第47話(最終話)
花瓶に入れた向日葵の花弁がゴッホの描いたアルルの向日葵の絵の上にひらりと落ちた。僕はそれを拾うと日記の最後のページに挟み、静かに画集と日記を閉じた。
大阪の街に夜が来ている。所々に電灯が点灯し始めているのが窓から見えた。
(明日、妹の病室に行こう)
僕はそう思ってパソコンの電源を落とした。僕の夏の失踪事件はその結末も自分が知っていることは書き残すことは無く、終わった。
向日葵の少女のその後については、結局誰も知らなかった。あの仲間の中で唯一僕が彼女との連絡ができる立場に居たが、途中で医者になる夢を捨てたのもあって東京の館林先生を訪ねることは無かったし、また手紙を出すことも無かった。
それに何故か彼女の将来について聞くには何か憚るような感じがあったからだ。
(病気が彼女の命を奪っているかもしれない)
そう、暗く思う部分があったのが正直な気持ちだった。
夏のひと月がこの小説の為に過ぎたかもしれない。休みの週末は時間のある限りパソコンのキーボードを叩いた。
その作業も今日で終わった。
僕は暮れ行く大阪の街を眺めながらその後の皆の事を思った。
仲間の事を思い出すのは久しい。
勝幸はその後、福岡に出てロックバンドを結成した。いがぐり頭であった過去等、皆無のような縦に真っ直ぐに伸びたツンツン頭でエレキギターをかき鳴らしていると聞いている。
勝彦はお菓子好きを生かしてパティシエを目指していたが、どこで道を変えたのか今は普通の公務員として生活している。
ツトムはその後、甲子園へ出た。それもあのゲン太とバッテリーを組み、準決勝まで進んだ。その後は東京に出て会社員をしていると聞いている。
でも今ではもう彼等との交流は久しく絶えている。
大人になるとそう言うものなのかもしれない。
僕は改めて小説を書いてそう思った。
(そう思うと少年時代と言うのは人生において本当に奇跡のような時間だ)
僕は手元に寄せた瓶を振った。中で向日葵の種の音がした。
(待てよ・・ひょっとすると、できるのかな)
僕は急に何かを思いついて靴を履くと、この前向日葵を買った花屋に向かい、店の奥に居る若い女性店員を見つけて声をかけた。
「ねぇ・・・ちょっと聞きたいのだけど」
店員が僕の方を見た。
「何でしょう?」
「いや実はね・・聞きたいのだけど。これ長い間瓶の中に入っていた向日葵の種だけど・・」
「はい・・」
「これって今土に蒔いたら咲くのかな?」
僕の質問があまりにも突拍子がないものだったのか、口をぽかんと開けて僕を見た。
「どう?分かるかな?」
やがて僕の顔を見て笑い出した。
「さぁそれはどうか・・それどれくらい前の種ですか?」
「これ・・・?うーん。二十年かな?」
店員が笑う。
「じゃ・・難しいでしょうね」
「やはり・・ね」
僕はここで冷静になって息を吐いた。
「でも、うちのオーナーならできるかも」
「かも?」
「ええ。うちのオーナー何でも子供の頃瓶に入れて向日葵の種を海に流したことがあるらしいんです。それでその時の種を今でも思い出として大事にしていて」
「種だけを?」
「あ・・・手紙もとか言ってたかな?ほら、聞いたこと無いです?ボトルメールとかメッセージとかいうやつ」
「うん・・聞いたことはある」
「それで最近、その時の種をふと土に蒔いたら向日葵が咲いたっていったから」
驚いて僕は言った。
「すごいね、君のオーナー。今いるのかな?」
「いますけどね。あ、でもね。ちょっと伺いますけど。うちのオーナー美人なんですよね。最近も変な人が来てストーカじゃないかと心配してるんです」
そう言うと店員が僕をじっと見た。
「まさか?違いますよね?」
僕は大慌てで手を振った。
「違う!違う!僕は唯の人だよ」
ふーんと言うような顔して店員がじろりと僕を見る。
「信じてもらえない?」
僕の顔をしばらく見てから店員が言った。
「まぁ大丈夫そうに見えるし、良いかな。じゃ、オーナー呼んできますよ」
そう言って店員が店の奥に声をかけた。
「オーナー、ねぇオーナー」
店員が呼ぶ声を聞きながら瓶を振って向日葵の種を振る。
(へぇ・・子供の頃って皆同じこと考えるものなんだな)
そう思った時、
「ヒナコさん!」
店員が呼んだ名前に思わず僕は思わず(えっ!)と叫んだ。
