのよ」
イネスに聞こえないように、瑠璃は耳打ちした。
マーシャは、目がこぼれそうな程に見開いており、言葉も出ない。
「中の綿が潰れてしまっていたので、1度取り出して詰め直したり、お顔を直したり……。手を加えてしまったので、元通りではないのですけど…」
毛糸の髪、ボタンの目、口は刺繍で描かれた、マーシャの母が作った布人形。
瑠璃が受け取った時、目は取れかけ、元の色も分からなかった。瑠璃の力で、汚れは綺麗に取れたのだが、潰れた綿は戻らなかった。だから目立たない部分をほどいて、綿を取り出し、ほぐして詰め直した。ボタンの目は取れかかっていたので、しっかりとつけ直した。──稜真が。
「どろだらけで、ぜったいにきれいにならないって、あきらめたのに…。ルリ、ありがとう!」
マーシャは人形をぎゅうっと抱きしめた。
「わ、私は洗っただけで、直したのは稜真お兄ちゃんなのですわ!」
「ルリとリョウマおにいちゃんが、なおしてくれた。マーシャは、たからものがいっぱいで、しあわせ…」
「マーシャが喜んでくれたのが、私は嬉しいです」
照れくさそうな瑠璃と、泣きながら笑うマーシャを、他の者は優しく見守っていた。
きさらは湖のほとりに降りた。稜真は瑠璃を抱き上げて降ろそうとしたが、瑠璃はしがみついて離れない。
「……主」
瑠璃は稜真の首に顔を埋めた。
「ん?」
「楽しかったです」
「うん」
「とても、楽しかったのです」
「…うん」
「とても、とても、楽しかったのです…」
「……そうか」
今日からまた、1人になる。シプレはいても、楽しい日々を過ごしただけに、残されるのがいつも以上に辛かった。
稜真はごめんね、と言わなかった。言えなかったのだ。瑠璃が望んでいないのが分かったから。
瑠璃が泣きやむまで、稜真はただ抱きしめてやる事しか出来なかったのである。
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