五月十七日②


「おはよう、みか」


 授業の始まる五分前。後ろからの声を受け、滝川たきがわみかは振り向いた。声の主は詩歌しいかだった。相変わらず眠そうな目をして自分の隣りに座る姿に、みかは「おはよう」と応える。その日の初めの講義で、二人は一緒だった。


宏輝こうきくんは?」

「――さあ?」


 詩歌は問いに対し、さも当然とばかりに知らぬ存ぜぬを決め込んだようだ。高野たかのマナといい、何故二言目には、弟の所在を尋ねられるのだろう。とはいえ、それもそのはず。


GutenMorgenおはよう。麗しの詩歌とみか。今日もお互い、勉学に励もうではないか」


 二人の後方から、やや独特なイントネーションをした日本語が投げ掛けられた。みかが見上げると、そこには満面の笑みをしたシュンと、その後ろで控え目に挨拶する宏輝の姿がある。

 その日のその授業は、居合わせないマナにとって、あの人たち、、、、、が全員顔を合わせるものだ。

 大講義場の中央のやや後方よりに、四人は陣取っている。前列には詩歌とみか。そのすぐ後列に宏輝とシュンがそれぞれ腰を落ち着ける。講堂の座席の八割ほどは埋まっているが、彼らの周囲には、まるで遠慮されるかのように、学生たちの姿はなかった。その様子は、学校ならばしばしば見られるはずの『仲良しグループ』である彼ら四人が、周囲に溶け込んでいない有様を示している。


「そういえば。聞いた? 詩歌」


 そろそろ授業が始まる。講師はまだ来ていないが、訪い掛けたみか以外は、教科書とノートなど筆記用具を準備している最中だった。

「なにを?」詩歌は準備を済ませてから、ゆっくりとみかに尋ね返す。みかの問いは主語が抜けているので、彼女が何に対して質問しているのか、判らなかったのだろう。


「心理の村田むらた先輩の話」


 みかはやや神妙な面持ちで詩歌に言う。詩歌は聞いていないと首を横に振った。彼女にとってみれば、『心理の村田先輩』というのが、果たして誰であったか記憶にないらしい。


「俺は聞いているぞ。あくまで噂であるが」


 女子二人の間に、長い首がぬっと割り込んできた。咄嗟に身は翻され、男女の間には距離が置かれる。あまりに突然だったので、詩歌はいつものように右眉をひくつかせる。みかは二人を見比べながら、苦笑を浮かべた。

 おほん、とわざとらしく咳払いをしてからのシュンの話はこうである。

 『スタイルフリー』というサークルの会長を務めていた心理学部三年の村田という男が、この四月に学舎内で大怪我をして病院に搬送された。命に別条はない。にも関わらず、つい最近まで面会を全て断っていた。それが、村田の彼女というのが面会に行って、話をしようとした。


「又聞きの又聞きで、ほとんど信憑性はないのだがな。どうやら村田先輩は、右手に右足が、、、、、、縫い付けられていたらしい」


 詩歌は素っ頓狂な顔をした。よくシュンの言う意味が解らなかった。

 つまり、噂によると、村田は右手と右足を切断された後、何故か、それぞれを逆にして縫い付けてある状態で発見され、入院したらしい。しかも傷痕は、何か月も何年も、あるいは生まれつきそうであったかのように奇麗に塞がっていて、しかも、神経も繋がっていて自由に動かすことができた。

 明らかに敵意を持った人為的な仕業なのに、本人には、事件事故の際の記憶が曖昧で、犯人に心当たりはない。スプラッターホラー映画のような状況らしかった。


「流石にそれは、ほとんど噂だと思うけど」

「うむ。しかし火のないところに煙は立たぬ。日本のメジャーで陳腐なことわざだ。真実はどうあれ、尋常でない事件ではあるらしい」


 気味悪そうに顔を青くし、口元を押さえるみかに、シュンは付け加えた。さらに二人が言うには、他にも噂のパターンがあるらしい。

 そもそも彼のサークルは評判が良くない。いわゆる『ヤリサー』だったらしいことから、被害にあった女子から村田は復讐され手足を切断されたとか。見舞いに行った恋人が、実は浮気を非常に気に病んでいて、たまたま軽い病気で入院していた村田を見て、右手を切り落とそうとしたとか。

