第27話 先生の変更

 それから三、四か月経った頃。発表会が十月中旬であったから、二月くらいだろうか。意外にも朝輝がその異変に気付いた。


 璃緒は父と母に心配かけまいと、迎えに来てくれる母とはあまり顔を合わせないようにしながら明るい声で話し、家に帰ってからは泣いたことを悟られないようにした。

 それは彼女にとっては案外簡単なことである。レッスンの時間が七時なので、夕食はいつもレッスン前に済ませていたから、帰ってからは両親と顔を合わせなくても良かったのである。

 ただ一人、朝輝だけは違った。


 朝輝は璃緒とは五つ歳が離れた弟。彼は姉がレッスンから帰ってくるたびに部屋に籠ってすすり泣いていることを知っていたのである。

 そして朝輝は母に言った。


「おねえちゃんが、ピアノをしたあと、ないてるよ」


 その後両親と話し合い、璃緒はそのピアノのレッスンから解放されると、弟の朝輝が習っていたピアノの教室に移った。

 朝輝のピアノの先生は、璃緒に教えていた先生とは違うのである。


 璃緒と朝輝の先生が違うのは、単純に「習う時期が違った」から。

 ピアノの先生は、いつも幼稚園に来ていた。


 私立の幼稚園だったので「子どもに充実した教育をさせられる環境が整っています」という幼稚園側の思惑と、生徒の確保に苦労しない方法を取ったピアノの教室側の利害が一致したのだろう。


 ピアノのレッスンは、曜日によって担当の先生が決まっている。月曜日は〇〇先生、水曜日は△△先生というように。


 そのため、璃緒と朝輝のピアノの先生は最初から別だった。また朝輝に至っては、途中で先生が結婚のために辞めてしまったため、母が別のところへ通わせたのである。璃緒は、朝輝が自分よりもピアノが出来るのは半分は彼の才能であり、半分は師事した先生の違いによるものだと思っている。


 実際、先生が代わったことによって、璃緒はコンクールに出るという経験をした。それが良かったかどうかは分からないが、間違いなく前の先生のところでは出来なかったことだろう。しかし、ピアノのレッスンは正直好きではなかった。

 先生が代わってから五年間続けていたが、朝輝のようにピアノを弾くことが楽しくてやっていたわけではない。単純に意地で続けていただけである。


(でも、何で意地になってやってたんだろう……)


 璃緒は「96」という設定になったメトロノームを見つめた。『HANONハノン』を練習したときのものがそのままになっているのだろうが、自分の演奏技術が中々上がらないので腹が立ったことが何度もあった。右手よりも上手く動かない左手を責めるように、引っぱたいたこともある。それでも何故、続けていたのか。


(……)


 彼女はしばらくメトロノームを見ていたが、重りを上に上げて「80」に合わせる。そして背の低い戸棚の上に置いて針を少し動かすと、カチ、カチ、カチ、カチと鳴った。瑞樹のところで聞いたときと同じ速度である。


「まさかヴァイオリンのために、再びメトロノームを使う日が来るとはね。私も想像できなかったよ」


 そう独り言ちると、璃緒は再びヴァイオリンをぎこちない手つきで肩に載せ、ボーイングの練習を始めるのだった。

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