五日目

 酷く寒い朝だった。


 まだ十月の下旬だというのに、まるで冬の室内のようだった。

 曇天のせいで部屋の中は薄暗く、時間感覚が曖昧になっていた。

 スマートフォンで時間を確認する。時刻は午前十時を少し過ぎたところ。

 隣に眠る少女を見る。眠りながらも俺の腕に絡まるその姿は、頑として離さないという強い意思の表れであるかのようにも感じられた。

 彼女がここに来てから幾度となく俺にしがみついてきたが、思い返すと一度絡むとなかなか離れずいつまでも絡まっていたような気がする。振り解こうとしたことはないが、その締め上げる力は中々のものだった。

 眠り続けるその身体をそっと抱き寄せると、確かにまだ残るその体温が俺の身体を暖めた。少々かじかみ気味だった指先がゆっくりと解れていく。

 この時間がずっと続けば良いのに、と思った。

 サヤが目を開けてぼんやりと俺を見つめた。そしてまた顔を埋めると、のっそりと俺の背中に腕を回して身体を寄せてくる。

「なにしてるんですか…」

「部屋の中が寒かったから、お前で暖をとってた」

 えぇ?と言いながら彼女は宙を仰ぐような動作で手に風を感じると「ほんとだ」と言ってひらひらさせていた手を温めるように、俺の腕の間に差し込んだ。

「じゃあ私もそうします」

 そう言いながら脚まで絡ませてしがみついてくる。

「寒いですー。もっと真面目に私を温めてくださいー」

「はいはい…」

 おでこで胸をグリグリとされた俺は、先ほどよりも強めに布団の上から抱きしめた。

 それから、まだまだーと要求されて抱きしめ方を変えたりしているうちに小一時間経っていた。

「ほら、もう起きるぞ。今日は公園行くんだろ」

「そうだった」とサヤは顔を上げると、むくりと身体を起こす。

 俺も起き上がりベットから這い出ると、起き上がった体勢でぼうっとしていたサヤがこちらを向いて手を広げてきた。

「なんだ?」

「おんぶしてください」

「なんでだよ、お前は赤ん坊なのか?」

「おんぶぅー」

 こうなったら意地でも動かないと悟った俺は、仕方なくベッドの上に座って背中を彼女に明け渡す。

「いぇーい」と言いながら背中に絡みついてきて「キッチンへゴー」という言葉と共に頭をパシパシと叩かれた俺は、肩をすくめながら立ち上がって台所へと向かった。

「はいはい到着ですよ」

 下ろされたサヤは「どうも」という代わりに俺の尻を三度ポンポンと叩いてきたため、そのサヤの手をパシリと軽く叩いてやった。

「イチャイチャしていたせいでこんな時間になっちゃったので、朝昼兼用で公園でごはん食べませんか?」

 誤解を招く言い方はやめてほしい。

「イチャイチャ言うな。まあ、でもそうだな。半端な時間だから朝飯はいらないか」

「それじゃあお弁当作りますね。というか作りましょう」

 カレーとオムライスしか作れない俺に弁当スキルなんてないぞ。

 そう目で訴える俺の嫌そうな顔を見て「大丈夫です。今日のショウジさんはアシスタントなので」と言いながら俺の腕を引っ張る。

「さあまずは卵を二つ出してください」

 諦めた俺は、彼女の言葉に従って冷蔵庫から食材を出していくことにした。

 そこから俺は良いようにこき使われ、サヤの申し付けどおりにソーセージを出したりキノコを出したり野菜を洗ったり鶏肉を切ったり、下ごしらえの大部分をやらされていた。右往左往しながら文字通りに手一杯だったため気づかなかったが、衣をつけた鶏肉を鍋になみなみの油に放り込み、跳ねた油が俺の腕を少し焼いた時の痛みで我に帰った。

「なんかほとんど俺が作っていないか?」

「やっと気づいたんですか?頑張って走り回っている姿面白かったですよ」

 サヤは笑いを堪えるように腹を押さえている。やられた。

「大丈夫です。味付けは私がしたので焦がさなければ失敗しませんよ」

 そう言いながらサヤは鍋の中身に味噌を溶かしていた。

「もしかして味噌汁も持っていくのか?」

「いえ、これは作り置きです。私がいなくなっても明日までは大丈夫ですよ」

 私がいなくなっても。その言葉に俺は現実へと引き戻された。

 こいつは今日、確かに消えるのだろうか。わかったようなことを言っていたが実はサヤの勘違いで、このままずっとこのままでいられるということはないのか。

 サヤに声をかけようとした時、弁当箱を取ろうとしたのか、食器棚の方へ一歩足を踏み出したサヤは躓くように前のめりになり、転倒した。

「大丈夫か!?」

 駆け寄って抱え起こすと、サヤは鼻を掻きながら恥ずかしそうに笑う。

「すみません、大丈夫です」

 サヤがちらりと自分の足を見たような気がしたため俺もそちらに目を向けると、その足はわずかに痙攣するように震えていた。手で触れてみると、裸足だというのに、その表面は恐ろしく冷たかった。

