短編集

根本仁

第1話 幽霊屋敷、それから

 夏になると、街で学生がよく話題に出す噂がある。街の北に見える山の麓に建てられた西洋風の屋敷の話。その屋敷では体の弱い少女が自身の生涯を悲観して自ら命を絶ったという話。

 きっとどこにでもあるような一つの怪談話だ。しかし、娯楽の少ないこの街の若者にとってはちょうどよい刺激であり、その為か肝試しの場として利用されることもしばしばあった。怖いもの見たさで行った者たちは口をそろえて「何もいなかった、何も起きなかった」と言う。そうして屋敷へ足を運ぶ者は季節が移ろうにつれて少なくなっていく。そういうものだった。

 照りつける太陽の勢いが弱まり木々が赤く染まり始めた頃、一人の青年が噂の屋敷に足を踏み入れた。その日は朝から雨が降り続け、予報では夜になる頃には大雨になるようで、川や山には近づかないようにと天気予報士が注意を促していた。

 青年が屋敷の扉を押すと人ひとりが通れそうな隙間が開いた。そこから中へと入っていく。中は今もまだ電気が通っているのか、かすかに明るさを感じる。目の前の二階に繋がる階段を上り始める。ギシギシと崩れそうに悲鳴を上げている。

 上階に到着すると左右に廊下が広がっており、右手奥にある扉だけが半分開いているのを見つけた。扉にゆっくりと近づいていく。耳を澄ますが物音はしない。扉の前まで来ると、静かに扉を開いて中へ入ってみる。恐怖心はない。無機質な好奇心のみが今の青年を動かしている。

 窓の横に置かれた椅子に座っていた少女と目が合った。何かを読んでいたようだが、驚いたようにこちらに視線を向けた。黒いセーラー服を着ており髪を一つにまとめている。二人はしばらく硬直していたが、少女が静かに微笑んで声をかけた。

「お兄さんも肝試し? それにしても少し季節外れだけど」

 椅子から立ち上がると手に持っていた本を手近にあった棚に置いて青年に近づく。

「お兄さん、お名前はなんていうの?」

 青年はじっとこちらを見てくる少女の視線から逃れるように目を逸らす。少女に言いたいことは思い浮かぶのだが、視線が気になって口を開くことができなかった。

「あ、まずは私の自己紹介からの方がいっか! そうだよね、いきなり知らない人に名前聞かれても怪しいもんねっ」

 何も答えずにいると少女は何か納得したよようにうんうんと頷くと顔の前でピースしてみせた。

「私の名前は柚子。夏になるとここって人がよく来るから居心地悪くてさ、秋になったらこうしてたまに羽を伸ばしにきてるんだ」

 にへへ、と照れ臭そうに笑うと「はい、次はお兄さん!」と指差してきた。

「…………馨」

「カオル、カオル……」

 青年がどうにか答えると柚子と名乗った少女は、青年の名前を何回か復唱するともう一度頷いた。

「いい名前だね! それで、お兄さんはここに季節外れの肝試しをしにきたの?」

 柚子は人懐こい笑みを浮かべて馨を見つめる。馨は彼女の明るさにたじろぎながらも質問で返すことにした。

「…………き、君は。ここで何をしていたの?」

「さっきも話したけど羽を伸ばしてるんだよ。……本読みながら雨音を聞いていたの。ここって夏しか人が来ないからね、いつもは肩身の狭い思いしてるからまた人が集まるようになる前にリフレッシュしてるの」

 柚子は棚に置いた本を取りに戻ると馨に渡してみせた。古本なのかページは日に焼けており、表紙のカバーもようやくひっかかっているかのようにボロボロだ。タイトルも分からなくなっている。

