【Ⅸ】ー2 混迷

 ベイデルハルクに先導され、一つ奥の部屋へ足を踏み入れる。感じる抵抗はさらに強くなって、清らかで冷たい空気が、肉の内に沁み込んでくるような錯覚に陥る。


 その部屋には、ただ一つ、女神像が立っていた。白軍に入る以前から見慣れていた、白女神を模すという像だ。腰のあたりで切りそろえた真っ直ぐで長い髪、かすかに笑んでいるようにも見える口元、睫毛の長いきりりとした双眸——確かに、ルノアに似ているかもしれない。儚さをまとっている彼女と、厳かな雰囲気を放つ白女神とでは与える印象がかなり違うが、整った顔立ちには確かにどこか通じるところがある。親子、という繋がりを頷けるほどには。


「定番なのだがね、隠すにはこういう場所が最も都合がよいのだよ」


 ベイデルハルクが女神像へ向けて光呪を放つ。光に包まれると、女神像はすっと音を立てずに下がった。現れた空洞の先には、闇へと続く階段が見える。


 どくりと、鼓動が妙に身体の内側で響いた。この先には、何かとてつもない、そしておぞましいものが隠されている、そんな気がする。


「さあ、早く来なさい」


 闇の先へベイデルハルクが消えていく。後ろからユウラが近づいてきて、セトの背を押す。もう今さら逃げられないのは分かっている。それでも、この先へ進むのは拒みたかった。


 ユウラが動かないセトに代わって先を行こうとするが、彼女を先行させるわけにはいかない。腹をくくって足を踏み出した。闇に飲み込まれながら、階段を一つずつ、下へ下へと降りていく。降りるたび痛みの残る頭に響いた。そんな頭では、この先に何があるのか想像もつかない。


 だから、その光景を目にしたとき、セトにできたのはただ息を飲むことだけだった。感情も思考も何もかも置いてけぼりになるほどの衝撃に、一瞬、唐突に足場を失ったかのような浮遊感に襲われる。


 そうして、やっとのことで思う。


 これは、何だ?


「驚いたようだね、無理もない」


 そこには、何十という人間が並べられていた。もちろん、ただの人間ではない。一人残らず同じ容姿をした人間が、どこまでも並べられているのだ。しかも、その容姿には間違いなく見覚えがあった。


「……クスター副官?」


 目の前でリエタに肉塊と骨と血だまりとにされたあの哀れな副官の姿は、よく覚えていた。それはただ直近の出来事だったからというだけではなくて、何度も人の死にざまは目にしてきたが、あれほど残虐な殺され方をした人間はいなかったからだ。嫌でも鮮明に覚えている。


 緩く束ねた長い白髪、異常に白い肌、女性のごとく細い身——整ってはいるが特徴のない顔かたちまで、全て、記憶の中の彼と一致している。


 人形、だろうか。いや違う。胸から腹にかけてが、どの個体もわずかに動いている。呼吸している。生きている。蛇が這いずり回るような嫌な悪寒が、全身を襲った。これは一体、何なんだ? 何度自問しても、答えなんて見つかるはずがない。


「ああ、彼らはつい先日殉職したクスターと“同じ存在”だ」


「同じ存在?」


「彼も彼らも、私が実現の呪で生み出した人間なのでな」


 その返事を聞いても納得などできるはずがなかった。繰り返し反芻して、受け取った言葉が間違いではないか確認してしまうほど、現実離れしていた。


 人が人を造る? まさか。あり得ない。


「実現の呪で人間を実現した? そんなことが可能であるはずが」


「しかしまだ不完全でね。なぜか同じ姿かたちの人間しか作れないのだよ」


「……そんなこと、できるわけがない」


 ベイデルハルクが、薄く笑みを浮かべた。やはりどこか哀れみを含んだ笑みだ。


「ふむ、君もこのつまらない世界の枠に囚われているのかね。存在としてははみ出ているというのに」


「もうその程度の挑発では揺るがされません」


「そうか。では、証拠を見せてあげよう」


 ベイデルハルクは長い裾を引きながら静かに歩むと、ずらりと並ぶ一団の中から一人を連れて戻ってきた。間近で見てもやはり、クスターその人と何ら相違ない。違うのは、意志が宿っているかいないかだけの差だ。


