第22話 調律とボーイング

 弓は床に対して垂直に持っている場合は軽いため問題なく持てるが、寝かせた途端急に重くなる。


 ピアノを弾くときにも指の力が必要だが、どうやらヴァイオリンにも必要らしい、と璃緒は納得するように一人で頷いた。


 ヴァイオリンに弓を置いたら、バイ~ンと情けない音が出てしまったが、とりあえずは「構え」が出来たので、音を合わせることができる。


「ええとAアー線は……」


「顎当て」から「さお」に向かってヴァイオリンを見ると、A線は右から二番目の弦だ。璃緒はそこに弓を置いてダウン(下げ弓=弓の根元から先端に向かって移動)させる。すると、掠れた「ラ」の音が鳴った。


「おおっ、音が出たっ」


 今度は弓をアップ(上げ弓=弓の先端から根元に移動)させると、スマホの画面に表示された音叉の針が、ふらふらと揺れつつも、真ん中の位置にとどまろうとする。どうやら合わせるべき音になっているようだ。


「よし、次」


 A線と同様に、残りの弦も合わせる。

 弦はそれぞれ影響し合っている。よって、A線が合っていても他の弦を調律したら、再びA線に戻って直さなくてはならない、と瑞樹が言っていた。

 もしかすると、何度も合わせる必要があるのかと覚悟していたが、借りたヴァイオリンは素直なのか、璃緒はアジャスターをほとんど回すことなく、調律が完了した。


(調律が出来たら、次は……と)


 璃緒は仕事用の手帳に書いたメモを読む。そこには「ボーイング」と書かれていた。航空機の名前に似ているが、それではない。日本語に訳すと「運弓法」という。


 璃緒は、メモを見ながら昨日の瑞樹の話を思い出していた。


♢♦♢


「『ボウイング』もしくは『ボーイング』とも言いますが、弓の技法のことです。ヴァイオリンを習う人たちは最初に、必ずこれを学びます」


 ピアノで言うところの、「指の練習」のようなものだろうか、と璃緒は説明を聞きながら思う。


 璃緒はピアノを習い始めたとき、最初に「指をくぐす練習」を習った。

 右手の親指をピアノの中心にある「ド」に置いて、「レ」を人差し指、「ミ」を中指と弾いていく。だが、そのまま「ファ」を薬指、「ソ」を小指で弾いてしまうと「ラ」と「シ」を弾くことができない。


 そうならないように「ミ」を中指で弾いたら、中指の下に親指を通すのである。すると「ファ」を親指、「ソ」を人差し指で弾くことができ、これを繰り返していけばピアノの端まで止まらずに弾き続けることが出来るのである。

「指をくぐす」ことが出来るか出来ないかによって演奏の幅は大きく広がる。だからこそ、一番はじめにその練習をさせるのだろう。


 瑞樹は言葉を続けた。


「ご存知の通り、ヴァイオリンは弦を弓で擦って音を出します。つまり弦の上で弓を常に動かすことが、基本的な動作ということです。そのための練習として弓を動かす『ボーイング』をするのです。やり方をお教えしますね」


 そう言って瑞樹は、自分用のヴァイオリンを彼が使っていたテーブルから持って来た。璃緒が借りたヴァイオリンよりもずっと色味が薄い。肌色に近いだろうか。濃い色はテレビなどで見たことがあるが、こんなに薄いものは初めてだったので、璃緒はヴァイオリンも色々な色があるんだなぁと、少しだけ興味が湧いた。


 一方で瑞樹は、慣れた手つきでヴァイオリンを左肩に載せ、弓を持つ。璃緒が苦戦していた一連の動作は、彼にとってはなんということもないだろう。

 そう思ったときだった。

 ヴァイオリンの渦巻きに向かって目を細める瑞樹の姿に、璃緒は思いがけずドキリとする。肩にヴァイオリンを載せただけだろうに、胸のなかで名前の分からぬ感情が子犬が楽しそうに駆け回るようにぐるぐると走っている。


(もしや、私は「ヴァイオリンを構えている人」……フェチ?)


 璃緒は瑞樹から目を逸らし、「いや、そんなわけない」と自分の心を落ち着かせる。


 彼女がそんなことを思っているとは露知らず、瑞樹は弓の根元をA線にさっと置く。


「構え方はこんな感じに弓を置いたら、ゆっくりと下に動かします。このときメトロノームがあればいいですね。メトロノームは家にありますか?」


 なければアプリもありますよ、とお勧めする瑞樹に、気持ちが落ち着いた璃緒は彼の方を向いて「一応、あります」とだけ答えた。ピアノを習っていたので、当然家には置いてある。ただ、ほとんど使ったことはなかったが。

 瑞樹は一度ヴァイオリンを肩からおろすと、テーブルの上にあったメトロノームを動かした。すると、カチ、カチ、カチ、カチ、と規則正しくリズムを刻み始める。


「テンポは80に合わせます。一分間に80拍ということです。4拍する間にA線に置いた弓をダウンさせます。1、2、3、4と4拍の間に弦に置かれている弓の位置が、根元から先端に移行できるように合わせます。それも一定の速度で。どこかで早くしたり遅くしたりして合わせてはいけません。常に、一定の速さで4拍に収めます。ちょっとやってみますね」


 瑞樹は再びヴァイオリンを構えると、A線、つまり「ラ」の音を鳴らした。


 ——ラー……。


 弓をダウンさせ、4拍の間に「ラ」の音が鳴る。飾り気のない、真っ直ぐな「ラ」である。弓が先端まで移動してきたら今度はアップ、つまり弓の先端から根元に移動させる。それを何度も繰り返すのだ。


「と、こんな感じです」


 A線の上を二往復したのちに、瑞樹は笑って続けた。


「ここまで、次のレッスンまでやれたらやってみて下さい」


♢♦♢



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