「…………ボロボロだね」

「まぁね、でもそれが愛読書なの」

 中身を見てみると立ち眩みがした。全文が旧漢字であったり片仮名であったりと、文学作品に触れる機会のない人にとってはとても読めたものではない代物だった。

「…………難しそうな本を読んでるんだね」

「文学少女ですのでっ」

 柚子は誇らしげに控えめな胸を張ると、馨はくすりと笑った。

 外を見ると近くで雷がゴロゴロと唸りだしているのが聞こえてきた。束の間、大粒の雨が屋敷を叩き始めた。

「ありゃ……これはしばらく帰れそうにないかもね」

 柚子が困ったように窓の外を見る。窓はガラスが割れていて雨粒が好き放題に部屋の中へ入ってくる。

「そ・れ・で! お兄さん……じゃなかった。カオルさんは何しに来たの?」

 次はアナタの番! とでも言いたげに馨にずい、と近寄る。

「何か言いたくない理由でもあるの? それともまだ私が怪しいかな……?」

 彼女はどこか寂しげな表情を浮かべる。馨は気まずそうに口をつぐむ。

「……何か、訳アリな感じ?」

 しばらくの沈黙が続く。外では雷がどこかに落ちるような轟音が響く。雨は強風にあおられ木々を薙ぎ倒さんばかりの勢いで横殴りに降り注ぐ。馨は責め立てるような雨音の中、かすかな声でこぼした。

「自由になりに来たんだ」

「……自由?」

 柚子は馨の吐露した言葉の意味が一瞬わからなかった。しかし、彼の悲痛な面持ちを見て理解してしまった。

「……ああ、そういうことか」

 柚子は馨の両肩に優しく手を置いた。びくりと反応したが、拒否する素振りは見せなかったのでそのまま口を開いた。

「カオルさんはさ、それでいいの?」

 優しい声色で問いかける。頭一つ違う青年は俯いたまま何も答えず、どうしてか幼い子どものように見えた。

「…………生きていることがつらいんだ」

 そう答えた馨の声は震えていた。見ると一筋の涙が頬を伝っている。それを拭うこともせず彼は言葉を続ける。

「理由なんて些細な事だよ。親に見捨てられた。僕の書いた筈の作品が他人の名前で表彰された。恋人が他に好きな人を作って出ていった。人間関係に疲れた。部屋から見える木に少し早い椿の花が咲いた。その花が綺麗だった。昨日は今日と違って晴れていた。そんな晴れやかな日でも悲観的でいる自分が心底嫌になった。

 他にも挙げれば暇がない。僕以外皆死んでしまえばいいと思った。けれど、むしろこれは僕が死んでしまえばいいんだって思ったんだ。だからせめて最期は人が寄り付かない場所で終わろうと思ったんだ」

 馨は嗚咽交じりに言い切ると、その場で座り込んでしまった。

 柚子は彼の抱えた感情に共感ができた。不条理や人の思惑などが絡み合い、不信感を募らせて全てを投げ出したくなるような気持ち。

 それこそ、彼女とって馨の言葉は痛いほど刺さるものだった。柚子は小さくなった馨にかぶさるような形で抱き寄せた。

「カオルくん、今まで辛かったんだね。それなのに今日までよく頑張ってこれたね。偉いよ」

 少女の優しい声色に馨は少し救われた気持ちになれただろうか。今日会ったばかりの相手の言葉で相手の肩の荷を下ろすことができるのだろうか。少女にはわからないが、せめて声をかけ続けていたかった。

「でももう大丈夫だよ。楽になる決意ができただけ凄いよ。私はそんなこと、出来なかったからさ……」

 馨は柚子の言葉が引っかかりゆっくりと顔をあげる。見ると柚子も涙を流して、それでも優しく馨に微笑んで見せた。

「このお屋敷って女の子の噂があるじゃない? 今日みたいに天気の悪い日にさ、彼女は縄で首を括ろうとしたんだって。けど、自分で自分を終わらせるには勇気が足りなかったみたい。そんな時にお母さんが部屋に入ってきたんだって」

 柚子は馨から手を離すと横に座り込んだ。ボロボロの本を撫でながら、何かを懐かしむように話しているその姿は、まるで噂の当事者のようにも見えた。

「お母さん、手にはナイフを持っててさ。その女の子を殺すつもりだったのよ。何もかも嫌になってね。結局、その子はお母さんに殺されちゃったみたい。そりゃ、生まれたものの病弱だし、できないことが多い反動でわがままになるし、当たり前だよね――」