「造るのには時間がかかるのでね。それを見せられないのは残念だが、これでも納得してもらえるだろう」


 もったいぶるようにゆっくりと上げた腕を、ベイデルハルクは連れてきた一人の額に当てた。生まれた光が、徐々にその人を覆い尽くしていく。強烈な光に目がくらみそうになって、セトは片腕をかざした。シルエットとしてしか認識できなくなった人影が、光の中で徐々に形を失って、溶けていく。小さくなって、小さくなって、最後は細い筋になって——そうしてついに、光だけを残して消える。


 信じられない、いや、信じたくない光景だった。ベイデルハルクの放つ光が去った後もしばらく、セトはさっきまでそれが立っていたはずの場所から目を離せないでいた。呼吸を忘れていたことに、苦しくなってから気がつく。思わず喉に手をやった。鼓動が早すぎて、胸が痛い。


「少し彼らに親近感が湧いたのではないか? 今の“全うな”という意味からかけ離れた生命という意味では、君と似ているだろう」


 平静を取り繕うだけの余裕を取り戻すまでには、とてもとても長い時間が必要だった。喉から降ろした手を、まだうるさい心臓に強く押し当てる。落ち着け、取り乱すな、動揺するな。


「これをオレに見せることに、何の意味があるんですか」


「人は人を造れない。誰が言い出したのか知らぬが、今ここに、この世の常識が一つ破られたわけだ」


 何を言わんとしているのか、すぐには理解できなかった。が、ベイデルハルクの視線がおもむろにユウラにずらされたのに気づいて、悟る。ベイデルハルクが静かに笑みを深めた。


「察しがいいな」


 ベイデルハルクは、世の常識が破られればユウラだって助けられる。だから協力しろと、そう言いたいのだ。


 揺るがされた。もう揺れないと決めていたのに、また、だ。自分の意志の弱さに愕然としながらも、一度強く歯を噛みしめて、セトは無理やりに返事した。


「……いえ。それでもオレは、あなた方に協力するつもりは」


 セトの返事など意に介さずに、ベイデルハルクは自ら造った、人の形をしたものを眺め渡して、にわかに恍惚の表情を浮かべた。


「私はね、与えられた世界で与えられたように生きていくのが嫌で嫌で仕方なくてね。ゆえに王国を壊し、女神を殺し、この土地に新たな版図と神とを造った。しかしそれも、この与えられた世界の中での一つの行為に過ぎないと気づいたのだ」


 声がだんだん震え、上ずっていく。狂気が滲んでいく。


「私はこの世界を壊し、新たな世界を造る。何の秩序にも制約にも縛られない、真の自由とやらを手に入れてみたいのだ。ああ……それは一体どのようなものだろうか? 想像しただけでもなんと甘美な——ああ、分かるかな、ほら、震えが止まらない。このことを考えるといつもこうでね。ふふ、ふはは、はははは。君も見てみたくはないか? そこはきっとこの上なく素晴らしい世界に違いない。楽園、というのかね。そこでなら私もきっと満足できるだろう。はは、はははははははははっ」


 狂った笑い声が、空間全体に木霊して響き渡る。頭痛がひどくなって眩暈がした。笑い声が耳を通るたび、自分の中から何かを奪い去っていく気がする。


「君も本当は、この世の秩序や常識という名の枠を憎んできたはずだ。違うかね? その枠が、君の母親や、君自身を苦しめてきたのだから。そうだろう?」


 確かに、そうだった。真実を知ってから、どれだけ自分の境遇を呪い、自分自身を恨んできたか分からない。しかし同時に、そういう場所に自分を——自分だけでなく母親も——追い込んだものをも、憎んできたと思う。確かにそうなのだ。


「そしてもう一つ。その枠が、後ろの彼女を救う望みも断っているのだよ。君が一番失いたくないと思っていたものを取り上げたのも、その枠なのだ。今君がこんなにも辛い目に遭っているのも——全て、このくだらなくて窮屈な枠のためだ。この枠を取り払いたいと、破壊したいと、君は思わないかね?」


 少し呆れながら笑うユウラの顔が、網膜に蘇った。それほど長い間見ていないわけではないのに、ひどく、それはもう本当に、懐かしくて仕方がなかった。


 ぐらりと、身体の芯が傾ぐ。辛うじて踏みとどまって、振り払うように言った。


「やめてください」


「私なら、それができるのだよ。あのランテとかいう青年の内にある力さえ手に入ればね。そして君が協力さえしてくれれば、彼はこの手に落ちる。そうしたら、すぐに私はこの枠を取り払うだろう。君も数々の鎖から解き放たれるし、彼女も救ってあげられる。なにせ、全てが意のままになる世界が誕生するのだから」