「朝起きた時からちょっと痺れているような感じはあったんですけど…今はもうあまり感覚が無くなってきています」

 自分の足をさすったりつねったりしながら彼女は寂しそうな顔をしていた。

 昨日サヤは、俺がサヤを人間だと認識していたから、サヤは実体を持っていられると言っていた。恐らく、その魔法が解けてきているのだろう。

「なあ…どうにかならないのか?例えば、催眠術みたいなもので俺自身にお前は死んでいないと思い込ませたりとか…」

「多分、無理だと思います。アテはありますか?きっと、催眠術師を探している時間なんてないですよ。それにあなたが必死になるほど、逆にそれは私の死を認めてしまうことになると思います。まあ、どっちにしても間に合いませんよ」

 なにも言い返すことができなかった。死んでいないと思い込ませる、という思考で動いている時点で、それは死んでいることを肯定しているのだ。必死に策を練るということは、同時に必死で死を肯定しているということなのだ。

「さあ、もう時間があまりないことがわかったので、さっさとお弁当詰めて出かけましょう」

 その様子は、努めて明るく振る舞っているように見えた。自分を認識する最後の人間を失おうとしているのだから、確認するまでもなく怖いはずなのに。俺がこいつを支えるべき場面なのに、俺はこいつに気を使わせている。情けないことこの上なかった。

「どの容器だ?」

 食器棚を開けながらサヤの方を振り返る。

「一番上の段のその大きなやつと、真ん中の段の右のやつと…あとその隣のも取ってください」

「お前これ作り過ぎじゃないか?明らかに四人前くらいありそうな量だぞ」

「大丈夫です。余ったら今夜の夕飯になるので」

「そりゃあ助かる」

 歯を見せてサヤが笑っていたので、俺も歯を見せて笑い返した。

 残されたわずかな時間、最後まで俺はこいつの家族でいようと、俺は決めた。

 

 

 玄関の扉をそっと開けて、その隙間から外を覗きながら耳を澄ませる。

 大丈夫、外に誰もいないようだ。

 扉を開け放って外に出ると、出来るだけ音を立てないように扉を閉じる。普段あまり気にしていなかったが、扉にも築年数相応のガタが来ているようで、金属が擦れるような耳障りな音がした。泥棒が嫌がりそうな音と言う意味では高いセキュリティだ。もっとも、こんなボロアパートに侵入しようと考える泥棒がいるのかはわからないが。

 足を一歩踏み出すと、季節外れに冷たい風が頬を撫でつけた。肌の表面がピリピリとして、細い針で頬をつつかれているような感覚だった。

 そんな心も身体も凍えさせようとする冷気に対抗するように、俺は背中に背負った確かな熱源から温もりを享受する。

「寒くないか?」

 その熱源に話しかける。

「こんなにぐるぐる巻きにされた状態で、寒いわけないじゃないですか。むしろ暑いくらいです」

 首と顔にストールを巻かれて蓑虫のようになった、その隙間から声が聞こえてくる。表情を見なくても、口を尖らせながら喋っている姿が容易に想像できた。

「暑いんだったら、もう少し離れても良いんだぞ」

「お断りしますー」

 蓑虫が俺の首を締め上げてきた。

 出かける準備が完了するまでに、サヤの状態はさらに悪化していた。

 足が痺れて感覚が無くなっていたのが、次第に動かすことすら出来なくなり、その範囲は膝上あたりまで侵食してきているようだった。そのため、動くことすらままならなくなった彼女を俺はこうして背負っている。