 柚子は本を撫でるのをやめた。

「お母さんがくれた本、大好きだったんだけどな――」

 彼女が吐き出すように言う。馨は降り止まない雨のように大粒の涙を流す少女にかける言葉がみつからなかった。

「ごめんね。なんか、変な話しちゃった」

 少女は涙を拭って笑ってみせる。その笑顔を見ているのが、馨はどうしてか辛かった。

「えと、なんの話だったっけ……そうそう、つまりだよ」

 柚子はスカートの裾をぎゅっと握ると、馨の顔を見て言った。

「自分を終わらせる覚悟ができる人が、私は羨ましい……」

 少女は俯いたまま動かなくなった。馨も同じく動かないままでいた。

 馨にとっても彼女は羨ましい存在だ。自らではなくとも、悲観していた世界から離れることができた。自身の求めるものを手に入れている存在と今こうして対峙しているのは奇妙ではあるが、彼は彼女という存在が多少の励みになった。

「君といられるなら、僕はここで終わりたいな」

 不意に口をついて出た言葉に柚子はばっと顔をあげた。くしゃくしゃに濡れた顔に驚いた表情を張り付けて、何か言いたげに口を動かしている。

「……君は、柚子は後悔があるかも分からないけれど、僕にとって君は今、すごく背中を押してくれる存在な気がするんだ。誰にも見向きもされなかったような僕に唯一手を差し伸べてくれた人に思えた」

 馨はゆっくりと立ち上がる。外は暴風が吹き荒れ停電が起きているのか、窓の向こうに見える街は押し潰されたように黙り込んでいる。

「……君と一緒にこの悲観的な街を出ていきたい」

 青年は少女に手を差し出す。少し逡巡したあと、少女は青年の手を握り返す。

「……いいの?」

 少女が問う。

「構わないよ。最期だけでせめて自分で決めたい」

「……そっか。やっぱり羨ましいな」

 柚子がにへへ、と笑ってみせる。馨も静かに笑い返す。屋敷の外は最早嵐のように一体を傷つけ始めている。轟音が屋敷に響き渡る。恐らく倒木が激突したのだろう。振動がかすかに足へ伝わってくる。続けざまに外が真っ白に光り、刹那轟音が屋敷を貫いた――。


 ――街に甚大な被害をもたらした嵐が過ぎ去った。

 インフラのほとんどが壊滅し、日本の各地から支援部隊が派遣されるほどのものだった。何名かの行方不明者も発生したようで捜索隊も出動する事態となった。

 捜索隊は、ある青年が嵐が来る前に山へ足を運んでいるのを見たという情報を聞きつけ捜索隊が山に入っていった。情報によると、青年は荷物を持った様子はなく、どこか様子がおかしかったという。また、この街で都市伝説になっているある名家の噂も耳にした――。


 ――捜索隊が山に入ってしばらくすると噂の舞台となっていた屋敷を見つけた。この嵐でだいぶ荒れたのか、屋敷に倒木が突き刺さり、半分が焼けていた。恐らく雷が落ちたのだろう。もしここに青年がいたとしたら恐らくもう……。それにしても、時代が時代であればよほど立派な邸宅であっただろう。こんな屋敷を建てられる名家が呪いに遭うなど、都市伝説ではよくある話だがなんとも不憫に思ってしまう。

 周囲を捜索して半日ほど経つと、捜索隊の一人が声をあげた。人を見つけたというのだ。数人が駆け付けると肌の白い少女で、小さな祠にもたれかかるようにして意識を失っていた。あの嵐で無事なことが奇跡的だが、それを喜んでいる暇はない。すぐさま別部隊と連絡を取り合って救助を行おうとした時、別の捜索隊が悲鳴をあげた。

 何事かとそちらを見ると、その捜索隊何やらおびえた様子で少女を指さしていた。

 ――に、似てないか?