 ずっと、ずっとずっとずっと、ずっとずっとずっとずっとずっと、苦しかった。縋りつける相手も、同じ境遇を理解し合える存在も、いなかったから。求めてはいけないと思っていたから。


 何もかも忘れて、自由になれるのだと、したら。そして——彼女を取り戻せるのだとしたら。囚われた仲間を救い出せるのだとしたら。


 あまりに甘やかな誘惑だった。


 揺れる。揺れて、揺れて、止まらない。


「……やめてくださいと言ったはずです。あなたは何百年も、そんな荒唐無稽な夢物語を追ってきたんですか」


 不安定な心を必死に隠して、声を出す。滑稽なほど虚ろな声だった。


「夢物語だと思うかね? 今目の前でこの光景を見ても。君は先ほど実現の呪で人間を実現することは不可能だと言ったが、誰が不可能だと決めたのだ? 実際には不可能ではなかっただろう。この世界が壊せないと、新たな世界が造れないと、一体誰が決めたのだ? 不可能だという確証はあるか? そして彼女が救えないと誰が決めた? 君は答えられるか? 彼女を救いたくはないのか?」


「ユウラは必ず元に戻します。あなたの力を借りなくたって」


「君はこれまで憎むべき枠を取り壊せなかった。その君ごときが、今度に限って都合よく打ち勝てると思っているのか? それこそ夢物語ではないか? 君の方こそ現実味のない願望に縋りついて、事実から、その重みから目を背けているに過ぎない」


 ついに、言葉が出てこなくなった。また歯を噛みしめて、瞼を落とす。反論の余地のない正論だ。のしかかるように重い。


「迷いが生まれたようだね。辛そうな顔をしている。かわいそうに」


「……そんなふざけた誘惑に乗ったりはしません。ここで惑わされたら、あいつらに……何よりこいつに顔向けできない」


 ユウラを振り返る。取り戻したい。でも、もしここでベイデルハルクに屈して、その結果ユウラを助けられても、ユウラは喜ばないだろう。分かっている、のだけれど。


「そうかね? 君は、彼女が元に戻りたくないと思っていると考えるのか?」


「それは」


「違うだろう。そもそも、今の彼女にそんなことを考えられる心はない。たとえその後に抱かれるのが恨みであったとしても、彼女は感情を取り戻せるだけで幸せではないのか? 今のままでは、彼女は幸せにはなり得ない。なぜならば、今の彼女は無でしかないからね。無は無しか生み出さない」


 虚ろになった瞳は、セトの方を見ていても、焦点を定めることすらしていない。内側に何も秘めない瞳は、どこまでも残酷だ。


「セト中央本部準司令官。君は聡い。本当はもう分かっているのだろう? 彼に関わって、君に何ができた? 分からないなら教えてあげよう。君がしたことは、仲間二人を窮地に追いやったということだけだ。君が守ろうとしたランテという青年が持つ力は、時に私すら凌ぐものだ。彼には、最初から君の、その程度の力など必要なかった。それなのに君は要らぬお節介を焼き、その結果、二人の仲間の心と誇りを犠牲にしたのだ」


 耳を貸してはならない。分かっているが、言葉はどうしても頭で反響する。なぜならそれは、セト自身が考えていたことと同じだったから。


「できることを見誤ってはならない。君にできることは、君がやるべきことは、何だ? 矮小な人間の身で、多くのことをやろうとしてはいけない。手の届くことをやらなければ。君がやるべきことは、君が犠牲にした二人を救うことではないのか? それが君が負うべき責任ではないのか? 白軍北支部副長」


