02 醤油がない!
☆
いろいろあって右も左もわからぬ世界に放り出されてしまった俺、佐野二郎。
しかしラーメンさえ作っていればそれでだいたい何とかなるはずだ。
ラーメンで俺の人生は切り開かれていったのだから、これからも大丈夫だ。
その生き様に最初に立ちふさがった問題があった。
「厨房を見せてくれ」
そうした俺の申し出を快く受け入れてくれた小柄なオッチャンたちは、おそらく彼らが共同食堂のように使っている、だだっ広い石窟の広場に案内してくれた。
切り立った崖を人間が利用できる空間に掘削したのだろう。
そこで作業している、髭のないオッチャンにしか見えない、けれどどうやら女性らしき人たちに俺の身柄が引き渡された。
おっぱいなのか胸板なのかわからないくらい、誰もかれもがっちりしている。レスリングなら世界を狙えそうだ。
厨房には塩や砂糖、油などなじみのある調味料も、ちょっとよくわからない香草や木の実などもふんだんにある。
あと、やたら金属鍋の種類が豊富だった。これはテンション上がるな。
「オバチャン、醤油はどこだい?」
「ショーユ? なんだいそれは、食べるものかい? 道具かい?」
俺は目の前が真っ白になった。バイクでぶつかっていった時以上の精神的ショックを味わった。
「しょ、醤油がない、だと……!?」
俺はその事実を知り、冷や汗を噴き出し手を震わせた。
何を隠そう、俺は醤油に対して強度の精神依存を持ち合わせている。
定期的に何かしら醤油味のものを口にしなければ、精神の均衡が保てないのだ。
そもそも、今見ている光景、今起こっていることが幻覚なのではないか、そんな自己認識への懐疑すら頭をよぎった。
「アンタ、顔が真っ青じゃないか。そんな震える手で料理なんてできっこないだろ」
「まだ病み上がりで体に力が入らないんじゃないかねえ」
「何か精のつくもの食べさせた方がいいねこりゃ」
オバチャンの何人かが心配してあれこれと手回しをしてくれる。
メシを作りに来たはずが、なぜか周りの人にメシを作ってもらっている。あべこべもいいところだった。
全体的に気のいい人ばかり住んでいるな、ここは。
いよいよここの住人に俺の渾身のラーメンを振る舞いたい、しかし醤油が、醤油が……!
☆
「残り物で作った間に合わせだけど、体にはいいはずだよ。ちゃんと食べて元気になりな」
大きなボウル状の容器、どことなくどんぶりに似たその中に入っていたのは、豚肉と野菜を煮込んだスープのようだった。色は白濁している。
「ありがとう、いただきます」
手が震える。こぼさないか心配だ。
ぺろ、っと一口。結構うまい。オバチャンたち、やるな。
「白く見えたのは豆乳ベースだからか。すりゴマも入ってていい香りだ。しかもこの、癖はあるが濃厚な塩気と旨味の融合は、まさか……!?」
一口目をすすり、口の中でスープの組成を確かめるように吟味する俺。
おそらくは調理場の仕切り担当らしいオバチャン(顔の区別はつかないが、一人だけ着ているものが少し派手)が、その様子を怪訝そうな眼で眺める。
「なんだい、口に合わなかったかい。私らの村は海沿いじゃないからね、商人が海の幸を持ってくるときはだいたい塩漬けなのさ。そこからにじみ出た汁も、もったいないから料理の味付けに使うんだよ。臭いはきついけどね。慣れればなんてことはない、むしろ病み付きさ」
「いや悪い、不味かったわけじゃあないんだ。そうか、魚の発酵液があるのか、魚醤があるのか……!」
説明しよう。
魚醤とは大豆醤油が一般的に広がるはるか古代から東アジアを中心に作られている、魚介と塩をベースとした発酵食品である。
いわばしょっぱい生臭液なので好き嫌いのはっきり別れる調味料だが、豊富なグルタミン酸の旨味に裏付けられたパンチのある味わいはラーメン業界でもファンが多く、隠し味に魚醤を使っているラーメン屋はいくつもある。
製法によって生臭さを可能な限り抑えて旨味を引き出したりなどもできるらしい。個人的には少し臭いくらいのほうが好みだが。
魚醤も大豆醤油も味の根幹は同じである。菌によって分解されたグルタミン酸などのタンパク質と、塩味なのだから。
俺の醤油欠乏禁断症状もずいぶん快癒した。頭も体もハッキリしてきた。
「なあオバチャン、この魚は商人が持って来るって言ったよな? なら、この村で酒はどうしてる? それも商人から買ってるのか?」
「買う分もあるけどね、大半は村の中で作ってるよ。うちの男連中はみんな大酒飲みだからねえ。別の場所に酒を造る工房があるのさ」
勝った! 二郎くん大勝利!!
豆乳があるから大豆もある。魚醤に慣れ親しんだ文化もある。
そして酒の工房と言った大規模な食品発酵のための作業場がある。
工房に行けば、酵母菌や種麹に分類されるような、発酵開始のトリガーアイテムが手に入る可能性が高い。
なら味噌や醤油も作れるということだ!!
などと、俺がニヤつきながら思考してスープをすすっているとき。
最初に俺を助けてくれたオッチャンたちがワイワイ話しながら食堂に乗り込んできた。
「おおい、お前が作る、らあめん、とやらはまだなんかのう」
「腹減って俺死にそうなんだけど」
醤油に気を取られてすっかり頭の中から抜けてたぜ。
「ああ、ごめんごめん。醤油ラーメン作れないからなあ。ちょっと豚骨煮込んで塩ラーメンにするから、最低半日くらい待ってくれるか?」
「そんなに待てるわけないじゃろ! お前を食っちまうぞ!!」
オッチャンたちの剣幕が怖いので、俺はすぐさま小麦を練って麺を作り、鶏ガラと魚介を中心に出汁をとった。
ボウル状の容器にそれを移す。トッピングは、鶏ガラを煮込む前に削ぎ落とした肉の部分を味付けして野菜と一緒に炒めたもの。
魚醤があるので味の組み立てに便利だな。大豆醤油のアテがまだまだ先になりそうだから、これからも積極的に活用しよう。
「ずいぶん細い食い物じゃな」
「おうおう、すごい湯気じゃ。器の中がろくに見えんわい」
「肉もっと増やしてくれよ。こっちは待ち過ぎて倒れそうなんだよ」
めいめいが自由にコメントしながら、それでも食事をはじめない。
「どうぞどうぞ、食ってくれよ。食って感想をもらえば、次にどう改良しようか、指針にもなるから」
俺が促すと、長老が他の連中を代表して、言った。
「こんな細長くてツルツル滑るもん、いったいどうやって食うんじゃ?」
ガッデム、こいつら、箸どころかフォークも普段使わないのか。
道理で厨房にナイフ状の突き匙とスプーンばかりあるわけだよ。
俺はとりあえずラーメン(らしきもの)が冷めないうちに、マッハで全員分のフォークを、木材を削って作る羽目になったのであった。
満足のいくラーメンを作る前に、ここの人たちに箸の使い方を覚えてもらう方が先なのか……?
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