 誰かが声をあげる。みなの視線がその捜索隊員に集まっている。

 ――お、女の子にだよ。さっき聞いた都市伝説の……。

 その一言でその場が一瞬にして凍りついたのがわかった。みなが恐る恐る少女に目を向ける。……確かに、話に聞いていた容姿にとてもよく似ている。

 …………捜索隊を仕切る男はあることに気が付いた。先ほど自分たちに屋敷の都市伝説を話してくれた「少女」と目の前の十五歳ほどの少女。錯覚を疑うほど似ているではないか――。

 それから捜索隊はつつがなく行方不明者の捜索を行ったが、山からはこの「少女」しか発見することができなかった。

 この嵐の数年後、この街は地図の記載から消滅してしまうが、それはまた別のお話――。


「てな感じで、僕がまた変なことに巻き込まれることになってしまったのサ」

 黒よりも黒い、深淵を思わせる瞳を邪悪にぎらつかせながら夏にも関わらず学ランに身を包む黒い青年は悦びに身をよじる。

「それにしても、あの街は厄介な山神を信仰していたよね。まさか人を呪いの壺にしてしまうなんて、しかもそれが今も尚あの街で生きているなんて!」

 これはきっと楽しいに違いない! そう天に放つと胸ポケットから手帳を取り出し自身の家紋が刻まれた万年筆を走らせる。

「さァて、神座の名にかけて今回もサクっと怪異解決しちゃいますかねェ」

 氏名、神座八重。職業、学生。兼怪異蒐集家。彼出ずる所に怪異あり。

 その姿を見た時は――。

「僕の姿を見た時は手の届く範囲に入らない事。じゃないとキミも障られちゃうかもよ?」

 神座八重。まだ付き人を始めて間もないがとんでもないヤツだ。

「結ちゃん、語り手はもういいから早く行くよ」

 幾多数多の怪異の呪いをものともしない化け物が私に声をかける。アイツの瞳は私の心まで見透かしているようで嫌いだ。

「ようで、じゃなくて事実見透かしてるけどね。スケスケだよ結ちゃん」

「はぁ……。じゃあ私が次に言いたい事はわかるわよね?」

 厚いレンズ越しにアイツを睨みつける。

「そんな怖い顔しないでよ。憑いちゃうよ? ――僕らがこれから行くのは山津街。名前の通りむっかしから山神への信仰が篤い集落が発展してできた街だよ。数年前に大昔に生贄にされた筈の少女が山の麓で救出された。それを機にあの街ではおかしなことが立て続けに起きているらしい。僕らの役目はあの街の怪異の解明」

「でもその街って地図には載ってないんでしょ? 人はまだいるの?」

「そりゃそうだよ。余所との交流を途絶した限界集落がそのまま現代技術を獲得したようなおかしな場所だもの。もしかしたら僕らの住む街よりも技術が発展しているかもよ?」

「そりゃまた規模が大きいことで……」

 頭を抱えると神座は朗らかに笑った。コイツが朗らかに笑う時はだいたいろくな事が起きない。私はこめかみに走る痛みに顔をしかめた。

「ほらほら、結ちゃん。見えてきたよ」

 かれこれ一時間ほど何もない田舎道を歩いていると前を歩く神座が指をさす。その指さす方向へ目をやると――。

「さいっあくなんだけど……」

 それはたしかに街だった。高層ビル群があったり象徴となるタワーがあるような、よくある街。街なんだけど……。

「中央のあれ、何?」

「何って、きっとあれが山神の本堂だろうね」

 高層ビル群のはるか上空。そこには地面からごっそりと抜き取ったように一つの山が浮遊していた。こんなのが二〇二〇年の世界にあっていいのだろうか?

「これはすごい、まるでSF小説に入り込んだみたいだ」

 神座はギラギラと瞳を光らせている。

「最悪の場合山神を相手に仕事しなくちゃいけないから気を付けてね? 結ちゃん、連れてかれちゃうかも」

 今からもう足取りが重い。私たちは無事街を出ることができるんだろうか……?

おじいちゃん、どうか私をお守りください……。

今の私じゃ祈ることしかできなかった。

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