 沈黙が、最後の鎧だった。最大限努力して何も考えないようにして、頭の中で反響を続ける声を追い出した。小さく息をつく。それから、どうにか言った。


「……責任の取り方は、自分で選びます」


「そうか。よく考えなさい。だが断言しておこう。君は必ず私に従うことになるだろう」


「あり得ません」


「ふむ、勢いがないようだ」


 これ以上ここにいては、駄目だ。もう、きっと、耐えられない。


「ご用件は、これだけですね。失礼します」


 背を向けて、ユウラの手を引いて、セトは逃げるようにしておぞましい部屋を後にする。また逃げるのか、という声が追ってきたが、立ち止まってはいられない。


「……冗談じゃない」


 闇の立ち込める階段を早足で駆け上る途中、声が零れた。


 しっかりしろ、ここで屈するわけにはいかない、折れるな、まだやるべきことはたくさんある、前を向け、振り返るな、従う以外の方法で、ユウラとテイトを救わなくては——


 同じような言葉を思いつく限り並べて、どうにか壊れようとする自身を保つ。


「冗談じゃ——」


 ——セト。


 そのとき、闇の終わり、光射す場所に、一人分の人影を見た。


 鮮やかな赤い髪と瞳。それは、違うことなく、彼女のものだった。耳に馴染むその声も、聞き損じるわけがない、彼女のものだった。


 身体が、心が、震えた。


「ユウラ?」


 ——セト、助けて。


「……ユウラ」


 足を、止めるしかなかった。


 ——あたし、またあんたに会いたい。


 幻なのだと、たぶん分かってはいた。分かっていても、振り切って駆け抜けることはできなかった。耳を塞ぐことは、できなかった。


 ——ねえ、セト、あたし、またあんたに会いたいわ。会いたくて、会いたくて、どうしようもないの。それに、あたしにはまだやらなくちゃいけないことがある。だから、お願い。助けて。


 ここまで言うと、光の中で、ユウラはさながら女神のごとく優しく微笑んだ。


 ——セト、あんたは十分頑張った。あたし、知ってるのよ。あんたが最近、満足に眠れていなかったこと。誰も頼れなくて、独りで不安と戦い続けていたこと。怖かったわよね。苦しかったわよね。言葉では表せないくらい、あんたは辛かったんでしょう。あたし、知ってるわ。


 清らかな微笑を湛えたまま、彼女は一段、二段と階段を降りてくる。靴音が聞こえてきた。これは本当に、幻覚なのだろうか?


 ——あんたは、平原でランテに会ったとき、中央が求めていたのはランテだって気づいてしまった。優しくて責任感も強いあんたは、放っておけなかったのよね。だけどセトは、中央がどれだけ手強いか知っていたから、支部や町を巻き込みたくもなかった。だから、独りで全部背負おうとしたけど、それもできなかった。あたしたちがあんたについて行ってしまったから。そうすることで、あんたはランテだけじゃなく、あたしたちの命まで背負わなければならなくなったのよね。あんたを追い詰めて、ごめん、セト。


 セトのすぐ目の前まで降りてきたユウラは、そこで一度歩みを止めてこちらを見上げ、そうしてもう一歩、踏み出した。動かないでいる——動けないでいるセトの背に、そっと腕を回す。


 胸に身を預けてきたユウラは、とても、温かかった。


 ——もういいのよ。楽になって。全部、投げ出してしまえばいい。誰もあんたを怒らない。誰もあんたを恨まない。だって、セト、あんたはもう十分、できることはしたわ。ここまで、本当に、本当に、よく頑張った。後は、他の人間に任せてしまえばいい。ねえ、セト。あんたが本当にやりたいことは何? あんたは、あたしに会いたいと思ってくれる? あたしを助けたいと思ってくれる?


「ユウラ」


 ——あたし、信じてるわ。セトをずっと信じてる。あんたはきっとあたしを助けてくれる。そうよね、セト。


 ユウラの声が震えている気がして、だから支えようと手を伸べた。しかし、その手が彼女に触れる瞬間に、ふと胸が軽くなる。今の今まで確かにそこにいたはずの彼女は、もう、消えていた。


 やはり、幻覚だ。だってユウラはもう。分かっていても、崩れかかった意志を砕く最後の一石としては、十分だった。


「……ははっ」


 何が何だか、もう、訳が分からなかった。知らず、力のない笑いが零れ出す。


「はははっ」


 なぜ自分が笑っているのか、それさえ分からないのに、笑っている。身体から力が抜けて、セトはふらりと壁へもたれかかった。そのままずるずる座り込んで、割れるように痛い額に片手を当てる。意味の分からない笑いが止まらない。


「はっ……」


 息が続かなくなって、ようやく沈黙した。静かな暗闇に押し潰されてしまいそうだと感じる。


「なあ、ユウラ、オレは——」


 何がしたいんだろうな。


 どうすればいいんだろうな。


 もう、何も。


 分からない。


 佇んでいた抜け殻のユウラは、虚ろな表情でただ静かにセトを見下ろすだけで、どれだけ欲しても答えを返してくれることはない。


 闇の中でうずくまったセトは、何を考えるわけでもなく、そこに留まり続けた。これから行くべき場所さえ、彼にはもう、見つけられなかったから。

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