「ショウジさん、手を握ってください」

 唐突なその要求に、つい聞き返すよりも先に手が動く。触れたその手は、時期外れの冷気に当てられていたことを考慮しても異常に冷たく、氷に触れているようだった。

「お前…ひどく冷たいぞ。まるで…」

 まるで、死体のようだ。と、言うわけにもいかず言葉を飲み込む。

「ああ、やっぱり…さっきから手の感覚がないなーと思ってたんですよね」

 カラッとした言い草に俺は胸が苦しくなる。

「参っちゃいますね。これじゃあお昼ご飯食べられないじゃないですか」

「俺が食べさせてやるから心配するな」

「それ、なんか恋人ごっこみたいで楽しそうですね」

 興奮したような鼻息が俺の首元にかかった。

 興奮して腹が減ったのか、背中を伝って低くうねる腹の音が聞こえくる。

「早くしないとな。背中のお姫様の腹の虫はもう限界みたいだ」

「そうです。早くしないと飢えて我慢できなくなって、いま目の前にある美味しそうな首をガブリと食べちゃいますよ」

 少し湿り気のある硬いモノの感触を、首元に感じた。

「よし急ごう。俺はこんなところで食われるわけにはいかない」

 後頭部でサヤの頭を押し除けながら、急ぎ足で目的地へと急ぐことにした。

 

 

 ようやく頂上が見えてきた。

 公園の敷地に入り、サヤのナビで公園内をしばらく歩き回ったあとに見つけた、上に向かってどこまでも続く階段を見た時には目眩がしたものだが、登り切ってしまうと意外とあっけなかったようにも思える。到着する頃には息も絶え絶えだったのだが、人ひとりおぶっているとはいえ、身体の小さいサヤの体重なんかたかが知れている。つまり、ただの運動不足だ。

 最初は「もうバテたんですか?」とか「運動不足ですよー」とか後ろから煽っていたサヤも、そのうち本気で心配し始め、しまいに背負われている負い目を感じてか引き返すことを提案してきたため、大人の威厳をかけて登り切ってやった。プライドをかけた戦いは時に大きな力を生むものだ。

 棒のようになった脚をなんとか動かし、適当に座れるところを探す。

 丘の上には俺たち以外には誰もおらず、見晴らしのいい景色が望める位置のベンチを確保する事ができた。

 ベンチのそばに屈み、まず背中のサヤをベンチに下ろした。サヤが背中から離れたことを確認して立ち上がろうとした時、「あ」という声が聞こえて振り返ると、サヤがバランスを崩して後ろにひっくり返ろうとしているところだった。俺は慌てて空中を漕いでいる彼女の手を掴む。

「大丈夫か?どうした?」

 彼女は眉をハの字にして困ったような顔をしている。

「なんか腰にチカラが入らなくて身体を起こしていられないんです…背もたれがあればよかったんですけど…」

 今座っているベンチは背もたれがないフラットなタイプのベンチだった。辺りを見回しても、ここから見える範囲では他のベンチも同様で、寄り掛かれそうなベンチはない。

「仕方ないな…」

 俺は身体の前側に抱えていたリュックを下ろすとベンチに座り、隣のサヤを抱え上げて俺の膝に座らせた。

「こうするしかないか」

「こうするしかないですね。仕方ない仕方ない」

 節をつけながら楽しそうに歌う様子に実はわざとなのではとも思ったが、完全に俺にもたれかかった状態を見て、冗談ではなく本当に自力で体勢を維持できなくなっているのだとわかった。

「飯食うか」

 リュックから弁当の入った大きめの容器を三つ取り出す。ひとつはおにぎりの入った容器、もうひとつは卵焼きやソーセージや肉炒めなどのおかずの入った容器、もうひとつはカットしたフルーツが入っている。

「おにぎり、中身なんだっけ。なにが食べたい?」

「三角っぽいのがシャケで、丸っぽいのが梅、俵型のはおかかです。シャケ食べたいです」

 三角の形をしたおにぎりを手に取り、サヤの口元に持っていく。それに齧りつこうとしたサヤが、開けていた口を閉じて苦笑した。

「なんか介護されているみたいですね、私」

「まあ実際介護されているからな。でも、介護している側も嫌な気分はしないぞ」

「それじゃあ存分に介護されることにします」

 彼女はおにぎりにかぶりつき、もくもくと口を動かし始めた。

「それにしても、こんなに景色のいいところがこの街にあったのは知らなかったな」

 俺も反対の手におにぎりを手に取ってかぶりつきながらそう言った。

 あまり高い建物がないため、ずっと遠くまで見通せる。夜に訪れるとライトの光もあってさらに美しい景色となるだろう。

「良いところでしょう。小さいときに見た景色から全然変わっていないです」

 俺とサヤは、その景色を見ながら出会ってからの五日間のことを話した。声をかけられているのに聞こえないフリで誤魔化していたこと。カップラーメンを出されて最初は強がっていたものの腹の虫は正直だったこと。遊園地では散々俺を振り回しておいて、お化け屋敷では半ベソかいていたこと。風呂に乱入してきた時、サヤも実は結構恥ずかしかったらしいこと。

