斉天大聖

中村ハル

第1話 君の名は

 私の住むマンションは、とても大きい。

 大きいので、住民の全部は把握しきれないし、そもそもこんな世の中じゃ、隣近所の人の顔も名前も知らない。ていうのは言い過ぎで、流石に並びの住人くらいは挨拶もするし、時には退屈したマダムにお付き合いして、共有廊下で立ち話もする。

 でも、それだけだ。エレベータで乗り合わせた住人と、言葉を交わすような習慣はない。そりゃ、毎日通学するのに、決まった時間に家を出れば、同じ顔ぶれが小さな箱に入るわけだけど、それでも「あ、今日もいるな」くらいで、お互いに素知らぬ顔で目を逸らす。

 そんな中でも印象に残っているのは、時々帰りも同じエレベータに乗り合わせるちょっとワイルドなお姉さんと、犬の散歩帰りの少年、野良猫に餌やりしてる自転車のおばさんと、いつも酔っ払ってるような小柄なお爺ちゃんだ。

 今日もお爺ちゃんは酔っていた。

 いや、酔ってはいないのかもしれないけど、酔っ払ってるみたいに、日に焼けた顔を鼻まで赤くして、のらりくらりと前を歩いている。いつもお決まりの、何処かの国のスポーツチームらしいロゴの入った紺の古いキャップと、随分と肌馴染みの良さそうなコットンシャツをランニングの上に羽織っている。

 痩せた小麦色の手に、コンビニのアイスコーヒーなんか持ってるけど、お洒落さは皆無だ。

 なんだか怪しげなので、いつもは何となく歩みを遅くして、なるべく同じエレベータには乗らないけど、今日の私はうっかりしていた。何せ、機嫌が良かったのだ。

 長かった髪をさっぱりと短く切って、心身共に生まれ変わった気分だった。別に生まれ変わりたい理由があったわけじゃない。単に暑いのと、お風呂上がりのドライヤーの時間を減らしたかっただけだ。

 誤算といえば「さっぱりと短く」とオーダーしたら、後頭部を、まさかの3厘で刈り上げられたことくらい。だけど、それが韓流アイドルみたいに妙に似合って「なぜ今まで私は髪など伸ばしていたのか!」と昨日まで、毎朝癖っ毛と格闘していた己を呪ったくらいだ。

 そんな訳で、私は足取りも軽く、お爺ちゃんと同じエレベータに乗り込んだ。お爺ちゃんは自分の降りる階のボタンを押すと、箱の奥に寄り掛り、私は扉の脇に立つ。せっかちなので、なるべく扉の近くにいたいのだ。それに、ボタンを見ると、降りるのは私の方が先だし。

 エレベータは2人を乗せて、静かに上がる。モーター音だか空調の音だか判らない唸りだけが、箱に満ちる。

 ちん、と軽やかな音がして、エレベータが停止した。わかっていても、私はいちいち頭上の階数表示を見上げる。降りるフロアだ。音もなく、扉が開く。歩き出そうとした、その時。

「悟空」

 背後から、枯れた声がそう言った。

「え?」

 背中にぶつかった声は、明らかに私に向けたもので、けれどそれはもちろん、私の名ではなく。

 ぎこちなく振り向くと、閉じかけた扉の向こうで、お爺ちゃんは私を見て、ニヒルに笑っていた。

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