【信長に挑みし者達~ワレノブナガトカクタタカエリ~】其の十【荒木村重《アラキムラシゲ》】

【信長に挑みし者達~ワレノブナガトカクタタカエリ~】其の十【荒木村重アラキムラシゲ


荒木村重アラキムラシゲ】は摂津国の茨木城・伊丹城(後の有岡城)を拠点にして活躍した織田家中途採用組の出世コースに位置した武将の一人である。

紆余曲折の末に織田家中で頭角を現した村重は越前一向一揆討伐・石山合戦・紀州征伐などの大舞台で連戦を重ねて武功を挙げた。

この頃に贈られた従五位下摂津守ジュゴイノゲセッツノカミに任ぜられるが織田信長との蜜月の日はここを境に暗転する。

1578年10月、有岡城にて村重は謀叛を決行した。

明智光秀らの説得に応じて安土城へ釈明に赴く所を家臣・中川清秀の進言によって取り止めた。

織田信長との抗争は1年程に及び多いに善戦したが側近・中川清秀+高山右近が織田方に寝返ると戦局は悪化の一途をたどり、兵糧も尽き始めた上に毛利家の援軍の見込みもなく窮地に陥った村重は最終的に妻子を見捨てて逃亡に及び後に織田信長の指示により有岡城の人質ら122人が殺害されてしまった。

また、村重一族と重臣の家族ら36人は大八車に縛られたまま京都市中を引き回された末に六条河原で斬首された。

後に織田信長が本能寺の変にてタオれると堺に戻り居住。

その後豊臣政権下で大坂にて茶人として復帰して千利休と交流を結ぶなど文化人として活躍したが口の悪さが災いしたか豊臣秀吉に関する悪態の言動を秀吉の正妻・北政所キタノマンドコロに察知されたことに恐れを抱いて出家・荒木道薫アラキドウクン荒木道糞アラキドウフンとも伝わる)と変えて1586年に没した。

享年52歳。


(まとめ)荒木村重の謀叛をどう評価するかで評価が分かれそうではあるが筆者としては信長に反旗を翻して尚も生き抜いて生涯を終えた一点に於いて、荒木村重が他の追随を許さない生への執着を垣間見た気分になった事を述べてまとめとしたい。

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