主役度 ★☆☆☆☆
在職日数4日目
「あなた! あなた!?」
「ん……、あぁ、幸子?」
目を開けると、愛する妻の顔があった。そうか、あれは全て夢だったんだな。突拍子もない、すごく嫌な夢を見た気がする。
「あなた、大丈夫ですか? 最近お疲れでしょう」
「でもそんなところで寝てると風邪ひくよ、父さん」
そうだな、ありがとう。見渡してみれば、リビングのソファで寝入ってしまったようだ。苦笑いをし、息子に応える。彼こそが噂の龍太郎であり、わたくしの若い頃にそっくりの、なかなかな凛々しい顔をしているではないか。
「ちょっと変な夢を見たようだ。寝室で寝直すよ。龍太郎、勉強は終わったのか?」
「もちろんだよ、父さん」
優しい家族、温かい世界。自分が居るべき世界はやはりここなのです。ほっと胸を撫で下ろし、スーツを脱ごうとする。
「今日は召喚魔法を習ったんだ」
「え?」
その、聞き慣れない言葉に耳を疑った。正確にはこの短時間の内に嫌というほど聞いたが、全て夢として忘れるべき単語だった。いいや、もしかしたらこちらが――。
「タロウさん、見てくださいよ。可愛いネコマタコウモリでしょう?」
その笑顔があの忌々しい学長の顔を重なったとき、太郎は悲痛の叫びを上げる。垂れた頬の皮膚を指でさらに掻き落とした。
「うわああああ!!」
勢いで跳ね起きると、そこはまだ夢の中だった。いや、やはりこちらが現実なのか。掛けられた白いシーツで脂汗を拭うと、不意に声が掛かる。
「起きましたか?」
妻とは違う女性の声。幼く瑞々しい声の主は、周りを見渡しても見つからなかった。緑色の、貝の内側のような光沢がある床と壁が立ち並ぶのみ。体の下は硬いベッドだった。
有り得ない場所から人の声が聞こえるということは、これも向こうが言う魔法というものだろうか? また頭がクラクラしてくる。
「ここですよ、ソウマ・タロウさん」
目線を下に向けてみると、ひとりの女の子が呆れたように佇んでいた。浅黒い肌に引かれたアイラインとリップは、小学生くらいの歳には似つかわしくない。最近の小学生は進んでいると聞いているが、さすがにそれはやり過ぎではないか。敬語は使えているものの、全くけしからん。
白衣を着ているが、裾は少し床に着いていた。眼鏡や靴は大人用、なのだろうか。こちらも少し大きいように見える。
「コマリたち、診察よろしく」
考えに耽っていると少女の背中から綿毛のようなものがいくつも飛び出してくる。ふわふわと漂い、太郎の体にぴったりくっついた。
「え!? 何ですか、これは!?」
「動かないでくださいね。別に動いても取れませんけど。それはモスキートケサランパサラン。あたくしの助手です」
「モス……、何ですって!?」
何だかよく分からないが、よろしくないものに違いない。急いで振り払おうとしたが、謎の生物が離れる方が早かった。意外とすんなりと離れてくれる。
「大丈夫ですよ。ニホンのモスキートに比べて、こちらは痒くなりませんから。それに病も運びません」
モスキート……、ということは蚊か。植物のように見えたが、あれも生物。ということはやはりここで、怪しい生体実験が繰り広げられているに違いない。
一匹のモケモケ蚊が小さな手の平に乗ったのを確認すると、少女は勢いよく両手を合わせ、一瞬のうちに叩き潰した。
「えっ、ええええ!?」
先程は助手などと言っていなかったか!? 例え謎の生物であっても、パートナーは大切にするべきだろう。虫だからだろうか。だがなぜあの一匹だけ……。彼女の周りにはいくつもの綿毛が浮いている。
「心配しないでください。彼女らは生物であり植物なのです。一匹潰したからといって、その命が潰えることはありません」
言って、閉じた手を再び開ける。少女の右手の平には、吸われたであろう太郎の少量の血とピンク色の円陣が光っていた。左には平面になった毛玉――それがまたそよそよと動いたかと思うと、一匹が二匹になって空を泳ぎ出す。
「はっ?」
やはり目がおかしいのか。増えたように感じたのだ。それとも元々二匹巻き込んでいたのだろうか。
ごしごしと瞼を擦ってみるが、本当のところはすでに過去のことなので分からない。
「異世界の人は、常識事も全て説明しないと分からないのですね。いえ、この歳(・)では新鮮でもありませんが……。意識レベルも正常ですから、追々分かっていくでしょう」
「は、い?」
「肉体疲労が溜まっているので、過労と言ったところでしょうか。いま学長を呼んでいますので、しばらくお待ちください」
太郎が状況を良く飲み込めず戸惑っている間にも、話はどんどん先へ進んでいってしまう。いけない、止めなければ。せめてこの自分にも飲み込めるほどの時間が欲しい。そう思っていた矢先だが、ライランが勢いよく扉を開けて安心したような叫びを上げた。
「タロウさん! 良かったです、いきなり倒れた時はどうしたものかと思いましたよ!」
相変わらず朗らかな笑みを浮かべて、この大人を振り回そうとしている。抗議するならいまだ。心身ともに弱っている年長者の話を、思う存分聞いてくれよ、と力んでいた。
「あ、あの――!」
「過労ですってね、フィカさんから聞きました。彼女はニーデール・フィカ。保険医です」
「そう言えばまだ名乗っていませんでしたね」
少女はあっけらかんと返すだけ。名乗りはあまり重要なことではないのだろう。それはこちらも同じことで、もっと違う話をしたかった。
「あぁ、しかし、それはそうとして――」
「彼女はこう見えて、九十歳を超えているんですよ。先日、人面魚のヒレを食べ過ぎましてね! リュウタロウさんに会えると思って張り切っちゃったらしいです」
「え、きゅうじゅ……、はい?」
分からない単語が多すぎる。もっと順を追ってだな……、いや、そういうことではないか。早いところ自宅に帰らせてもらえないものか。現在決して美人とは言えないが、会えないと思うと妻が急に恋しくなった。あんな夢を見てしまったせいだろうか。
「疲労度が増したようだぞ、ライラン。詳しく説明してやりなさい」
「えー? わたしのせいではないですよ? タロウさんがいつまでもこちらの話を聞いてくれないから……」
「ライラン学長」
唇を尖らせて文句を言う様は、まるで子どもだ。それでもフィカの物言わぬ眼力の前では、このお喋り好きな学園長も押し黙ってしまった。
だが確かに、その言はとてもこの場に相応しい。決してこの世界のことを詳しく知りたかったわけではなかったが、まぁ、双方意見はあるだろう。擦り合わせと行こうではないか。
「んー、それではソウマ・タロウさん。まずは、我らが世界の成り立ちから説明していきましょうか。フィカさん、これ、借りますね」
言って、ライランはひとつの机を一本の指で滑らかに動かした。白い陶器のようなそれは、太郎の足元に置いてあったものだ。病院のベッドよろしく太郎の胸の辺りまで移動させる。キャスターは……付いていないのに。
ちらと机の脚を覗いた病人に淡く笑いながら、この魔法学長は語り始めた。
「さて、色々と気になることはあると思いますが、それはもう少し進んでからにいたしましょう」
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