「ジェットコースターに乗ったり。一緒に料理を作ったり。夜更かししてテレビを見たり。どれも一度やってみたいなと思っていたことでした。ショウジさんのおかげで、それが叶いました」

 サヤは俺の腕を抱えてもたれかかっている。気を抜くと、隙間からするりと滑り落ちていきそうだった。

「まだ、食うか?」

 彼女は首を横に振った。

「もう、お腹いっぱいです」

 嘘なのは明らかだった。まだいつもの半分くらいの量しか食べていない。

「腹いっぱいなのか?」

 んー、と唸ったあと「…ごめんなさい、嘘つきました。お腹いっぱいではないです。だけど、もう飲み込む力もあまりなくて」

 力なく笑う姿はまるで衰弱していく病人のようだった。

 彼女はこれから二度目の死を迎えようとしている。彼女がこんなに苦しい思いをするのは自分のせいではないのか、という気になって俺は奥歯を噛み締めた。

「なんか変なこと考えていませんか?」

 そんな俺の顔を見たのか、サヤは俺の心中を見透かしていた。

「昨日も言ったじゃないですか。私は五日間シンデレラでいられたんです。ボーナスタイムだったんですよ。ゲームをしていて、ボーナスタイムが終わるからって恨みを持つような人なんかいないじゃないですか。私は確かに幸せでした。そこをあなたに疑われてしまうと、そっちの方が私はとても悲しいですよ」

 そうだな、と自分に言い聞かせるよう呟き、俺はサヤの頭を撫でた。この五日間、幾度となく撫でてきた頭。撫でられるのが好きなようで、今まで撫でてもらえなかった分、おそらく本人は自覚がないだろうが、自然と頭を撫でやすい位置に持っていく癖ができていたようだった。そしてそんな頭に、俺はつい手を乗せてしまう。彼女を肯定するように。彼女の全てを受け入れるように。

「ショウジさん。最後にお願いがあります」

 最後、という言葉にドキリとした。事実、こうして話している間にもどんどんサヤの全身の力は抜けていっており、俺がしっかりと抱きしめておかなければ崩れ落ちてしまいそうだった。

「ちょっと、耳を貸してください」

 彼女に寄せた俺の耳に囁かれたのは、ある人物への伝言だった。

「でもお前…それでいいのか?もっと、こう…」

「いいんです。それが、私の気持ちです。悪いのは、全部あの人なので」

 それでも俺が負に落ちない顔をしていたからだろう。サヤは「じゃあ…」と言った。

「じゃあ、もう一つだけ、これが本当に最後のお願いです」

「ああ」

 俺は彼女の口元に耳を近づけて、その言葉を一言一句聞き漏らさないよう構えた。

「私と、キス、してもらえませんか…?」

 口元から耳を離してサヤの目を見る。少し顔を赤くしていたが、その目つきは本気なようだった。

「私…まだ男の人が好きとかよくわからないですけど、生きていられたら中学生になって、男の子と遊んで、その子のことが好きになって、恋愛したりしたかもしれない。そんな普通の女の子でいたかったけど、それももう出来ないから…」

 彼女の頬を一筋の涙が伝っていった。

「わかった。それじゃあ、目を閉じろ」

「目を閉じるんですか?」

「キスをするときのマナーみたいなものだ」

「そうなんですか。変なマナーですね」

 サヤが瞳を閉じる。俺はそっと、彼女と唇を重ねた。彼女の唇は、とても冷たかった。俺の心は熱を持った。時間にして五秒ほどだった。ゆっくり唇を離すと、サヤは瞳を開けた。

「すごく、暖かかったです」

 彼女の瞳から大粒の涙が溢れる。温められた氷が溶け出すかのように、止めどなく流れていく。その熱い雫が、俺の胸に落ちて消えていく。

「ショウジさん」

 気づけば俺の両眼からも涙が滴り落ちていた。上手く声が出ず「ん」とだけ、言葉を返した。

「ショウジさんのこと、大好きです」

 涙でぐしゃぐしゃになりながらも、彼女はこの五日間で一番の笑顔を見せた。

 俺は震える声帯を動かし、呻くようにしてなんとか声を出した。

「俺も…」

 そのとき突風が吹き、俺は思わず目をつぶってしまった。

 そして次に目を開けたときには、膝の上には誰もいなかった。

 伝える相手を失った言葉は風とともにどこかへ攫われていってしまい、消えた少女の冷たい体温だけが、確かに俺の腕の中に残されていた。

 

 

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