 その他、悪の組織による改造実験、魔法使いの儀式、宇宙人が拉致した、などなど。

 およそ真実とかけ離れているだろう、都市伝説的な怖い話も出ているということだった。

 ただ、村田に四肢の欠損があること。加えるに誤って治療され、おかしな風に手足がくっつけられている、というのはほとんど共通となっている。

 事件の目撃者は一切いない。事件後の村田に会った『彼女』が誰かも判らない。テレビ番組にも新聞雑誌にも取り上げられないし、警察の取り調べも大学に来ている気配がない。ないない、、、、尽くしであるのに、どこからか噂話が発生して蔓延している。シュンが言うように、みかが顔色を悪くするくらいには、様子のおかしい噂話だった。


「俺も気になってはいるが、村田先輩とは面識がない。友人にも、顔は知っているが、特に親しいというのはいなくてな。故に、仮に本当に入院していたとしても、どの病院かは判らん」


 シュンはさも残念そうに首を振った。次いで「宏輝は?」と隣に訊く。その返答には、質問者と同じ動作が報いられた。


「でも詩歌は、声掛けられてたよね。ほら、歓迎会のときに」

「そうだっけ?」


 みかは口元に人差し指を当てて、当時を思い出すように上を向きながら言った。対して詩歌は、記憶を辿っている風でもなく、一切の興味がないように返した。


「なんでまた詩歌はそんな所にいて、そんな奴に声を掛けられたんだ?」

「わたしも詩歌もサークルに入ってないから、暇潰しも兼ねて寄ってみたの。そしたら、無性に詩歌が気に入ったみたいでね、しつこく声を掛けられたの」


 歓迎会とは、入学式の後、このキャンパスで催されるものだった。新入生に向けて、部会員を増やしたい部活・サークルなんかがこぞって参加し開催される。別に一年生でなくとも、詩歌やみかのようにサークルに入っていない連中も参加できる。極端な話、暇潰しくらいの理由があって、大学に所属する学生なら、誰でも見て回ることができるイベントだった。

 そこで詩歌は、村田に目をつけられた。

 彼女自身は全く興味がなかったらしく、話を聞くことも、振り返ることすらしなかった。肩や手を掴まれたけれども、いつの間にかするりと抜けて、相手にしなかったらしい。その様子を見て慌てたみかが、詩歌の手を強引に引っ張って、会場から逃げ出した。詩歌と村田との邂逅は、概ねそういうものであったらしい。


IchVersteheなるほど! では村田先輩というのは、詩歌をすら守備範囲に収める、大層な雑食獣であるのだな」


 シュンは話を聞いたのちに、膝を叩いて大笑いをした。確かに詩歌は、後姿だけで言えば、長身だし痩せ身だし、姿勢も良いので目立つ。ただ正面に回って会話をした後で、その姿に惹かれた者たちは悔恨の溜め息を吐くのだ。詩歌は醜女しこめでないが、シュンによれば、大変に残念な女性の部類らしい。


「どういう意味?」


 顔面の半分を痙攣させながら振り向いた詩歌は、しかし、「授業始まるよ」と言った弟の宏輝によって、剥いた牙を無理やり押さえつけられた。見ると、定刻の三分遅れで講師が姿を現し、マイクを取って、授業を開始しようとするところだった。

 渋々といった態で、詩歌は視線を前に戻す。シュンは変わらず、人をおちょくるような趣味の悪い笑顔をしていた。宏輝とみかは、二人して苦い笑いをして授業に臨むことになった。一般教養の英語の授業は、開始のときはともかくとして、その最中は、極めて平和に進行していった。

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