慌てて店員に声かける。
「君、オーナーってヒナコさんと言うの?」
「そうよ。お知り合い?」
僕は首を半分かしげて言った。
「いや、多分知らないと思うけど、オーナーってどちらの人?」
「さぁね。ご自分で聞いてみたら?」
店員が言った。
店の奥に入るのと入れ違いに奥から女性が出て来て、小さく店員と言葉を交わした。
女性の手には数本の向日葵が握られていて、その姿を僕が見た時、にこりと微笑した。
「二十年昔の向日葵の種を咲かせられるか、ですか?」
やがて女性は僕の前に姿を現した。僕が手にした瓶を手にすると、何かを思い出したように言った。
「私もこれと同じものを持っていますよ。手紙と向日葵の種の入った瓶」
僕は言った。
「それは・・拾ったものですか?」
彼女はそれに答えず、僕の顔を見た。
「東京に居た頃、良く手紙と一緒に向日葵の種を瓶に入れて海へ流し、どこに届くのかなと空想して遊んだものです」
「そうですか」
「ええ、本当なら手紙だけでいいですけど・・漂着した瓶を拾った人が、手紙を読むだけなんてなんか寂しいので・・」
軽く肩をすくめると、小さく舌を出した。
「色んな国で向日葵を咲かせてくれたらいいなぁと。それで一緒に咲かせ方も手書きで書いて流しましたけどね」
彼女がくすりと笑う。
僕も笑いながら言った。
「どうして向日葵を?」
「さぁ・・どうしてかな。何となく向日葵って元気にしてくれません?ほら・・見る人の心を?」
手にした向日葵を見つめて微笑む。
「そうですね。確かに」
僕は頷いた。
「さぁもし良ければ中に入られませんか?丁度私が咲かせた向日葵が一輪あるのです。奇跡の一輪です。もしよければその種をお借りしても?もしかしたら、向日葵を咲かせることができるかもしれませんから」
僕は瓶を握りしめて彼女に言った。
「分かりました。もし咲いたら電話を頂けます?」
店にある紙とペンを取って自分の名前と電話番号を書いた。
それを彼女に渡した。
「では、中へ」
僕はそう言って店の奥へ入ろうとした時、彼女が言った。
「ナツオ・・さん?」
僕は振り返った。僕が渡した紙から目を離して彼女がこちらを見ている。
「失礼ですが、ナツオさんはどちらのかたですか?」
僕はそれには答えず、にこりとして言った。
「その瓶を僕は少年の頃、拾ったのです。宮崎のとても小さな川で。それはゆらゆらと揺られて夏を過ごす僕達の小さな網に引っ掛かったのです。それを拾った僕達はやがて旅に出たのです。それは・・」
僕はそこで言葉を切った。
「向日葵を探す、そう、向日葵を探す旅でした。それはとても美しい出来事でした」
「そうでしたか」
彼女はそう言うと僕を見た。
「私も遠い記憶でそんなことがあったような気がします。父は医者で日本中いろんなところを転勤していましたから」
彼女はそれ以上何も言わなかった。
「とても古い昔の思い出です」
「そうですね。僕も古い記憶です。お互いですね」
彼女は微笑して頷いた。
その微笑の意味と答えを僕は探すかどうか、しかし僕はそんなことを考えることはやめて彼女が咲かせたという一輪の向日葵を見た。
彼女が僕を見ている。
それだけで僕は何故か答えを知ったような気がした。
それで満足だった。
それは僕がこの失踪事件について隠すべき秘密が全て無くなったことを意味した。
後は妹の待つ病室へ、
僕の書きあげたばかりのこの小説を届けるだけだ。
そう思った時、
不意に妹の何気なく言った一言が鮮やかに脳裏に蘇った。
――ほら、私さぁ…昔盲腸で入院してたじゃない?
その時、病室で一緒だった子がね、私に向日葵をくれたのよ…
(…そうか、そうだったのか)
静かに左右に首を振ると僕は瞼を伏せたまま口元に微笑を浮かべた。
妹の声無き言葉が僕の心の花弁を揺らした。
もし
「兄さん、向日葵の少女に会えたの?」
と、妹に聞かれたら僕は言うに違いない。
――あの奇跡の向日葵がもう一度咲いたら分るよ。
僕は瞼を開けると彼女が咲かせた一輪の奇跡の向日葵に静かに触れた。やがて黄色い花弁から僕の指が離れると、どこからか声がした。
それは「ナッちゃん」と僕を呼ぶあの向日葵の少女の声だった。
(了)
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